ep35.バビロン
「バビロン」
その名前が、夜の空気に落ちた瞬間。
世界が、少しだけ遠くなった気がした。
ハルは動かない。
動けば、壊れそうだった。
「……なんだ、それ」
ユマは、すぐには答えなかった。
代わりに、標識から飛び降りる。
靴底がアスファルトに触れる音が、小さく響いた。
「塔だよ」
簡単に言う。
「願いを叶える塔」
ハルは眉を寄せる。
「そんなものがあるなら」
「とっくに――」
「壊れてる」
ユマが遮った。
「何度も」
「何度も、何度も」
「壊されて」
「でも」
少しだけ、笑う。
「消えなかった」
風が吹く。
フードが揺れる。
「バビロンはね」
ユマは続ける。
「“能力”そのもの」
「人器」
統が、内側で反応する。
——人器バビロン。
——確認済み存在。
——危険度、測定不能。
ハルは黙って聞く。
「中は階層になってる」
「上に行くほど、深くなる」
「上に行くほど、“本質”に近づく」
「本質……?」
「願い」
ユマは即答した。
「一番上まで行った者は」
「一つだけ」
「願いを叶えられる」
沈黙。
夜が重い。
「なんでも?」
ハルの問いに。
ユマは、少し考えてから答えた。
「なんでも」
そして。
付け加える。
「死んだ人間でも」
心臓が、強く打つ。
その言葉は。
あまりにも。
危険だった。
「……条件は」
ハルは聞く。
ユマは、楽しそうに笑った。
「登ること」
「ただ、それだけ」
簡単すぎる。
だからこそ。
罠の匂いがした。
「でもね」
ユマが続ける。
「登れるのは、“選ばれた者”だけ」
「拒まれることもある」
「途中で壊れることもある」
「自分自身に、殺されることもある」
淡々と言う。
感情がない。
それが、余計に怖かった。
「なんで」
ハルは言う。
「俺に、それを教える」
ユマは、ハルを見る。
まっすぐ。
逃げずに。
「だって君」
小さく言う。
「選ぶ側だから」
「食べるか」
「食べられるか」
「叶えるか」
「壊れるか」
一歩、近づく。
「朔を、どうしたいの?」
ハルは答えない。
答えられない。
「取り込まないなら」
ユマは言う。
「別の方法が必要だよ」
「力を得る方法」
「対等になる方法」
「対話する資格を得る方法」
そして。
「バビロンは」
静かに言う。
「それをくれる」
沈黙。
これは、救いじゃない。
これは。
選択肢だ。
「……場所は」
ハルは聞く。
ユマは、指をさした。
遠く。
東京の中心。
闇の奥。
「まだあるよ」
「消えてない」
「誰も登れてないから」
その言葉は。
希望だった。
そして同時に。
絶望だった。
「ねぇ」
ユマが、最後に言う。
「登る?」
ハルは。
すぐには答えなかった。
でも。
もう。
戻れないことだけは。
分かっていた。
_____
火は、小さかった。
拾い集めた木材を組んだだけの、不格好な焚き火。
炎は弱く、頼りない。
それでも。
この世界では、それだけで十分すぎるほど“生きている証”だった。
久我は座ったまま、周囲を見張っている。
美波はバイクにもたれて、銃を膝に乗せたまま目を閉じていた。
眠ってはいない。
ただ、無駄な消耗を避けているだけだ。
火憐は少し離れた位置で、空を見ていた。
星がない。
あるべき光が、東京から消えている。
葵はハルの隣に座っている。
言葉はない。
でも。
影は、静かだった。
零も、聞いている。
全員が揃っていた。
その中心に。
ハルは、立った。
火が、彼の影を揺らす。
「……一つ、見つけた」
誰も動かない。
全員が、次の言葉を待っている。
「バビロン」
その名前を出した瞬間。
空気が変わった。
久我の目が、わずかに細くなる。
統が、内側で反応する。
——確認済み対象。
——最優先危険存在。
「人器だ」
ハルは続ける。
「願いを叶える能力」
美波の指が、わずかに動く。
火憐が振り向く。
「願いって……」
小さく言う。
「なんでも、だ」
沈黙。
風が吹く。
火が揺れる。
「死んだ人間でも」
その一言で。
火憐の呼吸が止まった。
久我は何も言わない。
だが。
否定もしない。
「階層構造になってる」
「上まで登った奴だけが、願いを叶えられる」
「途中で死ぬ可能性もある」
「拒まれる可能性もある」
「壊れる可能性もある」
全部、事実だった。
全部、現実だった。
「……なんで」
久我が初めて口を開く。
「それを今言う」
責めてはいない。
確認だ。
ハルは、まっすぐ答えた。
「朔に勝てないからだ」
炎が、揺れる。
誰も動かない。
「取り込むのは簡単だ」
「でも」
「統がいる今の状態で、それをやれば」
「体を奪われる」
統は、否定しなかった。
それが答えだった。
「起こして戦っても」
「勝てる保証はない」
「話が通じる保証もない」
「だから」
一拍。
「別の力が必要だ」
静寂。
その言葉の意味を。
全員が理解していた。
これは。
逃げ道じゃない。
これは。
進むための道だ。
「……登るのか」
久我が聞く。
ハルは。
数秒、黙った。
そして。
頷いた。
「登る」
火憐が息を呑む。
美波が、目を開ける。
葵の影が、わずかに揺れる。
零が、聞いている。
「佐久間咲を探す」
「王と対話する」
「朔と向き合う」
「そのために」
はっきりと言う。
「バビロンを攻略する」
風が吹く。
火が揺れる。
その瞬間。
全員の運命が。
静かに。
決まった。
「……正気か」
久我が言う。
だが。
その声に、止める意志はなかった。
確認だけだった。
ハルは答える。
「正気じゃなきゃ」
「ここまで来てない」
久我は、数秒見て。
そして。
小さく笑った。
「違ぇねぇ」
それだけ言う。
反対はしなかった。
美波が、静かに立ち上がる。
「行くなら」
短く言う。
「私も行く」
火憐も。
何も言わないまま。
頷いた。
葵は。
ハルの隣で。
ただ、小さく言った。
「……うん」
それだけで十分だった。
頭の奥で。
統が、静かに呟いた。
——愚かだ。
——だが。
一拍。
——合理的でもある。
そして。
もっと奥で。
何かが。
わずかに。
笑った気がした。
それが誰なのか。
ハルは。
まだ、知らなかった。
焚き火が、揺れる。
東京の夜は、深い。
その奥で。
塔が。
待っている。
願いを叶える塔。
バビロンが。
静かに。
彼らを。
待っていた。




