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パレット  作者: 青原朔
62/105

ep30.余韻

立っていた。


確かに、立っていたはずだった。


だが。


足の裏の感覚が、なかった。


地面を踏んでいるはずなのに。


踏んでいるという“実感”だけが、消えていた。


重さがない。


浮いているわけじゃない。


落ちてもいない。


ただ。


世界の中に、“自分の位置”が存在していなかった。


「——ブラックアウト」


夢魔の声が、耳ではなく、


直接、頭の奥に落ちてきた。


その瞬間。


光が、消えた。


いや。


正確には、“光という概念”が消えた。


暗いわけじゃない。


明るくもない。


色が、存在しない。


空気があるのかも分からない。


呼吸しているのかも分からない。


なのに。


意識だけが、はっきりしている。


(……なんだよ、これ)


声を出したはずだった。


だが。


自分の声が、聞こえなかった。


音が、存在していない。


心臓が動いているのかも分からない。


ただ。


“自分がここにいる”という認識だけが、


ぽつんと、残されていた。


世界の中に。


自分だけが、


“許可されていない存在”として、


置き去りにされたような感覚。


恐怖だった。


敵が見えないからじゃない。


攻撃されたからじゃない。


違う。


世界そのものに、


拒絶された感覚だった。


存在を、


認められていない。


(動け)


命じる。


足に。


腕に。


影に。


だが。


何も、反応しない。


影すら、


自分のものじゃなくなっていた。


その時。


声が聞こえた。


「ハル!」


零だった。


確かに。


近くにいる。


だが。


距離が、意味を持たない。


近いのに。


遠い。


同じ世界にいるのに。


別の層にいる。


「唱えて!」


零が叫ぶ。


「ブラックアウトって——」


言葉が続かない。


“何を唱えればいいのか”が、


分からない。


自分の世界が、


分からない。


その瞬間。


理解した。


これは。


戦いじゃない。


世界の、主導権だ。


夢魔の世界の中に、


自分が“侵入者”として、


立たされている。


そして。


その世界の主は、


夢魔だ。


だから。


自分は、


動けない。


許可されていないから。


その時。


夢魔が、目の前に立った。


歩いてきたはずなのに。


歩くという概念が存在しない。


気づいた時には、


そこにいた。


「……そっか」


夢魔が言う。


その声だけが、


はっきり聞こえる。


「まだなんだ」


何が。


とは、聞けなかった。


聞く権利が、ないと、


本能が理解していた。


夢魔が、


こちらを覗き込む。


瞳の奥に。


底がなかった。


そこにあるのは、


敵意でも、


殺意でも、


感情ですらない。


ただ。


“世界の主”の目だった。


自分が、


完全に、


格下であると、


理解させられる目。


「……寝てていいよ」


その言葉と同時に。


世界が、戻った。


音が戻る。


風が戻る。


重さが戻る。


膝が、


一瞬、


崩れかけた。


「……っ」


呼吸が、荒い。


肺が、


ちゃんと動いている。


心臓が、


ちゃんと動いている。


生きている。


今。


生きている。


「ハル」


零の声。


今度は、


ちゃんと近くにある。


「大丈夫?」


ハルは、


数秒、


答えられなかった。


喉が、


うまく動かない。


ようやく、


声を絞り出す。


「……今の」


掠れた声。


「なんだ」


零は、


少しだけ沈黙してから、


答えた。


「ブラックアウト」


静かに。


「王の領域」


ハルは、


息を整えながら、


零を見る。


「領域……?」


零は、頷いた。


「王はね」


「自分の“本質”を世界に展開できる」


「嫉妬なら嫉妬」


「怠惰なら怠惰」


「色欲なら色欲」


「その王の“性質そのもの”で、空間を書き換える」


一拍。


「その中では」


「王が絶対」


「物理も」


「距離も」


「時間も」


「意味を持たなくなる」


ハルは、


拳を握る。


「……だから」


「動けなかったのか」


零は、


正確に答えた。


「違う」


「動けなかったんじゃない」


「“動くことを許されてなかった”」


その言葉は、


重かった。


「ブラックアウトはね」


零は続ける。


「ブラックアウトでしか対抗できない」


「同じ“王の領域”を展開して、


互いの世界をぶつける」


「そうしない限り」


「一方的に支配される」


ハルは、


歯を食いしばる。


「……俺は」


言葉が、


自然に漏れた。


「何も、できなかった」


零は、


否定しなかった。


「うん」


静かに。


「今は、まだ」


今は、まだ。


その言葉が、


胸の奥に、深く沈む。


だが。


同時に。


はっきりと、


理解した。


王とは、


何か。


黒とは、


何か。


自分が、


どこに立っているのか。


夢魔は、


言った。


——まだ寝てていいよ。


それは、


許しじゃない。


猶予だ。


ハルは、


ゆっくりと、


拳を開いた。


そして、


小さく、


呟いた。


「……起きるよ」


誰に聞かせるでもなく。


自分自身に。


頭の奥で、


統が、静かに笑った。


——ようやく、


——理解したか。


その声を、


今度は、


否定しなかった。

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