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パレット  作者: 青原朔
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ep40.裏切り者

拠点は静かだった。


東京の外縁。

廃墟の中に作られた、仮設の観測拠点。


壁はひび割れ、

天井は半分崩れ、

夜風がそのまま入り込んでくる。


それでも。


ここはまだ、“安全”だった。


少なくとも――今は。



「……おかしいね」


最初に口を開いたのは、青原だった。


手元の端末を見つめたまま、動かない。


その画面には、パンドラの箱の使用履歴が表示されている。


座標ログ。


開閉履歴。


アクセス権限。


本来なら、

完全に管理されているはずの情報。


「どうしたの?」


天音が隣に立つ。


青原は答えず、画面を横にずらした。


「このログ」


短く言う。


「僕が開いてない座標がある」


空気が止まった。


「……それって」


時矢が言いかける。


「誰かが、勝手に見たってこと?」


青原は頷いた。


「権限レベルは、僕と同じ」


「つまり――」


その続きを、誰も言わなかった。


言う必要がなかった。


この場にいるのは、限られた人間だけだ。


星崎天音

時矢

火野亜蓮

片桐りり

パンドラ

そして――青原


この中の誰か。


あるいは。


“この中にいるはずのない誰か”。



「……座標は?」


天音が聞く。


青原は、画面を拡大した。


表示された文字列。


それは。


「――東京」


その一言だった。



沈黙。


風が吹く。


その時だった。


「……ねぇ」


小さな声。


全員が振り向く。


パンドラだった。


箱を抱えたまま、

動かない。


黒い箱の表面が。


微かに。


脈打っていた。


ドクン。


ドクン。


まるで、心臓のように。


「……呼ばれてる」


パンドラが言った。


「え?」


亜蓮が聞き返す。


パンドラは、箱を強く抱きしめた。


「向こうから」


「来てって」


その声には。


恐怖はなかった。


ただ。


確信だけがあった。



「バビロン……」


青原が呟く。


その名を。


初めて。


はっきりと。


口にした。



その時。


「……ふーん」


別の声。


軽い。


柔らかい。


振り向く。


そこにいたのは――片桐りりだった。


いつの間にか。


壁の上に座っている。


足をぶらぶらと揺らしながら。


「面白くなってきたにゃ」


誰も驚かなかった。


それが彼女の能力だからだ。


キャットコピー。


猫の能力を身体に複製する。


足音を消す。


気配を消す。


高所に立つ。


夜に溶ける。


そして――


見られるまで、存在しない。


「……りり」


天音が呼ぶ。


りりは、にこっと笑った。


「そんな顔しないでよ」


「私はちゃんと仲間だよ?」


その言葉は。


軽かった。


軽すぎた。


だからこそ。


誰も、すぐには返事ができなかった。


りりは、壁から飛び降りる。


音はしない。


完全に。


無音。


「東京かぁ」


楽しそうに言う。


「嫌な匂いするね」


鼻をひくひくさせる。


「大きいのがいる」


一拍。


「王、じゃない」


「もっと深い何か」


青原が、りりを見る。


その目は。


観察者の目だった。


信じてもいない。


疑ってもいない。


ただ。


見ている。


りりは気づいている。


でも。


何も言わない。


ただ、笑う。


「どうするの?」


首を傾ける。


「行くの?」


その問いは。


選択だった。


逃げるか。


進むか。


青原は、パンドラを見る。


箱はまだ、脈打っている。


呼んでいる。


確実に。


「……行くしかない」


青原が言った。


「これはもう」


「始まってる」


誰も反論しなかった。


りりだけが。


小さく。


誰にも聞こえない声で。


「始まってるのは」


「ずっと前からだけどね」


そう呟いた。


にゃ、と。


小さく笑いながら。



この夜。


青原達は知った。


誰かが先に東京を見ていること。


そして。


バビロンが、彼らを呼んでいることを。


そして――


その場にいた全員が。


まだ気づいていなかった。


裏切り者が。


すぐ隣にいることに。



____



拠点の中は、寝息だけがある。


時矢は壁にもたれて眠り、亜蓮は床に広げた毛布の上で横になっている。パンドラは箱を抱えたまま、座った姿勢で目を閉じていた。


星崎天音だけは、まだ起きていたが、やがてその瞼もゆっくりと落ちた。


そして。


完全な静寂が訪れる。


その静寂の中で。


――ひとつ。


音もなく、影が動いた。


片桐りりだった。


足音はない。


呼吸すら感じさせない。


ただ、そこに「いる」という事実だけが、静かに存在している。


彼女は壁際に立ち、全員の様子を順番に見た。


時矢。


亜蓮。


天音。


パンドラ。


そして。


誰も起きていないことを確認すると、小さく息を吐いた。


「……よく寝てる、にゃ」


小さな声。


それは、誰に聞かせるでもない独り言。


りりは窓の方へ歩いた。


カーテンの隙間から、外を見る。


夜の街。


何も動いていないように見える。


でも。


りりの瞳は、違うものを見ていた。


空気の揺らぎ。


影の密度。


世界の“裏側”の気配。


「……いるね」


小さく呟く。


そして。


りりの体が、ふっと軽くなる。


キャットコピー。


能力名の通り、それは猫の能力を再現する力。


筋肉密度の最適化。


骨格の柔軟化。


重力負荷の分散。


それにより――


音を消す。


気配を消す。


存在すら、薄める。


彼女は窓枠に手をかけた。


普通の人間なら、そこから外へ出ることはできない。


だが。


りりの体は、静かに、するりと外へ滑り出た。


音は、ない。


完全に。


重力すら、彼女を認識していないかのように。


外壁を伝い、上へ登る。


三階。


四階。


屋上。


そこに立つ。


風が吹く。


長い髪が揺れる。


りりは、夜の東京の方角を見た。


遠い。


だが。


確かに。


何かが動いている。


「……始まってる」


小さく。


嬉しそうに。


呟いた。


その顔は。


拠点で見せるものと、同じだった。


穏やかで。


優しくて。


そして。


どこか、遠い。


「青原」


名前を呼ぶ。


それは。


敬意でも。


信頼でもない。


確認だった。


「……どこまで気づいてるの?」


返事はない。


当然だ。


ここには、誰もいない。


りりは、少しだけ笑った。


「まぁ、いいか」


「どっちでも」


その言葉は、軽かった。


本当に。


どうでもいいかのように。


彼女はしゃがみ込む。


猫のように。


膝を抱える。


「もうすぐだよ」


囁く。


「全部」


その瞳は。


夜よりも深く。


底が見えなかった。


数秒。


風だけが流れる。


やがて。


りりは立ち上がる。


「戻ろ」


小さく言う。


その瞬間。


彼女の姿が、影に溶けた。


跳躍。


音もなく。


着地。


そして。


何もなかったかのように、窓から中へ戻る。


誰も起きていない。


誰も気づいていない。


りりは元の場所に座った。


壁にもたれ。


目を閉じる。


呼吸を整える。


完全に。


「いつもの片桐りり」に戻る。


そして。


小さく。


本当に小さく。


誰にも聞こえない声で呟いた。


「……楽しみ、にゃ」


夜は、何も知らないまま。


静かに、進んでいった。

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