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パレット  作者: 青原朔
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ep36.静かな夜明け

夜は、音が少なすぎた。


東京の空は死んでいる。


星がないわけじゃない。

見えているのに、遠すぎる。

まるで、ここだけが世界から切り離されたみたいだった。


ハルは、崩れた高速道路の下に腰を下ろしていた。


焚き火は小さい。

燃やせるものが少ないからじゃない。

大きくする必要がなかったからだ。


火は、生きている証明みたいなものだ。

消えていなければ、それでいい。


パチ、と小さく音がした。


誰も喋らない。


少し離れた場所で、久我が見張りをしている。

背中を向けたまま、一度も座っていない。


眠らないつもりだ。


須川は瓦礫の上で目を閉じているが、

指は銃のそばにある。

完全には休んでいない。


葵は、火を見ていた。

その瞳の奥で、もう一人も同じように火を見ているのが分かる。


魅魅は――いない。


いや、正確には、見えないだけだ。

気配はある。


影のどこかで、確実にこちらを見ている。


守っているのか。

観察しているのか。

それとも、どちらでもないのか。


分からない。


分からないまま、ここまで来た。


ハルは空を見上げた。


「……バビロン」


口に出してみる。


その名前だけが、やけに重かった。


願いを叶える場所。


死者すら取り戻せる場所。


そんなものが、本当にあるのか。


いや。


あるから、ここにいる。


統がいる。

零がいる。

魅魅がいる。


王が存在する世界で、

それだけが嘘のはずがない。


——願いを叶える、か。


ハルは、自分の手を見る。


黒を取り込んだ手。

王を宿した手。


人間のままじゃない手。


「……俺は」


言葉が止まる。


願いはある。


あるはずだ。


でも。


それを叶えた瞬間、

自分が自分でいられるのか、分からなかった。


その時。


「眠れないの?」


声。


振り返らなくても分かる。


「……魅魅か」


返事はない。


代わりに、すぐ隣の瓦礫に、重さが加わった。


いつの間にか、そこにいた。


ツインテールが、夜風に揺れている。


彼女は、火を見ていた。


「みんな、怖い顔してる」


小さく笑う。


「壊れる前の顔」


ハルは何も言わない。


魅魅は続けた。


「ねぇ、ハル」


指先で火の上をなぞる。

触れていないのに、炎が揺れた。


「まだ戻れるよ」


その言葉は、甘かった。


誘惑じゃない。

事実としての甘さ。


「バビロンに入らなければ」


「朔を起こさなければ」


「王を殺さなければ」


「ハルは、ハルのままでいられる」


静かに言う。


否定も、強制もない。


選択だけを差し出している。


ハルは、少しだけ笑った。


「……戻る場所なんて、もうねぇよ」


魅魅が、こちらを見る。


「最初から、なかった」


それは強がりじゃない。


事実だった。


黒に触れた日から。

零と出会った日から。

統を取り込んだ日から。


ずっと。


前に進むしかなかった。


魅魅は、しばらく黙っていた。


それから。


「そっか」


小さく言った。


残念そうでも、嬉しそうでもない声。


ただ。


理解した声。


「じゃあ、最後まで一緒にいてあげる」


当たり前みたいに言う。


王の言葉じゃない。


一人の少女の言葉だった。


ハルは、火を見る。


炎が揺れている。


消えそうで、消えない。


まるで。


自分みたいだと思った。


バビロンは、すぐそこにある。


願いを叶える塔。


そしてきっと。


何かを失う場所。


それでも。


ハルは、目を逸らさなかった。


夜は、まだ終わらない。


だが。


もうすぐ、夜明けが来る。


——戻れない朝が。



_____


夜の喫茶アオハラは、静かだった。


客はいない。


コーヒーの残り香だけが、店の奥に溜まっている。


須川健は、カウンター席に座ったまま、空になったカップを指で回していた。


中身はもうないのに、回すのをやめない。


癖だった。


思考を整理する時の。


奥で、鷹見が電話に出ている。


声は抑えているが、完全には消えていない。


「……いつだ」


沈黙。


「……東京か」


その単語を聞いた瞬間。


須川の指が止まった。


東京。


その響きだけで。


胸の奥に、別の夜が浮かぶ。


——祭りの夜。


提灯の光。


火薬の匂い。


そして。


目の前にいた男。


青原。


「……須川さん」


あの時も、同じように静かな声だった。


銃を構えたままの自分に向かって。


一歩も引かずに、話しかけてきた。


「我々は、能力者の力を借りるためにここに来ています」


須川は、スコープ越しに男を見ていた。


整いすぎた顔。


恐怖のない目。


「資産にするためか?」


試すように聞いた。


青原は、首を横に振った。


「いえ」


はっきりと。


「手を借りたいんです」


「真の敵と、真っ向から戦うために」


真の敵。


その言葉は、曖昧だった。


だから須川は聞いた。


「真の敵?」


青原は、空を見上げた。


花火が上がっていた。


その光が、横顔を照らしていた。


「この世界の秩序は、もう根から崩れています」


静かに言った。


「神も、今はいない」


「いずれ、巨悪に飲み込まれる」


一拍。


「それを待っていたら、取り返しがつかないんです」


須川は、銃を下ろさなかった。


「……信じろと?」


青原は、少しだけ笑った。


「無理にとは言いません」


「ですが」


まっすぐ、須川を見た。


「貴方は見ているはずです」


「対黒局を」


「そして、あの子達を」


須川の脳裏に、ハルの姿が浮かぶ。


黒を纏いながら。


それでも、人間であろうとしていた少年。


「未来を壊さないために」


青原は続けた。


「自分の信じられるものに、力を貸してください」


「その時は、必ず来ます」


須川は、答えなかった。


答えられなかった。


その代わりに。


聞いた。


「……バビロンってのは知ってるか」


青原の目が、わずかに細くなった。


「いえ」


「知らないな」


須川は、少しだけ息を吐いた。


「なら」


青原が言った。


「神木くん達がもし、それに関わろうとした時」


一歩、近づく。


銃口の真正面に。


それでも、止まらない。


「必ず、東京へ来てください」


須川の指が、引き金にかかったまま止まる。


「……東京へ行って」


「何を狙えと」


青原は、迷わず答えた。


「頼むからには、狙撃です」


そして。


その名を出した。


「パンドラという少女の持つ、黒い箱」


「そこに」


「我々の希望と絶望が入っています」


須川の眉が動く。


「壊せと?」


「はい」


「壊してあげてください」


「希望はともかく」


一拍。


「絶望を、解放するために」


その言葉の意味は、完全には理解できなかった。


だが。


嘘は言っていないと、分かった。


青原は。


深く、頭を下げた。


狙撃手に。


命を預けるように。


あの時。


須川は撃たなかった。


撃てなかった。


いや。


撃つ理由が、なくなっていた。


——回想は、そこで途切れる。


「……須川」


現実に引き戻す声。


鷹見だった。


電話を切り、こちらを見ている。


「東京だ」


須川は、ゆっくりと頷いた。


知っていた。


いずれ、この時が来ることを。


青原が言っていた“その時”が。


「……神木は?」


須川が聞く。


「バビロンに向かってる」


短い返答。


それだけで十分だった。


須川は、立ち上がる。


椅子が、小さく音を立てる。


「行くのか」


鷹見が聞いた。


須川は、少しだけ考えて。


そして答えた。


「……いや」


首を横に振る。


「まだだ」


青原は言っていた。


——神木くん達が、もしそれに関わろうとした時。


——必ず、東京へ来てください。


まだ。


呼ばれていない。


まだ。


引き金を引く時じゃない。


「呼ばれたら行く」


須川は言った。


「その時は」


視線が、東京の方向へ向く。


「外さない」


それは約束だった。


過去に交わした。


狙撃手と。


神を名乗る男との。


喫茶アオハラの窓の外で、風が吹いた。


遠くで。


まだ誰も知らない塔が、静かに待っている。


その頂上で。


“絶望”が。


壊される瞬間を。

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