ep29.ブラックアウト
暴食の圧が消えたあとも。
空気は、完全には元に戻っていなかった。
見えない膜が、まだ世界に張り付いているような感覚。
誰もすぐには動かなかった。
久我が、先に背を向ける。
「……今日はここまでだ」
短く言う。
「深入りする場所じゃねぇ」
夢魔も、あくびをしながらそれに同意した。
「うん、それがいいよ」
「起きたら、終わるから」
その言葉は、冗談に聞こえなかった。
ハルは、最後にもう一度だけ。
暴食が沈んだ場所を見た。
そこにはもう、何もない。
ただの廃墟。
ただの影。
それなのに。
確かに、“見られた”感覚だけが残っていた。
「……帰るぞ」
久我が言う。
ハルは、頷いた。
その時だった。
「——ハル」
声。
外じゃない。
内側。
葵の影が、わずかに揺れる。
「……零」
葵の体が、少しだけ止まる。
そして。
「ちょっとだけ」
「いい?」
久我が、振り返る。
「どうした」
ハルは、首を振った。
「……いや」
「なんでもない」
久我は数秒だけ見てから、
「……離れすぎんなよ」
そう言って、夢魔と共に少し先へ歩いていった。
二人分の足音が遠ざかる。
残されたのは。
ハルと。
葵と。
その中にいる、もう一人。
静寂。
風が吹く。
葵の髪が揺れる。
そして。
「……ねぇ」
声が変わった。
柔らかい。
でも。
葵じゃない。
零だった。
「さっきさ」
「見られてたね」
ハルは、正直に答えた。
「ああ」
零が、小さく笑う。
「すごいね」
「普通、壊れるよ」
「見られただけで」
その言葉に。
ハルは、少しだけ肩をすくめた。
「壊れなかっただけだ」
「強いわけじゃねぇよ」
沈黙。
零が、少しだけ顔を上げる。
葵の瞳で。
でも。
中身は違う。
「……違うよ」
はっきりと言った。
「強いよ」
一歩。
近づく。
「悔しいけど」
声が、揺れていた。
「ほんとに悔しいけど」
拳が、ぎゅっと握られる。
「私じゃなくて」
「葵じゃなくて」
「なんで」
「ハルなの」
その問いに。
ハルは答えなかった。
答えられなかった。
零は、続けた。
「私」
「王だよ」
「嫉妬の王」
「最初の王」
その声は、誇りだった。
間違いなく。
王の声だった。
でも。
「なのに」
小さく。
壊れそうな声で。
「見られたのは」
「ハルだった」
その瞬間。
ハルは理解した。
これは。
嫉妬だ。
純粋な。
歪みのない。
王の嫉妬。
「……零」
名前を呼ぶ。
零が、顔を上げる。
その目は。
怒っていなかった。
悲しんでもいなかった。
ただ。
揺れていた。
「ねぇ」
小さく言う。
「置いてかないで」
その一言は。
王の言葉じゃなかった。
ただの。
一人の少女の言葉だった。
「……私は」
「葵の中にいるだけ」
「外に出れない」
「王なのに」
「自由じゃない」
一歩。
また近づく。
「でも」
「ハルは」
「どこにでも行ける」
「王になれる」
「越えられる」
そして。
小さく笑った。
「だから」
「置いてかないで」
ハルは。
迷わなかった。
手を伸ばす。
葵の頭に。
そっと触れる。
「置いてかねぇよ」
即答だった。
「お前も来い」
零の瞳が、見開かれる。
「……え」
「王とか関係ねぇ」
ハルは言う。
「零は零だ」
「俺の隣にいろ」
沈黙。
風。
そして。
ぽろり、と。
葵の目から。
涙が一滴、落ちた。
零の涙だった。
「……ほんと」
小さく笑う。
「ずるい」
でも。
その笑顔は。
今までで一番。
穏やかだった。
「約束だよ」
零が言う。
「王になっても」
「私を置いてかないって」
ハルは頷いた。
「ああ」
その瞬間。
影が、静かに落ち着いた。
零が、奥へ戻る。
完全に消えたわけじゃない。
でも。
確かに。
“隣にいる存在”になった。
遠くで。
久我の声がする。
「おーい、置いてくぞ」
ハルは、歩き出す。
葵の隣で。
そして。
頭の奥で。
統が、静かに呟いた。
——愚かだな。
——だが。
一拍。
——それでいい。
初めて。
統が、否定しなかった。
王と王が。
同じ存在を認めた瞬間だった。
風が、止まった。
久我の声が、遠くで途切れる。
夢魔の足音も、聞こえない。
「……?」
ハルは足を止めた。
違和感は、小さい。
だが確実だった。
空気が、重い。
重いというより。
——沈んでいる。
隣で、葵も足を止めていた。
影が、わずかに震える。
「……零」
ハルが呼ぶ前に。
零の声が、低く響いた。
「来る」
次の瞬間だった。
「……それ」
声。
前からでも、後ろからでもない。
世界そのものから、滲むように。
「起こしちゃうの?」
夢魔——ユマが、そこにいた。
さっきまで数十メートル先にいたはずなのに。
いつの間にか。
すぐ近くに。
パーカーのフードを指で引っ掛けながら。
気怠そうに。
「……せっかく」
「静かだったのに」
欠伸をする。
本当に、どうでもよさそうに。
でも。
その瞬間。
暴食の気配が、完全に消えた。
逃げたわけじゃない。
消された。
王によって。
均衡が、維持された。
ユマは、ハルを見る。
まっすぐ。
何も隠さず。
「ねぇ」
「今」
「何か変わったよね」
ハルは答えない。
答えられない。
でも。
零が、小さく息を呑んだのが分かった。
ユマが、ため息をつく。
「……あーあ」
「やだな」
「そういうの」
一歩、前に出る。
足音がしない。
「起きる理由が」
「できちゃうじゃん」
その言葉の意味を。
理解する前に。
ユマが、呟いた。
「——ブラックアウト」
音が、消えた。
完全に。
風も。
呼吸も。
心臓の鼓動すら。
遠くなる。
光が、沈む。
世界が。
沈む。
色が抜ける。
重力が曖昧になる。
立っているのか。
落ちているのか。
分からなくなる。
「……ッ」
ハルの足が、わずかに揺れる。
立っている。
でも。
立たされているだけだ。
世界の主導権が。
奪われている。
「ハル!」
零の声。
「唱えて!」
意味が、分からない。
「ブラックアウトって——」
言葉が、出ない。
その瞬間。
別の声。
甘く。
歪んだ声。
「ブラックアウト♡」
魅魅だった。
見えないはずなのに。
分かる。
彼女の世界が。
別の層として重なったのが。
零も、続く。
「ブラックアウト」
静かに。
確実に。
嫉妬の世界が、葵を包む。
だが。
ハルだけが。
何も、できない。
唱え方が分からない。
自分の世界が、分からない。
王なのに。
王の技を、持たない。
ユマが、それを見る。
少しだけ。
目を細める。
「……あー」
「そっか」
小さく。
本当に小さく。
「まだなんだ」
失望でも。
嘲笑でもない。
ただの、事実確認。
その一言が。
何より重かった。
ハルは、動けない。
意識はある。
全部見えている。
でも。
世界の中で。
“許可されていない存在”みたいに。
存在だけが、浮いている。
零が、低く言う。
「ハル」
「見て」
ユマが、近づく。
一歩。
また一歩。
足音はない。
でも。
確実に近づいてくる。
「安心して」
ユマが言う。
「殺すのも」
「壊すのも」
「めんどくさいから」
ハルの目の前で、止まる。
「ただ」
「確認しただけ」
顔を少し傾ける。
長い髪が、滑り落ちる。
「起きるかどうか」
沈黙。
そして。
「……まだ」
「寝てていいよ」
その瞬間。
世界が戻った。
音が戻る。
風が戻る。
光が戻る。
膝が、崩れそうになる。
「……っ」
ハルは、踏みとどまる。
ユマはもう。
歩き始めていた。
振り返らず。
手だけを、ひらひら振る。
「じゃ」
「またね」
「起きたら」
「相手してあげる」
そのまま。
空気に溶けるように。
消えた。
完全に。
沈黙。
風だけが吹く。
零が、静かに言う。
「……見られたね」
さっきと同じ言葉。
でも。
意味が違う。
今度は。
王として。
試された。
そして。
まだ。
王ではないと。
判断された。
頭の奥で。
統が、呟く。
——理解したか。
静かに。
——これが、王だ。
一拍。
——貴様はまだ、
——王ではない。
ハルは。
拳を握る。
悔しさでも。
恐怖でもない。
確信だった。
ここから先へ行くには。
あの領域へ。
到達しなければならない。
夜は、まだ終わっていなかった。
そして。
ハルの中で。
何かが、
確実に、
目を覚まし始めていた。




