ep21.同じ教室で
教室の空気は、妙に甘かった。
窓から入る風はいつもと同じはずなのに、
どこか重くて、肺の奥に残る。
理由は分かっている。
教室の中央。
色乃魅魅。
彼女がいる、それだけで。
「ねぇねぇ、魅魅ちゃんってどこから来たの?」
「髪めっちゃ綺麗!触っていい?」
「彼氏いるの?」
クラスメイトたちが群がる。
笑顔。
興味。
好意。
——自然すぎる。
自然すぎて、不自然だった。
魅魅は笑っていた。
柔らかく。
嬉しそうに。
まるで本当に、普通の転校生みたいに。
「うーん、内緒♡」
小首を傾げる。
それだけで、周囲の温度が上がる。
ハルは席から動かない。
動けない。
視線だけが、彼女を追っていた。
その時。
魅魅の目が、こちらを見た。
一瞬だけ。
——ウインク。
誰にも気づかれない角度で。
そして、立ち上がる。
「先生ー、お手洗い行ってきていいですか?」
許可を待たずに歩き出す。
扉の前で、振り返る。
視線だけで、呼ぶ。
ハルは舌打ちした。
……分かってるよ。
席を立つ。
誰も止めない。
誰も気にしない。
まるで、それが当然みたいに。
廊下に出ると、魅魅はすぐそこにいた。
窓際。
光の中に立っている。
振り返らないまま、言う。
「遅い」
責める声じゃない。
拗ねたみたいな声。
「……わざとだろ」
ハルが答える。
魅魅はくすっと笑った。
振り返る。
ツインテールが揺れる。
「鬼ごっこは、もう終わりだよ?」
静かな声。
あの夜と同じ声。
王の声。
「……だな」
ハルは、彼女を見据える。
「それで?」
「何が目的だ」
「学校まで来て」
「俺を監視か」
魅魅は、少しだけ目を丸くした。
それから。
寂しそうに笑った。
「ひどいなぁ」
「約束、したでしょ?」
一歩、近づく。
距離が縮まる。
甘い匂い。
あの黒粒子の匂いと同じ。
「会いに来るって」
胸の奥が、わずかに揺れる。
「……だからって」
「学校に来る必要はねぇだろ」
魅魅は、少し考える仕草をした。
指を唇に当てる。
「だって」
「ここが、ハルの世界でしょ?」
その言葉に、息が止まる。
「ハルが生きてる場所」
「ハルが笑う場所」
「ハルが、普通でいられる場所」
見上げてくる。
真っ直ぐ。
「だから、知りたいの」
「全部」
嘘じゃない。
それが分かるから、余計に困る。
「……王が」
ハルは言う。
「そんな顔すんなよ」
魅魅は、少しだけ眉を寄せた。
「王だからって」
「好きになっちゃダメなの?」
言葉が、詰まる。
返せない。
魅魅は、ふっと笑った。
今度は、いつもの軽い笑顔。
「安心して?」
「約束は守るよ」
「ハルが約束守る限りは」
指先を持ち上げる。
何もない空間。
でもハルには見えた。
微細な、黒い粒子。
「この子たちも、暴れない」
粒子はすぐに消えた。
「……脅しか」
「違うよ」
即答だった。
「お願い」
その一言の方が、よほど重かった。
沈黙。
風が吹く。
カーテンが揺れる。
魅魅は、少しだけ視線を逸らした。
「ねぇ」
小さく言う。
「逃げないでね?」
その声は。
王じゃなくて。
ただの、少女だった。
ハルは、ゆっくり頷いた。
「逃げねぇよ」
その答えを聞いて。
魅魅は、本当に嬉しそうに笑った。
「よかった」
その瞬間。
空気が、わずかに変わった。
温度が下がる。
「……ずいぶん楽しそうだね」
別の声。
冷たい声。
ハルの影が、揺れる。
葵の姿が、そこに立っていた。
でも。
目が違う。
「嫉妬」
魅魅が呼ぶ。
零は、ゆっくりと歩み寄る。
警戒も、敵意も隠さない。
「学校にまで来るなんて」
「必死じゃない」
魅魅は肩をすくめた。
「だって」
「好きなんだもん」
あっさりと言う。
零の眉が、わずかに動く。
「……相変わらず気持ち悪いね」
「褒め言葉?」
「違う」
即答。
二人の間の空気が、軋む。
見えない力がぶつかっている。
王と王。
同格の存在。
魅魅は、零をじっと見た。
それから、少しだけ微笑む。
「嫉妬」
名前を呼ぶ。
「ちゃんと隣にいられてる?」
零の瞳が、細くなる。
「……どういう意味」
魅魅は、答えない。
ただ、ハルを見る。
それから、零を見る。
「取られないようにね?」
その言葉は、冗談みたいで。
冗談じゃなかった。
零の影が、わずかに広がる。
温度が下がる。
魅魅の周囲の空気が、歪む。
でも。
どちらも動かない。
今は、戦わない。
その理由は、一つだけ。
ハルが、そこにいるから。
魅魅は、くるりと背を向けた。
「じゃあね」
「また教室で」
去っていく。
普通の転校生の歩き方で。
零は、しばらくその背中を見ていた。
それから。
ぽつりと呟く。
「……最悪」
でも。
その声には、ほんの少しだけ。
焦りが混じっていた。
ハルは、何も言わなかった。
言えなかった。
王が二人。
同時に、自分の隣に立っている。
それが何を意味するのか。
もう。
分かり始めていた。




