ep42.マイトマイン
夜は、あまりにも静かだった。
音がないわけじゃない。
風は吹いているし、遠くで何かが軋む音もする。
それでも。
この場所だけが、世界から切り離されたみたいに静まり返っていた。
街灯の下。
青原が、煙草を指に挟んでいた。
火は、もうついている。
赤い先端が、小さく明滅している。
その隣に――
もう一人の青原が立っていた。
煙草を持っていない青原。
同じ顔。
同じ体格。
同じ姿勢。
違うのは、煙の有無だけだった。
「……青原さん?」
星崎天音の声が、夜に溶ける。
理解が追いつかない。
だが、理解しようとしてしまう。
煙草を持った青原が、ゆっくりと煙を吐いた。
白い煙が、天音の方へ流れる。
「天音」
いつもの声だった。
聞き慣れた声。
何度も聞いてきた声。
「そいつは偽物だ」
煙草を持ったまま、もう一人の青原を顎で示す。
「確保してくれ」
言葉は、静かだった。
焦りも、怒りもない。
ただ、事実を述べるだけの声音。
天音の心臓が、強く脈打つ。
視線が、煙草へ落ちる。
その光。
その煙。
その仕草。
そして。
記憶。
――学生の前では吸わないって決めてるからね。
あの日の言葉。
あの店の匂い。
コーヒーの湯気。
青原の笑顔。
天音は、ゆっくりと息を吸った。
そして。
煙草を持った青原から、距離を取る。
一歩。
もう一歩。
そして。
煙草を持っていない青原の前に立った。
守るように。
煙草を持った青原の目が、わずかに細くなる。
「……天音」
呼びかける声。
それでも。
天音は、動かなかった。
「青原さんは」
声が震える。
それでも、止めない。
「学生の前で煙草を吸わない」
沈黙。
煙が、夜に溶けていく。
その沈黙の中で。
煙草を持った青原が――
ふっと笑った。
それは。
あまりにも。
あまりにも、“青原の笑い方”だった。
「……そうか」
小さく呟く。
責めるでもなく。
怒るでもなく。
ただ。
受け入れるように。
その瞬間だった。
煙草を持っていない青原――
その姿が、
わずかに“滲んだ”。
天音の目の前で。
空気が歪む。
輪郭が揺れる。
そして。
そこにいたのは――
片桐りりだった。
黒髪の少女。
静かな目。
しかし。
その足元の影は。
青原の形をしていた。
「……マイトマイン」
煙草を持った青原が、静かに言った。
初めて。
その声に、感情が混じる。
「そうか」
わずかに、息を吐く。
「裏切り者は、君だったか」
りりは、笑わない。
ただ、見ている。
まっすぐに。
青原を。
「ごめんね」
小さく言う。
「でも、これは必要なことなの」
その瞬間。
空気が変わった。
天音が振り返る。
煙草を持った青原が、まだそこにいる。
消えていない。
逃げてもいない。
ただ。
煙草を、ゆっくりと地面に落とした。
赤い火が、闇に転がる。
そして。
天音を見る。
その目は――
いつもの目だった。
「天音」
静かに言う。
「君は、間違っていない」
その言葉が、
胸に刺さる。
理解が追いつかない。
何が正しくて、
何が間違いなのか。
わからない。
青原は、続けた。
「だから」
一拍。
「そのまま進んでくれ」
その言葉は。
命令ではなかった。
願いだった。
次の瞬間。
りりの影が、広がった。
青原の足元を飲み込む。
黒い影。
深い影。
底の見えない影。
パンドラBOXが、静かに開く。
空間が歪む。
重力が、反転する。
青原の体が、
ゆっくりと沈み始める。
それでも。
抵抗しない。
ただ。
最後まで。
天音を見ていた。
責めない目。
怒らない目。
信じている目。
その視線が。
天音の心に、
消えない傷を残した。
そして。
青原は、
完全に、
闇の中へ消えた。
音もなく。
光もなく。
ただ、
煙草の残り火だけが、
静かに、
消えていった。
夜は、
何もなかったかのように、
静まり返っていた。




