ep16.漂う匂い
火憐の抗議がまだ店内に響いている中で、
ドアベルが、からん、と鳴った。
久我が振り返る。
「行くぞ」
短い一言。
それだけで空気が切り替わる。
戦闘前の顔だ。
ハルは、最後に一度だけ火憐を見る。
椅子に縛られて、まだ文句を言っている。
「ほんとに覚えてろよ!」
「絶対あとで倍返しだからな!」
いつもの火憐だ。
怒ってて。
騒がしくて。
うるさくて。
だからこそ。
連れていけない。
「……すぐ戻る」
それだけ言って、ハルはドアを押した。
朝の光が差し込む。
コーヒーの匂いが、背中側に遠ざかっていく。
⸻
外。
通学路。
学生の笑い声。
自転車のブレーキ音。
コンビニのチャイム。
世界は、あまりにも普通だった。
「……ほんとに“王”がいる街に見えるか?」
久我がぼやく。
「見えないから厄介なんだろ」
ハルが返す。
その横で、葵が静かに目を閉じた。
深く息を吸う。
吐く。
そして。
「……こっち」
指差す。
住宅街の奥。
「粒子、濃い」
「マジで犬だな」
「だから嫉妬だって」
影が揺れる。
零の気配。
声は軽い。
でも内容は冷静だった。
「普通の人間は気づかないレベル」
「でも確実に溜まってる」
「水にインク落としたみたいに、じわじわ」
「長期戦型だね、あいつ」
「最悪だな」
久我が舌打ちする。
「即死の黒の方がまだマシだ」
「気づいた時には町ごと洗脳、ってパターンだろ」
統の声が、唐突に混じった。
『合理的だな』
ハルの口が、勝手に動く。
『恐怖より快楽を与える方が支配は容易い』
『色欲は支配効率が最も高い罪だ』
「……いちいち解説すんな」
『事実だ』
『だから厄介だ』
静かに、続ける。
『おそらく既に接触者がいる』
『軽度汚染者も多数』
『街全体が“餌場”だ』
背筋が寒くなる。
敵地のど真ん中を歩いてる感覚。
どこからでも手が伸びてくる。
「……で、どうする」
久我が聞く。
「匂い辿るだけじゃ会えねぇぞ」
「向こうから出てこない限りな」
葵が、ぽつりと言う。
「たぶん」
「もう見られてる」
全員、足が止まる。
「……は?」
「さっきから」
葵の視線が、上に動く。
電柱。
屋根。
窓。
「視線、多い」
「人じゃない」
「もっと……ねっとりしたやつ」
ぞく、とする表現。
その瞬間。
風が吹いた。
生ぬるい。
甘ったるい匂いが、鼻をかすめる。
香水みたいな。
腐った花みたいな。
不快なのに、どこか惹かれる匂い。
「……っ」
ハルの頭が、少しだけぼんやりする。
危ない。
直感でわかる。
これが。
「黒粒子……」
零が小さく笑う。
「歓迎されてるね、私たち」
久我が拳を鳴らす。
「上等だ」
「会いに行く手間が省けた」
そのとき。
通学路の角。
制服姿の女子高生が、こちらを見ていた。
ツインテール。
細い足。
やけに整った顔。
にこ、と笑う。
目が、笑っていない。
視線だけが、べっとりと絡みつく。
まるで。
「最初から待ってた」みたいに。
ハルの心臓が、大きく脈打つ。
――見つけた。
いや。
違う。
あっちが。
こっちを。
見つけてる。
少女は、くすっと笑った。
そして。
小さく、手を振った。
「……あ」
葵の声が漏れる。
「いた」
甘い声が、風に溶ける。
「やっと来てくれたぁ」
その瞬間。
空気の温度が、じわっと下がった。
色欲の王。
魅魅。
向こうから、歩いてきた。
まるで。
ただの転校生みたいな顔で。
少女は、笑っていた。
手を振る仕草が、やけにゆっくりだ。
まるで水の中みたいに。
「やっと来てくれたぁ」
甘い声。
耳に直接触れるみたいな、距離感のない声。
ハルの喉が、ひくりと鳴る。
敵。
そう判断してるのに。
足が動かない。
逃げなきゃいけないのに。
近づきたくなる。
「……っ」
頭の奥が、じわ、と痺れる。
(まずい)
直感。
これは、まずい。
「ハル」
葵の声。
振り向くと、葵も同じ顔をしている。
少しだけ、頬が赤い。
熱っぽい目。
「……なんか、あの子……」
言葉が止まる。
視線が離れない。
少女は首を傾げる。
ツインテールが揺れる。
「ねぇ」
一歩。
近づくだけで。
心臓の音がうるさくなる。
「怖がらないでよぉ」
にこ、と笑う。
「わたし、仲良くしたいだけなのに」
甘い。
優しい。
守りたくなる声。
「……久我」
ハルが小声で呼ぶ。
返事がない。
横を見る。
久我が、固まっていた。
拳を握ったまま。
動けない。
目だけが、少女に吸い寄せられている。
「……なんだ、これ」
低く呟く。
「殴る気が……失せる」
少女はくすっと笑った。
「そーだよぉ」
「だって」
とん、と自分の胸を指差す。
「わたし、色欲だもん」
その瞬間。
ぞわっ、と空気が粘つく。
黒粒子が、見えるレベルで漂っている。
光の中に、細かい埃みたいに。
呼吸するたびに、体に入ってくる。
熱い。
甘い。
眠い。
「……っ」
ハルの膝が、わずかに折れる。
(戦えない)
(こいつに刃向かう理由が、消えていく)
頭が、書き換えられていく感覚。
「かわいい……」
ぽつり、と葵が呟いた。
自分で言って、はっとする。
「ち、違……」
言葉が続かない。
少女が、にやぁっと笑う。
「ありがと♡」
その笑顔。
ぞっとするほど、純粋。
『離れろ』
唐突に、声。
統。
ハルの口が勝手に動く。
『精神汚染型だ』
『交戦不可』
『距離を取れ』
『こいつは——』
一瞬、言葉が詰まる。
『——最悪の部類だ』
少女の目が、すっと細まる。
「あれぇ?」
「今の声、だぁれ?」
にこにこしたまま。
でも。
瞳の奥だけ、底なしに冷たい。
「……へぇ」
「傲慢、入ってるんだ」
ぞくり、と空気が凍る。
「いいなぁ、それ」
「欲しくなっちゃう」
黒粒子が、ぶわっと濃くなる。
息が詰まる。
やばい。
このままだと。
全員、堕ちる。
ハルが、歯を食いしばる。
「……何が目的だ」
少女は、ぱちぱち瞬き。
それから。
あっさり言った。
「スカウト?」
全員「は?」という顔になる。
「だってぇ」
くるっと一回転。
制服のスカートがふわっと広がる。
「王候補が三人もいるんだよ?」
「そりゃ声かけるでしょ」
悪びれもない。
まるで転校生が友達作りに来たみたいなノリ。
「戦うの、めんどくさいし」
「仲良くしよ?」
その言い方が。
本気なのか、冗談なのか、分からない。
一番怖いタイプだ。
「今日はさ」
魅魅は、にっこり笑った。
「顔見せだけ♡」
「本気出したら、君たち壊れちゃうし」
ぞっとするほど自然に言う。
「また来るね」
「今度は、もっと可愛くしてきて?」
最後に。
ハルの頬を、指先でちょん、と触れた。
それだけで。
心臓が、変な鼓動を打つ。
そして。
ふっと。
黒粒子が霧みたいに散った。
少女の姿も、消える。
静寂。
数秒遅れて。
「はっ……!」
全員、同時に息を吸った。
肺が痛い。
溺れてたみたいだ。
久我が、地面に唾を吐く。
「……クソ女」
珍しく本気の悪態。
「勝てる気がしねぇ」
ハルも同感だった。
統の声が、静かに響く。
『理解したか』
『あれが“王”だ』
『力ではなく、支配で殺すタイプ』
『最も厄介な罪だ』
胸の奥が、重い。
戦ってもいないのに。
完敗だった。




