ep30.余韻
立っていた。
確かに、立っていたはずだった。
だが。
足の裏の感覚が、なかった。
地面を踏んでいるはずなのに。
踏んでいるという“実感”だけが、消えていた。
重さがない。
浮いているわけじゃない。
落ちてもいない。
ただ。
世界の中に、“自分の位置”が存在していなかった。
「——ブラックアウト」
夢魔の声が、耳ではなく、
直接、頭の奥に落ちてきた。
その瞬間。
光が、消えた。
いや。
正確には、“光という概念”が消えた。
暗いわけじゃない。
明るくもない。
色が、存在しない。
空気があるのかも分からない。
呼吸しているのかも分からない。
なのに。
意識だけが、はっきりしている。
(……なんだよ、これ)
声を出したはずだった。
だが。
自分の声が、聞こえなかった。
音が、存在していない。
心臓が動いているのかも分からない。
ただ。
“自分がここにいる”という認識だけが、
ぽつんと、残されていた。
世界の中に。
自分だけが、
“許可されていない存在”として、
置き去りにされたような感覚。
恐怖だった。
敵が見えないからじゃない。
攻撃されたからじゃない。
違う。
世界そのものに、
拒絶された感覚だった。
存在を、
認められていない。
(動け)
命じる。
足に。
腕に。
影に。
だが。
何も、反応しない。
影すら、
自分のものじゃなくなっていた。
その時。
声が聞こえた。
「ハル!」
零だった。
確かに。
近くにいる。
だが。
距離が、意味を持たない。
近いのに。
遠い。
同じ世界にいるのに。
別の層にいる。
「唱えて!」
零が叫ぶ。
「ブラックアウトって——」
言葉が続かない。
“何を唱えればいいのか”が、
分からない。
自分の世界が、
分からない。
その瞬間。
理解した。
これは。
戦いじゃない。
世界の、主導権だ。
夢魔の世界の中に、
自分が“侵入者”として、
立たされている。
そして。
その世界の主は、
夢魔だ。
だから。
自分は、
動けない。
許可されていないから。
その時。
夢魔が、目の前に立った。
歩いてきたはずなのに。
歩くという概念が存在しない。
気づいた時には、
そこにいた。
「……そっか」
夢魔が言う。
その声だけが、
はっきり聞こえる。
「まだなんだ」
何が。
とは、聞けなかった。
聞く権利が、ないと、
本能が理解していた。
夢魔が、
こちらを覗き込む。
瞳の奥に。
底がなかった。
そこにあるのは、
敵意でも、
殺意でも、
感情ですらない。
ただ。
“世界の主”の目だった。
自分が、
完全に、
格下であると、
理解させられる目。
「……寝てていいよ」
その言葉と同時に。
世界が、戻った。
音が戻る。
風が戻る。
重さが戻る。
膝が、
一瞬、
崩れかけた。
「……っ」
呼吸が、荒い。
肺が、
ちゃんと動いている。
心臓が、
ちゃんと動いている。
生きている。
今。
生きている。
「ハル」
零の声。
今度は、
ちゃんと近くにある。
「大丈夫?」
ハルは、
数秒、
答えられなかった。
喉が、
うまく動かない。
ようやく、
声を絞り出す。
「……今の」
掠れた声。
「なんだ」
零は、
少しだけ沈黙してから、
答えた。
「ブラックアウト」
静かに。
「王の領域」
ハルは、
息を整えながら、
零を見る。
「領域……?」
零は、頷いた。
「王はね」
「自分の“本質”を世界に展開できる」
「嫉妬なら嫉妬」
「怠惰なら怠惰」
「色欲なら色欲」
「その王の“性質そのもの”で、空間を書き換える」
一拍。
「その中では」
「王が絶対」
「物理も」
「距離も」
「時間も」
「意味を持たなくなる」
ハルは、
拳を握る。
「……だから」
「動けなかったのか」
零は、
正確に答えた。
「違う」
「動けなかったんじゃない」
「“動くことを許されてなかった”」
その言葉は、
重かった。
「ブラックアウトはね」
零は続ける。
「ブラックアウトでしか対抗できない」
「同じ“王の領域”を展開して、
互いの世界をぶつける」
「そうしない限り」
「一方的に支配される」
ハルは、
歯を食いしばる。
「……俺は」
言葉が、
自然に漏れた。
「何も、できなかった」
零は、
否定しなかった。
「うん」
静かに。
「今は、まだ」
今は、まだ。
その言葉が、
胸の奥に、深く沈む。
だが。
同時に。
はっきりと、
理解した。
王とは、
何か。
黒とは、
何か。
自分が、
どこに立っているのか。
夢魔は、
言った。
——まだ寝てていいよ。
それは、
許しじゃない。
猶予だ。
ハルは、
ゆっくりと、
拳を開いた。
そして、
小さく、
呟いた。
「……起きるよ」
誰に聞かせるでもなく。
自分自身に。
頭の奥で、
統が、静かに笑った。
——ようやく、
——理解したか。
その声を、
今度は、
否定しなかった。




