ep18.交渉か戦いか
路地に、静寂が落ちた。
さっきまで、そこに“何か”がいたはずなのに。
今はもう、空気だけが残っている。
甘い匂いだけが、消えずに漂っていた。
花のような。
蜜のような。
舌の奥にまとわりつくような匂い。
吐き気がするほど、優しい匂いだった。
「……」
ハルは動かなかった。
動けなかった、が正しい。
視界の奥に、まだ残っている。
あの女の姿。
ツインテール。
笑っている口元。
まっすぐ自分を見ていた目。
――欲しい。
そう言われたわけじゃない。
触れられたわけでもない。
なのに。
心臓だけが、まだ速く打っていた。
まるで、
身体の一部が、向こうに引っ張られているみたいに。
「……ハル」
隣で、葵が小さく呼んだ。
違う。
今の声は、葵じゃない。
零だ。
ハルは、ゆっくりとそちらを見る。
葵の瞳の奥に、もう一人がいる。
冷たいはずの存在。
氷の王。
嫉妬の王。
なのに今は――
わずかに、警戒していた。
「……行った、よね」
ハルの声は、少しだけ掠れていた。
零はすぐには答えなかった。
代わりに、空気を見ていた。
漂う粒子。
残された匂い。
消えた気配の余韻。
王が通った後にしか残らない、歪み。
「……うん」
やがて、零は言った。
「行った」
その一言だけで、
本当に“去った”ことがわかる。
存在の密度が違う。
いるか、いないか。
それだけで世界が変わる。
さっきまで、
この場所は、あの女のものだった。
今は違う。
ようやく、“自分たちの世界”に戻ってきた。
「……チッ」
久我が舌打ちする。
珍しく、遅かった。
反応が。
拳を握ったまま、解かない。
あの男が、
明確に「遅れた」と認識している証拠だった。
「気づけなかった」
低く呟く。
「近づくまで」
それが異常だった。
久我ほどの男が、
接近を許すこと自体が、異常だ。
それほどまでに、
あの女は自然にそこにいた。
最初から、
そこに存在するのが当然みたいに。
「……ねぇ」
零が、ぽつりと言う。
「ハル」
ハルは答えない。
視線は、まだ前を向いたままだ。
女が立っていた場所。
もう何もない場所。
「聞いてる?」
「……聞いてる」
ようやく返す。
零は少しだけ黙ってから、
言った。
「好きだよ、あれ」
沈黙。
「……は?」
間の抜けた声が出る。
久我も、眉を寄せる。
「何言って――」
「“好き”」
零は繰り返した。
感情のない声で。
診断するみたいに。
「もう」
「完全に」
「ハルのこと」
心臓が、どくん、と鳴る。
「……何を根拠に」
久我が低く問う。
零は即答した。
「見てたから」
短い答え。
それだけで十分だった。
王は、王を見る。
感情の歪みで理解する。
あの女の視線は、
明確に、
ハルに向いていた。
他の誰でもない。
久我でもない。
零でもない。
ハルだけを、見ていた。
「……最悪だ」
ハルが呟く。
冗談じゃない。
あんなものに、
興味を持たれるなんて。
あれは。
あれは、
人間じゃない。
形が似ているだけの、
別の何かだ。
「うん」
零は同意した。
「最悪」
でもその声には、
ほんの少しだけ、
別の感情が混じっていた。
嫉妬。
わかりやすい。
「でもさ」
続ける。
「王に好かれるってことは」
一拍。
「逃げられないってことだよ」
空気が、重くなる。
甘い匂いが、まだ消えない。
肺の奥に入り込んで、
抜けない。
まるで、
種を植えられたみたいに。
「……」
ハルは、自分の手を見る。
震えていない。
恐怖じゃない。
違う。
あれは恐怖じゃない。
もっと別の感覚。
理解されてしまった感覚。
覗かれた感覚。
選ばれた感覚。
「……来るな」
小さく呟く。
願いみたいに。
でも、
わかっている。
来る。
あれは、
必ずまた来る。
理由なんていらない。
欲しいから来る。
それが色欲だ。
「……ハル」
零がもう一度呼ぶ。
今度は、
少しだけ近い声で。
「どうする?」
問いだった。
王としての問い。
逃げるか。
抗うか。
受け入れるか。
ハルは、ゆっくり息を吐いた。
肺の奥に残っていた甘い匂いが、
少しだけ薄れる。
「……決まってる」
顔を上げる。
「ぶっ壊す」
零が、笑った。
嬉しそうに。
本当に、嬉しそうに。
「うん」
短く答える。
「それでこそ」
影が、少しだけ揺れた。
嫉妬の王は、
その選択を歓迎していた。
なぜなら――
壊そうとするほど、
人間は黒に近づくから。
そしてそれこそが、
王に至る道だから。
遠くで、
黒粒子が、まだ漂っている。
見えない糸の先で、
色欲の王が、
こちらを見ている気がした。
逃げない獲物を見つけた、
愉しそうな目で。
粒子が、ゆっくりと集まる。
光の中に浮かぶ黒い塵が、
意思を持っているみたいに、一箇所へ収束していく。
最初は、輪郭だけだった。
次に、髪。
次に、肩。
次に――瞳。
そこに、“立っていた”。
ツインテールが、空気もないのに揺れている。
最初からそこにいたみたいに。
ずっと見ていたみたいに。
少女は、少しだけ首を傾けた。
そして。
ふっと笑った。
「――鬼ごっこは、もう終わり?」
甘い声だった。
追われていた側の声じゃない。
追わせていた側の声だ。
零の瞳が、冷たく細まる。
「最初から、逃げてたつもりないでしょ」
魅魅は、小さく肩をすくめた。
「うん」
「だって」
視線が、まっすぐハルに向く。
「ちゃんと来てくれたから」
心臓が、跳ねる。
ドクン、と。
不自然なほど、大きく。
「……てめぇが撒いたんだろ」
ハルが言う。
周囲の空気を指す。
漂う黒粒子。
「人間を使って」
「壊して」
「遊んで」
魅魅は、否定しなかった。
ただ、少しだけ困ったように笑った。
「遊んでるつもりはないよ」
「探してるの」
一歩、近づく。
粒子が、彼女の足元で揺れる。
「好きになってくれる人」
その言葉は。
冗談みたいに軽くて。
でも。
重すぎるほど本気だった。
久我が、前に出る。
「それで、あれか」
路地に倒れていた能力者たちを思い出す。
焦点の合わない目。
壊れた感情。
「選別のつもりか」
魅魅は、久我を見る。
興味は、ない。
すぐに視線をハルへ戻す。
「だって」
「壊れる人は、最初から壊れるでしょ?」
あまりにも自然に言った。
悪意がない。
だからこそ、異常だった。
零が、小さく笑った。
「相変わらずだね」
「ほんと、気持ち悪い」
魅魅は、嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
褒め言葉みたいに。
「嫉妬の王」
空気が、少しだけ軋む。
王と王。
互いに理解している者同士の空気。
魅魅は、ハルを見る。
じっと。
逃がさないみたいに。
「ねぇ」
一歩。
また一歩。
近づく。
「もう逃げないでしょ?」
声が、柔らかくなる。
「ずっと待ってたんだから」
ハルは、動かなかった。
逃げない。
逸らさない。
王の視線を、真正面から受け止める。
ここで初めて。
本当の意味で。
鬼ごっこが終わった。
次に始まるのは――
逃走じゃない。
交渉か。
それとも。
戦いか。




