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パレット  作者: 青原朔
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-第7章- 水卜葵

第7章・水卜葵


_______回想


最初に濡れたのは、手だった。


ペットボトルを握っていた右手が震えて、

その拍子に、ふたが外れた。


水は、跳ねた。

狙ったわけじゃない。

向けたわけでもない。


ただ――

そこに、いた。


「……あ?」


低い声。

振り向いた先で、不良が目を細める。


制服の胸元に、濡れた跡。

一瞬の沈黙のあと、周囲の空気が変わった。


「おい、今の見たか?」


喉が鳴る。

息が、うまく吸えない。


「す、すみません……!」


謝った。

すぐに。

頭を下げて、言葉も選んで。


でも、それは間違いだった。


「は? 水かけといて、それ?」


一歩、距離が詰まる。

逃げようとして、足がもつれる。


——だめだ。


能力が、ざわつく。

水が、意思を持つみたいに指先に集まる。


止めなきゃ。

使っちゃだめ。


そう思えば思うほど、

水は言うことを聞かなかった。


「ちょ、やめ――」


言葉の途中で、視界が揺れた。


「そこまでにしろ」


低く、でもはっきりした声。


気づいた時には、

誰かが、私の前に立っていた。


背中しか見えなかった。

少し猫背で、無謀そうな立ち方。


「女の子一人に、何人がかりだよ」


不良が舌打ちする。


「関係ねーだろ」


「ある」


短く言い切る。


その横に、もう一人。


「……ごめんね、葵」


知らないはずの声が、

なぜか、胸に落ちた。


振り向いた彼女は、笑っていた。

怖いはずなのに、穏やかに。


「大丈夫。もう、平気だから」


その瞬間だった。


張り詰めていたものが、

全部、切れた。


足から力が抜けて、

視界が滲む。


「ちょっと、立てる?」


背中の人――神木ハルが、振り返る。


「……無理なら、支えるけど」


その言葉に、

どうしてか、泣きそうになった。


助けられた、というより。


——選ばれた。


そう思ってしまった。


その日から。


私は、

彼の背中を見失わないように歩いた。


隣にいた星崎アマネのことも、

ちゃんと見ていたはずなのに。


なのに。


記憶の中で、

彼が振り返る瞬間だけが、

何度も、何度も、鮮明になる。


——助ける人。


誰かを救える人。


だったら。


もし、あの場所に、

私だけがいたなら?


その問いが、

胸の奥で、黒く芽吹いたことに、

当時の私は、気づいていなかった。

________


放課後の廊下は、やけに長く感じた。


靴音が反響する。

人の声もある。

笑い声も、雑談も、いつも通りだ。


——なのに。


どこかで、噛み合っていない。


「葵」


呼ばれて、足を止めた。

振り返ると、神木ハルが立っている。


表情は落ち着いている。

声も、いつも通りだ。


それが、少しだけ怖かった。


「……なに?」


「昨日のこと」


単刀直入だった。


「夜、何があった?」


問い詰める口調じゃない。

でも、逃げ道も用意していない。


私は一瞬、言葉を探した。


「……覚えてない」


本当だ。

嘘じゃない。


「途中までは、覚えてるんだけど」


ハルは頷いた。

それから、少しだけ視線を落とす。


「氷の魔法」


短い言葉。


「使った覚え、ある?」


「ない」


即答だった。


「……そう」


それだけ言って、彼は顔を上げる。


「じゃあ、次」


次。


その言い方が、胸に引っかかった。


「星崎さんのこと」


空気が、一瞬で冷えた。


「昨日、喫茶で」


ハルは続ける。


「名字、言ったよな」


心臓が、跳ねる。


「……言ってない」


反射的に出た言葉だった。


「俺も、言ってない」


ハルの声は、静かだった。


「名前だけだ」


逃げ場が、なくなる。


「なのに」


彼は、一歩近づいた。


「どうして、知ってる?」


——あ。


胸の奥で、何かがほどける音がした。


「……星崎、だよね」


口が、勝手に動いた。


言った瞬間、

ハルの目が見開かれる。


「あ、違った?」


首を傾げる。

笑みが、浮かぶ。


「でも、合ってるでしょ」


沈黙。


その隙間に、

自分じゃない何かが、静かに立つ。


——あーあ。


声は出ていない。

でも、確かに聞こえた。


——バレちゃったじゃん。


「……葵?」


呼ばれている。

分かっている。


でも、今は。


「ねえ」


私は言った。


「君さ」


言葉を選んでいるつもりはなかった。

ただ、事実を並べているだけだった。


「星崎さんのこと、考えるときだけ」


一拍。


「目、変わるよ」


ハルが、何か言いかけて止まる。


「ずっと、見てた」


声が、冷たい。


「隣にいても」


「呼ばれても」


「君の視線は、いつも」


言葉が、自然に続く。


「いない人のほうに、向いてた」


これは怒りじゃない。

責めてもいない。


ただ、

隠す必要がなくなった感情。


「……それでも」


ハルは、低く言った。


「それでも、俺は」


「分かってる」


被せる。


「だから、言ってる」


一歩、踏み出す。


「私は、ここにいる」


胸の奥が、ひどく静かだった。


「今も」


「前から」


「これからも」


ハルは、何も言えなかった。


その沈黙が、答えだった。


——ほら。


——言ったでしょ。


声は、満足そうだった。


私は一度、瞬きをする。


次に開いた視界には、

いつもの廊下がある。


人も、音も、変わらない。


「……行こ」


そう言って、歩き出した。


ハルは、少し遅れて、ついてくる。


その距離が、

もう戻らないことを、私は知っていた。

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