ep39.キャットコピー
裂け目が閉じた後。
部屋の空気は、わずかに揺れていた。
空間を折り曲げた余韻。
人器の力が通った後にだけ残る、見えない歪み。
片桐は、その歪みの中心に立っていた。
誰にも気づかれず。
静かに。
呼吸を整える。
(……問題なし)
耳を澄ます。
空気の振動。
心臓の音。
布が擦れる音。
全てが、鮮明に聞こえる。
人間の耳じゃない。
猫の耳だ。
正確には――
猫の“感覚”。
片桐の能力。
キャットコピー。
それは、“猫を再現する能力”。
ただの身体強化ではない。
ただの身体変化でもない。
もっと曖昧で、
もっと正確なもの。
(見て、覚えて、なぞる)
それだけ。
一度でも観察した対象の「動き」「感覚」「反応」を、
自分の身体に再現する。
骨格ではなく、
筋肉でもなく、
もっと深い部分。
“反射”をコピーする。
だから。
音が分かる。
気配が分かる。
視線が分かる。
敵意が分かる。
(便利だよね)
小さく笑う。
口の中でだけ。
人間の身体のまま。
でも、
人間よりも静かに立てる。
人間よりも正確にバランスを取れる。
人間よりも速く、
人間よりも滑らかに動ける。
そして何より――
(落ちない)
高所でも。
不安定な場所でも。
死の縁でも。
必ず、“正しい位置”に戻れる。
それが猫の本能。
それを、
再現しているだけ。
「……にゃ」
また漏れた。
すぐに唇を閉じる。
癖だ。
コピーは、完全じゃない。
感覚が強くなるほど、
境界が曖昧になる。
どこまでが自分で、
どこまでが再現なのか、
分からなくなる瞬間がある。
でも。
それでいい。
(私は)
青原を見る。
壁にもたれ、
静かに思考している男。
(ちゃんと見てる)
あなたを。
その選択を。
その終わりを。
全部。
キャットコピーの本質は、
強くなることじゃない。
勝つことでもない。
ただ――
(見届けるための能力)
観察し、
理解し、
再現する。
それだけ。
だから片桐は、戦うためにいるわけじゃない。
守るためでもない。
ただ。
そこにいる。
最後まで。
「片桐さん」
天音の声。
片桐はすぐに振り返る。
笑顔を作る。
自然に。
完璧に。
「なに?」
誰も、
気づかない。
その瞳が。
人間のものより、
ほんの少しだけ。
光を多く拾っていることに。
____
片桐は、空気の流れを読んでいた。
誰も気づかないほどの、わずかな変化。
扉の向こう。
コンクリートの向こう。
もっと遠く。
「……来る」
小さく呟いた。
天音が反応する。
「なにが?」
片桐は耳の奥の感覚に集中する。
音じゃない。
振動。
床を伝ってくる、微細な揺れ。
「三人」
間。
「足音、重い」
青原が顔を上げた。
「距離は?」
片桐は目を閉じる。
数秒。
静止。
そして。
「二十秒」
目を開ける。
「階段、上がってる」
時矢が驚いた顔をした。
「もう分かるの?」
片桐は肩をすくめる。
「分かるよ」
当然のように。
「見なくても」
それがキャットコピーの基本だった。
視覚に頼らない。
気配を読む。
空気を読む。
生き物の“存在”を読む。
パンドラが箱を抱き直す。
「敵?」
片桐は首を横に振った。
「違う」
少しだけ笑う。
「迷ってる」
「ここが正しいか分かってない」
つまり――
追跡者ではない。
青原が短く息を吐いた。
「なら問題ない」
片桐はもう一度、耳を澄ませる。
足音が止まる。
躊躇。
引き返す気配。
「……行った」
静寂が戻る。
時矢が感心したように言った。
「すごいな」
「それがキャットコピー?」
片桐は、少しだけ考えてから答えた。
「うん」
嘘は言っていない。
「猫ってさ」
指先で空気をなぞる。
「全部知ってるんだよ」
「見なくても」
「聞かなくても」
「そこに“いる”って分かる」
そして。
小さく。
「だから真似してるだけ」
にゃ、と。
無意識に、また漏れた。
火野が笑う。
「なんだそれ」
片桐も笑った。
自然に。
完璧に。
「便利だよ?」
誰も疑わない。
誰も気づかない。
その能力の本質が、
「真似すること」
そのものだということに。
片桐は視線を落とす。
自分の手を見る。
細い指。
人間の手。
でも。
この手は、
何にでもなれる。
何にでも。
(ちゃんと見てるよ)
心の中で呟く。
誰にも聞こえない声で。
にゃ。




