ep31.優しさ
火憐は、動けなかった。
立っているのか。
崩れているのか。
それすら、分からなかった。
世界が、
重かった。
空気が、重力みたいに体にまとわりついている。
息を吸うだけで、
肺の内側に、粘ついた何かが入り込んでくる。
「……っ」
声が出ない。
喉が、動かない。
体が、自分のものじゃない。
視界の端で、
何かが揺れていた。
黒い粒子。
ゆっくりと、
水の中みたいに漂っている。
綺麗だった。
炎の魔法を使う時に見える火花よりも、
ずっと柔らかくて、
ずっと優しい光。
(……綺麗)
そう思った瞬間。
ぞわり、と、
自分の内側に何かが入り込んできた。
「——だめ」
声。
外じゃない。
内側。
誰かの声。
優しくて、
甘くて、
抗えない声。
「そんなに頑張らなくていいよ」
「疲れたでしょ?」
「守らなくていい」
「戦わなくていい」
「楽になっていい」
その言葉が、
あまりにも正しくて、
火憐の指先から、
力が抜けた。
(……楽に)
なっていい?
頭の中に、
弟の顔が浮かぶ。
消えた夜。
何もできなかった自分。
助けられなかった自分。
守れなかった自分。
「……っ」
胸が、痛い。
「もう、いいよ」
声が続ける。
「全部、私に任せて」
「守ってあげる」
「だから」
「預けて」
火憐の視界が、
少しずつ、
暗くなっていく。
怖くない。
むしろ。
安心だった。
誰かが、
全部、
代わりに背負ってくれる。
そんな感覚。
その時。
——ぱちん。
小さな音。
何かが、
弾けた。
粒子が、
霧散する。
空気が、
戻る。
重さが、
消える。
「……あ」
呼吸が、
一気に戻った。
膝が、崩れる。
地面に手をつく。
肩で、
荒く息をする。
「……は……っ」
肺が痛い。
生きている感覚が、
逆に苦しい。
目の前に、
誰かが立っていた。
ツインテール。
細い体。
ゆるく傾いた首。
色乃魅魅だった。
いつもの、
あの笑顔じゃない。
笑っていなかった。
ただ、
じっと、
火憐を見ていた。
「……ごめん」
小さく、
言った。
火憐は、
顔を上げる。
魅魅は、
目を逸らさなかった。
「巻き込んで」
一歩、
近づく。
でも、
触れない。
触れない距離で、
止まる。
「本当は」
声が、
少しだけ、
震えていた。
「ハルだけでよかったの」
その言葉に、
嘘はなかった。
王としての言葉じゃない。
一人の、
少女の本音だった。
「でも」
魅魅は、
指先を見る。
黒い粒子が、
まだ、微かに残っている。
「止まらないの」
「近くにいると」
「勝手に、広がる」
苦しそうに、
言う。
「好きになると」
「もっと、広がる」
火憐は、
何も言えなかった。
魅魅が、
ゆっくりと、
火憐の目を見る。
「怖かった?」
その問いは、
王のものじゃない。
ただの、
女の子の問いだった。
火憐は、
少しだけ、
考えて。
そして。
正直に、
頷いた。
「……うん」
魅魅は、
少しだけ、
笑った。
寂しそうに。
「そっか」
その笑顔は、
あまりにも普通で。
あまりにも、
人間だった。
「でも」
魅魅は、
続ける。
「壊してないよ」
「ちゃんと」
「止めたから」
それは、
誇りだった。
色欲の王としてではなく。
自分の感情を、
制御できたことへの誇り。
「ハルには」
小さく、
呟く。
「嫌われたくないから」
火憐の胸が、
少しだけ、
ざわついた。
嫉妬じゃない。
理解でもない。
ただ。
分かってしまった。
この王は、
本当に、
好きになってしまっている。
「……ねぇ」
魅魅が、
少しだけ首を傾ける。
「火憐」
名前を、
呼ばれた。
「あなたは」
「強いね」
その言葉に、
火憐は、
首を振った。
「……弱いよ」
魅魅は、
否定しなかった。
ただ、
小さく、
微笑んだ。
「うん」
「知ってる」
その言葉は、
優しかった。
王なのに。
怪物なのに。
誰よりも、
人間らしい優しさだった。
風が吹く。
粒子が、
完全に消える。
魅魅は、
一歩、
下がる。
「もう大丈夫」
「今回は」
その言葉に、
火憐は、
なぜか、
安心してしまった。
色欲の王の言葉なのに。
怪物の言葉なのに。
「……次は」
魅魅が、
少しだけ、
悪戯っぽく笑う。
「ちゃんと、準備してから会おうね」
そう言って、
影の中に、
溶けるように消えた。
残されたのは、
火憐の荒い呼吸と、
まだ少しだけ震えている心だけだった。
そして、
火憐は、
理解してしまった。
王は、
恐ろしい。
でも。
それだけじゃない。
王もまた、
孤独なのだと。




