ep26.消えた都市
影の中 ― ダイブ移動
世界が、裏返る。
光が消え、
音が消え、
温度だけが残る。
ハルの体は、
影の中を滑っていた。
落ちているわけじゃない。
沈んでいるわけでもない。
ただ――
“影と影の間”を移動している。
足元は存在しない。
代わりに、
無数の黒が流れている。
それは影であり、
記憶であり、
この世界の“裏側”だった。
隣に、魅魅がいる。
彼女はこの空間を怖がらない。
むしろ。
楽しんでいるように見えた。
「ねぇ」
魅魅が、指を伸ばす。
黒の流れに触れる。
指先が、
わずかに沈む。
「ここってさ」
「なに」
「黒の通り道なんだね」
ハルは答えなかった。
事実だからだ。
影は、
黒にとっても移動経路になる。
だからこそ、
ハルは使える。
だからこそ――
危険でもある。
その時。
“違和感”。
流れが、止まった。
「……?」
ハルが眉を寄せる。
影の流動が、
一部だけ淀んでいる。
まるで。
血管の中に、
血栓が詰まっているみたいに。
魅魅も気づいた。
「あれ」
小さく笑う。
「なにこれ」
「……巣だ」
ハルが低く言う。
前方。
影が、
異常に濃くなっている場所がある。
トンネル。
現実世界のトンネルに対応する影の領域。
そこだけ。
黒が、溜まっている。
固まっている。
呼吸している。
「……へぇ」
魅魅が、興味深そうに見る。
「集まってるんだ」
「餌場だな」
ハルが言う。
黒は、本能で集まる。
強い黒がいる場所に。
王がいる方向に。
つまり。
東京に近づいている。
その証拠だった。
その瞬間。
“動いた”。
黒が。
巣の奥から。
形を持つ。
人型。
三体。
いや――
五体。
目がない。
口だけがある。
裂けた口。
影の中なのに、
はっきり見える。
「……見えてる」
魅魅が呟く。
黒が、
ハルを見ている。
王を見ている。
理解している。
「通すな」
声はない。
でも。
意思がある。
次の瞬間。
襲いかかってきた。
影の中なのに。
距離を無視して。
速い。
「チッ」
ハルが影を蹴る。
位置をずらす。
回避。
同時に、
腕を伸ばす。
影が伸びる。
黒を掴む。
握る。
砕く。
一体が崩れる。
霧のように散る。
だが。
消えない。
再構成する。
「……めんど」
魅魅が呟いた。
次の瞬間。
空気が変わる。
魅魅の周囲に。
黒粒子が、
滲む。
甘い匂い。
さっきまでトンネルにあった匂いと、
同じ。
黒たちが止まる。
魅魅を見る。
理解する。
“上位存在”。
魅魅が微笑む。
「ねぇ」
優しく言う。
「どいて」
それだけ。
命令ですらない。
お願い。
なのに。
黒たちが、道を開けた。
左右に分かれる。
抵抗しない。
逆らえない。
王だから。
魅魅は満足そうに笑う。
「いい子」
頭を撫でるような仕草。
触れていないのに。
黒が震える。
ハルは、それを見ていた。
戦わずに。
従わせた。
これが――
王。
魅魅が振り返る。
「行こ?」
まるで、
散歩の途中みたいに。
ハルは数秒、動かなかった。
理解していた。
今、自分は。
どれだけ危険な存在と、
一緒にいるのか。
それでも。
影を踏む。
「……ああ」
再び、移動を始める。
黒の巣窟を抜ける。
その先。
影の流れが、
さらに濃くなる。
東京が、近い。
魅魅が、小さく呟いた。
「楽しみだね」
その声は。
恋する少女の声だった。
そして同時に。
世界を壊せる王の声だった。
____
影が、途切れた。
足場が戻る。
重力が戻る。
音が戻る。
ハルの靴が、アスファルトを踏んだ。
乾いた音が、夜に小さく響いた。
「……着いた」
振り返る。
魅魅も、同じように影から浮かび上がる。
何事もなかったかのように、
スカートの裾を整えている。
その仕草だけ見れば、
ただの少女だった。
けれど。
ハルの視線は、
もう彼女に向いていなかった。
前を見ていた。
そこにあるはずのものを、
探していた。
東京。
日本の中心。
人が溢れ、
光が溢れ、
音が溢れていた都市。
――そのはずだった。
「……なんだよ、これ」
声が、漏れる。
都市は、あった。
形は、残っている。
ビルも。
道路も。
高速道路も。
信号も。
全部、ある。
なのに。
“何もいない”。
灯りがない。
車がない。
人がいない。
音がない。
風だけが吹いている。
看板が軋む音。
遠くで何かが崩れる音。
それだけ。
まるで。
世界から、
人間だけが削除されたみたいだった。
「……これが」
ハルが呟く。
「東京……」
魅魅が、隣に立つ。
嬉しそうに。
「そうだよ」
軽く言う。
「私たちの街」
ハルは、顔をしかめる。
「私たち?」
魅魅は答えない。
代わりに。
空を見上げる。
月は、出ている。
けれど。
光が、届いていない。
都市全体が、
何かに覆われている。
「……濃い」
ハルが言う。
黒が。
空気の密度が違う。
呼吸するだけで、
喉の奥に黒が入ってくるみたいだった。
魅魅が、楽しそうに笑う。
「でしょ?」
「ここね」
「いっぱいあるの」
「なにが」
魅魅は、
ハルを見た。
まっすぐ。
「餌」
ぞくり、とした。
その時。
――ザリ。
音。
遠く。
ビルの屋上。
何かが、動いた。
ハルの視線が跳ねる。
影。
人型。
いや。
人間じゃない。
黒。
複数。
こっちを見ている。
逃げない。
隠れない。
ただ。
見ている。
観察している。
まるで。
侵入者を確認するように。
魅魅が、小さく手を振る。
「大丈夫だよ」
「敵じゃないから」
「……お前のか」
「ううん」
魅魅は笑う。
「“あの子”の」
一瞬。
空気が、重くなる。
都市そのものが、
息をしたみたいだった。
ハルの背筋を、
冷たい汗が伝う。
ここは。
もう。
人間の世界じゃない。
黒の領域。
王の縄張り。
東京は。
“消えた”んじゃない。
奪われたんだ。
黒に。
王に。
支配されている。
ハルは、拳を握る。
戻る理由はない。
進むしかない。
ここに。
答えがある。
十年前の真実も。
アマネの手がかりも。
そして。
王たちの中心も。
魅魅が、歩き出す。
振り返らずに言う。
「ねぇ、ハル」
「なに」
「ここから先はね」
少しだけ。
声が低くなる。
「本当に死ぬかもしれないよ?」
脅しじゃない。
忠告でもない。
ただの事実。
ハルは、一歩踏み出す。
止まらない。
「関係ねぇよ」
答える。
「もう、とっくに戻れねぇ」
魅魅が、笑った。
嬉しそうに。
満足そうに。
「うん」
「知ってる」
都市の奥で。
何かが、目を覚ます。
ゆっくりと。
確実に。
王が。
侵入者の存在を、
知った。
東京編が、始まった。




