ep28.怠惰の王
夢魔は、何もしなかった。
壁にもたれたまま、片足を軽く折り曲げている。
フードの影で表情は半分しか見えない。
それでも――
そこにいるだけで、空気が沈んでいた。
動いていない。
なのに。
暴食もまた、動いていない。
その事実が、異常だった。
ハルは、喉の奥の乾きを感じながら、一歩だけ前に出た。
「……なあ」
夢魔の視線が、ゆっくりと向く。
気だるそうな目。
興味があるのか、ないのかも分からない。
「なんで止めてるんだ」
ハルは言った。
「暴食を」
静寂。
風すら、ここには届かない。
夢魔は、しばらく何も答えなかった。
ただ、ハルを見ていた。
見透かすように。
中身まで覗き込むように。
やがて。
「……それ」
小さく呟く。
「起こす必要、ある?」
質問で返された。
ハルは眉を寄せる。
「必要とかじゃねぇ」
「止めてる理由を聞いてる」
夢魔は、少しだけ首を傾けた。
長い髪が、肩から滑り落ちる。
「だってさ」
間延びした声。
「起きたら、全部終わるじゃん」
あまりにも、あっさりと言う。
まるで。
「雨が降ると濡れるよ」
とでも言うみたいに。
「街も」
「人も」
「黒も」
「たぶん、君も」
夢魔は視線を外し、遠く――
動かずにいる暴食の影を見た。
「あれ、止めるの大変なんだよ」
「ほんと」
「めんどくさいし」
その言葉に、嘘はなかった。
怠惰の王。
面倒だから止めている。
ただ、それだけ。
「……それだけかよ」
ハルは思わず言う。
「世界が終わるのを止めてる理由が、それだけなのか」
夢魔は、少しだけ考えるように沈黙した。
数秒。
やがて。
「……うん」
小さく頷いた。
「だって」
フードの奥で、目が細くなる。
「終わったら」
「何もなくなるでしょ」
その言葉は。
初めて、怠惰じゃなかった。
「何もないのって」
「一番、めんどくさいんだよ」
静かに。
本当に、静かに言った。
戦うことも。
守ることも。
壊すことも。
全部なくなった世界。
それは――
何も選べない世界。
夢魔は、それを嫌った。
善だからじゃない。
正義だからでもない。
ただ。
“何もない”という状態が、
一番、退屈で、面倒だから。
ハルは、言葉を失った。
理解してしまったから。
この王は。
世界を守っているんじゃない。
世界が続いている状態を、
「維持しているだけ」だ。
その結果として。
人類は、生きている。
夢魔は、再びハルを見る。
「で」
小さく言った。
「君は」
「それ、起こしたいの?」
試すように。
確かめるように。
王が。
人間に。
選択を問うていた。
「で」
夢魔が言った。
「君は」
「それ、起こしたいの?」
暴食の影。
動かない怪物。
その均衡を。
崩すか、守るか。
世界の運命を、
ただの高校生が問われていた。
ハルは、答えなかった。
代わりに――
胸の奥で、何かが動いた。
違和感じゃない。
声だった。
——躊躇う理由はない。
頭の奥。
冷たい声。
統。
——均衡は停滞だ。
——停滞は腐敗だ。
——腐敗は、価値を失う。
ハルの視界が、わずかに暗くなる。
体の奥に、もう一つの思考が重なる。
——王に至るなら。
——均衡を崩す覚悟を持て。
ハルの指先が、微かに震えた。
怖いからじゃない。
理解したからだ。
統が正しいと。
夢魔は、黙って見ている。
試している。
どちら側の存在なのかを。
ハルは、ゆっくりと口を開いた。
「……必要なら」
夢魔の目が、わずかに細くなる。
「起こす」
空気が止まった。
久我が、横で目を見開く。
葵の影が、揺れる。
零が、息を呑むのが分かった。
それでも、ハルは続けた。
「俺は」
拳を握る。
「王に会う」
「全部だ」
「嫉妬も」
「傲慢も」
「色欲も」
「――お前も」
夢魔の目が、初めて完全に開かれる。
「止められてるから終わってない世界なら」
「止めてる側に聞くしかねぇだろ」
「壊すかどうかは」
「その後決める」
それは。
人間の答えじゃなかった。
王の視点だった。
夢魔は、しばらく黙っていた。
そして。
「……へぇ」
小さく笑った。
面白そうに。
初めて、興味を持った顔で。
「変わったね」
ゆっくりと、壁から体を離す。
「前はもっと」
「人間っぽかったのに」
一歩、ハルに近づく。
「今の君」
「ちょっと王っぽいよ」
その言葉に。
胸の奥の統が、静かに笑った。
——当然だ。
夢魔は、暴食の方をちらりと見て。
「じゃあ」
気だるそうに言った。
「少しだけ、貸してあげる」
空気が、わずかに緩む。
「完全には起こさない」
「でも」
「君が進める程度には」
フードの奥で、目が光る。
「均衡、緩めてあげる」
その瞬間。
遠くで。
巨大な影が、わずかに動いた。
ズズ……
暴食の指先が。
ほんの、数センチだけ。
「――ッ」
久我が構える。
零の気配が鋭くなる。
夢魔は、面倒そうに言った。
「大丈夫」
「まだ食べないよ」
そして。
ハルを見て。
「責任、取ってね」
小さく笑った。
「起こすって言ったの、君だから」
それは。
契約だった。
人間と。
王の。
世界の均衡を揺らす、最初の合意。
そして同時に。
神木ハルは。
自分の意思で。
王の側に、一歩踏み込んだ。
ズズ……
暴食の指先が、ほんのわずかに動いたあと。
世界が、静かに止まった。
完全な静止じゃない。
だが――
空気の密度が変わった。
重い。
圧力。
見えない何かが、こちらを“見た”。
「……」
久我が、無言で一歩前に出る。
守る位置。
本能的な動きだった。
「見るな」
低く言う。
「見返すな」
だが。
ハルは、視線を逸らさなかった。
巨大な影。
都市を喰らった王。
暴食。
それは、まだ完全には目覚めていない。
なのに。
存在だけで、世界を歪めていた。
その瞬間。
頭の奥で、声がした。
——ほう。
統だった。
だが今までと違う。
冷たいだけの声じゃない。
明確な意思があった。
——逃げないか。
——良い。
ハルの指先が、わずかに震える。
恐怖じゃない。
認識されたことへの、本能的な反応。
——やっとだ。
統が言う。
——貴様は今。
——王の視界に入った。
その言葉と同時に。
暴食の影が、わずかに揺れた。
まるで。
“焦点”を合わせるように。
久我が舌打ちする。
「チッ……認識されたか」
零の声が重なる。
「……最悪だね」
葵の影の中で。
零が、はっきりと震えていた。
恐怖じゃない。
嫉妬だった。
「……なんで」
小さく呟く。
「なんであんたなの」
ハルだけが。
王に見られている。
自分ではなく。
自分たちではなく。
彼だけが。
夢魔は、それを見て。
小さく笑った。
「ほらね」
「始まった」
面倒そうに、フードを引き直す。
「均衡が崩れた瞬間」
「王は」
「新しい王を探し始める」
ハルの心臓が、大きく鳴る。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
逃げたいわけじゃない。
でも。
引き返せないことだけは、理解していた。
統が、静かに言った。
——誇れ。
——貴様は今。
——選ばれた。
その言葉に。
ハルは、目を閉じなかった。
逸らさなかった。
ただ。
真正面から。
暴食の王を見返した。
数秒。
永遠のような時間。
そして。
暴食の影が、ゆっくりと沈んでいく。
再び。
眠りに戻る。
圧力が消える。
空気が、軽くなる。
久我が、息を吐いた。
「……生きてるな」
零が、低く言う。
「普通なら」
「精神、壊れてるよ」
夢魔は、あくびをした。
「だから言ったでしょ」
「面白いって」
そして。
ハルを見て。
「ねぇ」
少しだけ。
真面目な声で。
「本当に」
「王になる気?」
ハルは、少しだけ考えて。
答えた。
「なる気はねぇよ」
夢魔の眉が動く。
「でも」
ハルは続けた。
「必要なら」
「越える」
沈黙。
そして。
夢魔が、笑った。
今までで一番。
嬉しそうに。
「……いいね」
「それ」
「すごくいい」
その瞬間。
零が、奥で小さく呟いた。
「……ほんと」
「ずるい」
葵の指が、わずかに震えていた。
それは。
嫉妬であり。
誇りであり。
恐怖だった。
神木ハルは。
もう。
“守られる側”ではなかった。
王の世界へ。
自分の意思で。
踏み込んだ存在だった。
そして。
統が、最後に一言だけ言った。
——ようやく。
——王の器になったな。




