ep32.休憩
夜は、思ったより静かだった。
東京の中心部から少し外れた、高速道路の残骸の下。
崩れたコンクリートの陰に、テントが三つ並んでいる。
風は冷たい。
だが、冬の冷たさじゃない。
もっと乾いた、生命の気配が削ぎ落とされたような冷え方だった。
「……ここでいい」
久我が短く言った。
周囲を一通り見回し、問題がないことを確認する。
黒の気配は薄い。
いや。
正確には――
“近づいてこない”。
それだけだった。
ハルは、ペグを地面に打ち込む。
金属が硬い地面に食い込む音が、やけに大きく響いた。
火憐が、空を見上げる。
「……星、見えないね」
雲はない。
なのに、夜空は黒いままだった。
光が、ない。
街の灯りも。
月の輪郭すら、曖昧だった。
「食われたんだろ」
久我が言う。
「この街ごとな」
冗談には聞こえなかった。
葵は、黙ってテントの入口を整えている。
その動きは普段通り。
だが。
影が、わずかに濃い。
零は起きている。
表には出ていないだけだ。
「……久我さん」
ハルが声をかける。
久我は振り返らない。
「あ?」
「見張り、俺がやります」
即答だった。
「寝ろ」
それだけ。
「でも――」
「寝ろ」
同じ言葉。
だが今度は。
少しだけ強かった。
久我は、振り返る。
その目は、完全に覚醒している。
疲労の色が、一切ない。
「こういう場所はな」
低く言う。
「一人で十分だ」
それは自信じゃない。
事実だった。
久我がいれば、問題ない。
誰も、それを疑わない。
ハルは、少しだけ考えて。
「……わかりました」
引いた。
久我はそれ以上何も言わず、瓦礫の上に腰を下ろした。
視線は常に外。
一度も気を抜かない。
完全な警戒。
完全な静止。
まるで――
そこに根を張ったようだった。
火憐が、テントの中から顔を出す。
「ハル」
小さく手招きする。
「早く」
その声に、少しだけ安堵が混じっていた。
ハルは、頷いて中に入る。
テントの中は狭い。
だが。
人の体温がある。
それだけで、外とは別の世界だった。
葵が、隣に座る。
「……さっき」
小さく言う。
「大丈夫?」
ブラックアウトのことだ。
ハルは、少しだけ考える。
正直な答えは――
分からない。
何をされたのか。
何が変わったのか。
はっきりとは、分からない。
ただ。
「ああ」
そう答えた。
それしか言えなかった。
葵は、それ以上聞かなかった。
聞かない優しさだった。
火憐が、寝袋に潜り込む。
「明日、動くんだよね」
「……ああ」
「夢魔のとこ」
「それと」
ハルは、静かに言う。
「暴食」
その名前が出た瞬間。
空気が、少しだけ重くなった。
火憐は何も言わず、目を閉じた。
葵も、横になる。
やがて。
静かな呼吸だけが残る。
ハルは、まだ起きていた。
眠れないわけじゃない。
ただ。
目を閉じる意味を、少しだけ見失っていた。
その時。
頭の奥で。
統が呟いた。
——休め
意外な言葉だった。
——今はまだ、人間でいろ
ハルは、何も返さなかった。
ゆっくりと目を閉じる。
外では。
久我が、微動だにせず座っている。
眠らない男。
壊れない番人。
そして。
誰も気づかないまま。
遠くのビルの影で。
夢魔が、こちらを見ていた。
「……ちゃんと寝てる」
小さく呟く。
「えらいえらい」
興味なさそうに。
でも。
視線だけは外さなかった。
「起きるのかな」
誰にともなく言う。
「それとも」
欠伸を一つ。
「このまま、寝ちゃう?」
答えは、まだない。
夜は静かに続いていた。
夜は、完全に沈んでいた。
音がない。
風もない。
瓦礫の隙間に溜まった闇だけが、世界を埋めている。
久我は、崩れたガードレールの上に座っていた。
背中は壁。
視線は常に開けた方向。
呼吸は一定。
まばたきすら、無駄がない。
――静かすぎる。
それが、違和感だった。
普通の街なら。
風が鳴る。
鉄が軋む。
遠くで何かが落ちる。
だが、この街は違う。
何も起きない。
まるで――
“生きているものが存在しない”みたいに。
「……」
久我の指が、わずかに動く。
次の瞬間。
顔は動かさず。
視線だけを、左へずらした。
いた。
正確には――
“ある”。
瓦礫の影。
崩れたビルの下。
暗闇の奥。
そこに。
何かが、うずくまっている。
敵意はない。
殺気もない。
あるのは――
苦しみ。
久我は、ゆっくりと立ち上がる。
音を立てない。
呼吸すら、消す。
一歩。
一歩。
距離を詰める。
影が、震えた。
「……ぁ……」
声。
人間の声。
だが。
壊れている。
「……た……べ……」
久我の眉が、わずかに寄る。
さらに近づく。
月明かりの代わりに。
遠くの崩れた看板の反射光が、影を薄く照らした。
人だった。
若い男。
いや――
元、人間。
皮膚の下。
黒い筋が、血管のように浮き出ている。
目は落ち窪み。
口元は裂けるほど開いている。
だが。
動かない。
手は地面を掴んだまま。
這うことすらできない。
「……たべたい……」
震える声。
「……たべ……たい……」
だが。
体は、一ミリも前に進まない。
まるで。
見えない鎖で縛られているみたいに。
久我は、すぐに理解した。
――暴食の子因子。
そして。
――怠惰の支配下。
食いたい。
だが。
動けない。
飢餓のまま、停止している。
拷問だ。
久我は、男の目を見る。
男は、久我を見ている。
理解している。
そこに。
食べられるものがあると。
だが。
動けない。
涙が、流れていた。
「……たす……け……」
久我は、何も言わない。
ただ。
じっと見ている。
男の体が、痙攣する。
筋肉が、命令を拒否している。
暴食が叫んでいる。
怠惰が押さえつけている。
矛盾。
破綻。
その状態で、存在させられている。
「……地獄だな」
久我が、初めて口を開いた。
その時。
男の瞳が。
ゆっくりと。
久我の背後を見た。
久我は振り返らない。
振り返る必要がない。
分かっていたからだ。
影が。
そこに、あった。
誰かが、見ている。
夢魔ではない。
もっと重い。
もっと深い。
「……見てるだけか」
久我が、低く言う。
返事はない。
だが。
気配は消えない。
観察している。
久我を。
ハルを。
そして――
“今後”を。
久我は、再び男を見る。
「安心しろ」
短く言う。
「もうすぐ終わる」
救うとは言わない。
助けるとも言わない。
ただ。
終わる。
それだけだった。
その瞬間。
男の体が。
ふっと、崩れた。
黒い粒子になって。
静かに、消えた。
残ったのは。
何もない空間だけ。
久我は、しばらく動かなかった。
そして。
小さく、息を吐く。
「……なるほどな」
呟く。
暴食は。
食うだけじゃない。
食わせる。
そして。
食えないまま、壊す。
その残酷さを。
理解した。
背後の影は。
まだ、見ていた。
まるで。
試すように。
値踏みするように。
王の領域は。
もう。
すぐそこだった。




