-第6章- 異変
夜のことを、私はほとんど覚えていない。
正確に言うなら、
覚えているのは「途中まで」だ。
喫茶アオハラを出て、
火憐と別れて、
ハルと並んで歩いていた。
街は静かで、
サイレンが鳴る前の、あの中途半端な時間だった。
——それから先が、途切れている。
「……葵?」
ハルの声で、意識が戻った。
気づけば、私は立ち止まっていたらしい。
彼が少し不安そうに、こちらを覗き込んでいる。
「大丈夫? 顔、青いけど」
「え……?」
頬に触れる。
冷たい。
夜の空気のせいだと思った。
そう思うことにした。
「平気。ちょっと考え事してただけ」
そう答えると、
ハルは納得したように頷いた。
その瞬間だった。
空気が、張りつめた。
耳鳴りでも、風でもない。
“来る”とだけ、分かった。
「……下がって」
自分の声が聞こえた。
けれどそれは、
私が出した感覚じゃなかった。
身体が、勝手に動く。
前に出る。
腕を上げる。
指先が、冷える。
——え?
思考が追いつく前に、
視界が白く染まった。
音が遅れて届く。
氷が、砕ける音。
黒い影が、地面に縫い止められていた。
氷。
それが私の魔法だと、
誰かが教えてくれた気がする。
「……今の」
ハルの声が、遠い。
「葵、今の魔法……」
「……知らない」
反射的に答えていた。
嘘じゃない。
本当に、知らない。
詠唱した覚えもない。
引き金を引いた感覚もない。
ただ、
結果だけがそこにあった。
氷に貫かれ、動かなくなった黒。
白い息を吐く、ハル。
「私……撃ってない」
自分の声が震えているのが、分かった。
「だって、私」
“こんなふうに”
魔法を使ったことはない。
ハルは何か言おうとして、
結局、何も言わなかった。
それが、少し怖かった。
「……帰ろう」
彼はそう言って、
私の前に立った。
守るみたいに。
その背中を見ていると、
胸の奥に、言葉にならない感覚が溜まっていく。
不安じゃない。
恐怖でもない。
もっと、別のもの。
——どうして?
どうして、今みたいな時に、
あなたはいつも“そう”なの。
その疑問は、
声になる前に消えた。
代わりに、
頭の奥で、何かが静かに整理されていく。
感情じゃない。
判断でもない。
ただ、
「そういうことだ」と
理解する感覚。
帰り道、
私は一度も後ろを振り返らなかった。
振り返る必要が、ない気がしたから。
その夜、
私は夢を見なかった。
少なくとも、
覚えていない。
翌朝。
鏡の前に立つと、
いつも通りの自分がいた。
目も、髪も、声も。
何一つ変わっていない。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。
昨日のことは、事故だ。
きっと、無意識にやっただけ。
そう結論づけるのは、簡単だった。
学校へ向かう道すがら、
冷たい風が吹く。
一瞬だけ、
胸の奥が、すっと軽くなる。
——あれ?
今、
何かが“正しく配置された”気がした。
理由は分からない。
でも、不安はなかった。
ただ。
なぜか、
誰かに見られているような気がして、
私は空を見上げた。
そこには、
何もない。
何も、ないはずだった。
______
____第5章【裏】
最初に感じたのは、
落ちている、という感覚だった。
足元がない。
でも、風もない。
音だけがある。
水音じゃない。
もっと乾いていて、冷たい音。
「……ハル?」
声が、やけに遠く響いた。
視界が揺れて、
次の瞬間、私は地面に膝をついていた。
アスファルトでも、土でもない。
冷たくて、硬くて、
なのにどこか“濡れている”ような感触。
すぐそばに、人影があった。
「……ハル!」
駆け寄る。
神木ハルは倒れていた。
呼吸はある。
顔色も悪くない。
触れた肩は、ちゃんと温かい。
——生きてる。
それが分かった瞬間、
胸の奥が、ふっと緩む。
……でも。
「起きてよ」
揺すっても、反応はない。
名前を呼んでも、まぶたは動かない。
私だけが、起きている。
その事実が、
遅れて、じわりと沁みてきた。
「……ねえ」
声がした。
振り向いたつもりはなかった。
でも、声はすぐ後ろから聞こえた。
「優しいよね、あの人」
誰なのか、分からない。
男か女かも、曖昧だった。
姿を見ようとすると、
視界がうまく焦点を結ばない。
「いつも間に合うし」
「ちゃんと、助ける」
言葉は柔らかい。
褒めているみたいに。
でも。
「選ばれる側で、よかったね」
心臓が、一拍だけ遅れた。
「……なに、それ」
声が震えたのは、寒さのせいだと思った。
「だってそうでしょ」
くすり、と笑う気配。
「倒れてるのは、あの人で」
「起きてるのは、君だ」
「それってさ」
一歩、近づく気配。
空気が、ひやりと冷える。
「“見てる側”ってことだよ」
喉が、詰まる。
見てる?
何を?
「……違う」
そう言った。
反射みたいに。
「私、そんな——」
「違わないよ」
即答だった。
「だって、知ってるでしょ」
その声が、
妙に近い。
「――あの人が、最初に名前を呼ぶのは」
「いつも、別の子だって」
胸の奥が、
ぎゅっと掴まれたみたいに縮む。
名前は出ていない。
なのに、浮かんでしまう。
思い出そうとしたわけじゃない。
ただ、最初から、そこにあったみたいに。
「……やめて」
「どうして?」
楽しそうな声音。
「本当のこと、嫌い?」
足元から、
じわじわと冷たさが這い上がる。
膝が、指先が、
感覚を失っていく。
「君は、ずっと後ろだ」
「守られるけど、選ばれない」
「助けられるけど、届かない」
「かわいそうだね」
——違う。
違うはずだ。
ハルは、そんな人じゃない。
私は、そんな——
「じゃあさ」
声が、囁きになる。
「奪えばいいじゃん」
その瞬間、
視界が、真っ白に弾けた。
冷たい。
息ができない。
誰かの名前を呼ぼうとして、
口を開いたのに、声が出なかった。
代わりに、
胸の奥で、何かが静かに笑った気がした。
———
次に意識が戻ったとき、
私は何も覚えていなかった。
ただ、
理由の分からない寒気と、
胸の奥に沈んだ感情だけが、
そこに残っていた。




