ep15.余興
溶岩が、じゅう、と音を立てて冷えていく。
火憐の身体から熱が抜け、
ただの少女に戻る。
久我が肩で息をしながら立ち上がった。
「……厄介すぎんだろ、あの女」
魅魅は笑っている。
怒ってもいない。
逃げてもいない。
ただ。
楽しそうに。
「ふふ」
「ねぇ」
「まだやる?」
首を傾ける。
ツインテールが揺れる。
仕草が、やけに幼い。
なのに。
圧だけが異様に重い。
空気が粘つく。
肺がうまく動かない。
統の声が、頭の奥で冷静に告げる。
『王だ』
『人型の黒の最上位』
『真正面から勝てる存在ではない』
『交戦は愚策だ』
(……分かってる)
ハルは、ゆっくり前に出た。
「……なぁ」
魅魅が嬉しそうに目を細める。
「なぁに?」
「話せるか」
「最初からそのつもりだよ?」
にこ。
「だって君、私のこと殺す目してないもん」
図星だった。
ハルは拳を握る。
「お前」
「何がしたい」
「んー?」
魅魅は指を唇に当てる。
「好きな子増やしたいだけ」
「依存されたいだけ」
「みんな私のこと好きになれば、寂しくないでしょ?」
「それの何が悪いの?」
悪意が、ない。
本気でそう思ってる顔。
だから余計にタチが悪い。
「……やり方が最悪だ」
「そぉ?」
「火憐、幸せそうだったよ?」
言葉に詰まる。
確かに。
さっきの火憐は、
苦しそうじゃなかった。
むしろ。
満たされていた。
「……お前」
ハルは睨む。
「王なんだろ」
魅魅の目が、少しだけ細くなる。
「……知ってるんだ」
「七つの王」
「その一人」
「色欲の王」
沈黙。
それから。
魅魅は、くすっと笑った。
「そ」
「魅魅」
「それが私」
あっさり名乗る。
誇りも、威圧もない。
ただ、当然みたいに。
「なら」
ハルは続ける。
「俺たち、お前と戦いに来たんじゃない」
「王に会いに行く途中なんだ」
「……へぇ?」
興味。
空気が少し変わる。
「他の王にも?」
「全員だ」
「嫉妬にも、もう会った」
ぴくり、と眉が動く。
「……あの子、まだ王気取りなんだ」
「面白」
くすくす笑う。
「で?」
「私も倒すの?」
ハルは首を振る。
「違う」
一歩、前に出る。
「お前、敵じゃない」
魅魅が止まる。
「……え?」
「利用させてもらう」
はっきり言う。
「情報くれ」
「王のこと」
「黒粒子のこと」
「世界の裏側のこと」
「その代わり」
目を逸らさない。
「今は引け」
「ここで争う意味ない」
静寂。
風も止まる。
魅魅は、じっとハルを見る。
値踏みするみたいに。
「……命令?」
「取引だ」
即答。
「また来る」
「逃げない」
「お前とも、ちゃんと向き合う」
「だから今日は終わりにしろ」
長い沈黙。
やがて。
魅魅は、ふっと笑った。
「……変なの」
一歩、近づく。
顔が近い。
甘い匂い。
「普通さ」
「王にそんな口きかないよ?」
「怖くないの?」
「怖い」
正直に言う。
「でも退かねぇ」
「お前、面白いから」
魅魅の瞳が、見開かれる。
「……面白い?」
「うん」
「壊したくないタイプ」
「だから後回し」
にこ。
無邪気な笑顔。
でもそれは。
王の判断だった。
「今日は帰る」
黒粒子が、すっと薄れる。
「でもさ」
振り返る。
「次会ったら」
「もっと好きにさせるから覚悟してね?」
「火憐ちゃん、私と相性いいし」
ぺろ、と舌を出す。
「奪っちゃうかも」
ぞくり、と背筋が冷える。
「……やれるもんならやってみろ」
ハルが言う。
魅魅は、楽しそうに笑った。
「いいね」
「そういうの、好き」
次の瞬間。
姿が、霧みたいに溶けた。
静寂。
久我が深く息を吐く。
「……交渉成立か?」
「いや」
ハルは空を見上げる。
「気に入られただけだ」
「最悪だろ、それ」
「だな」
でも。
確信があった。
あいつはまた来る。
敵としてじゃない。
もっと面倒くさい形で。
——王は、去った。
でも。
物語には、完全に絡んできた。
溶岩が、ぱき、と音を立てて砕けた。
赤黒い塊が、ただの石みたいに崩れていく。
夜の湿った空気が戻ってくる。
さっきまでの熱が嘘みたいに消えていた。
「……っ」
火憐の膝が崩れた。
「おっと」
久我が片手で支える。
「大丈夫か」
「……あれ」
火憐はきょとんとしている。
自分の手を見る。
服を見る。
地面を見る。
「……私、なにしてた?」
記憶が抜けているわけじゃない。
でも。
夢みたいに遠い。
「……なんか」
眉を寄せる。
「すごい、気持ちよかった気がする」
その言葉に、全員が少しだけぞっとした。
快感。
あれは戦闘じゃない。
“依存”だ。
「あの女……」
久我が舌打ちする。
「精神いじるタイプか」
「最悪だな」
「最悪どころじゃねぇ」
ハルは空を見上げる。
黒粒子は、もう漂っていない。
でも。
まだ匂いが残っている気がする。
甘ったるい。
腐った花みたいな。
胸の奥が、じっとりする匂い。
「……王、か」
ぽつりと呟く。
統の声が、頭の奥で冷静に告げる。
『色欲の王』
『精神汚染型』
『交戦は推奨しない』
『あれは“戦力”ではなく“環境”だ』
(環境……)
確かに。
あいつがいるだけで、
周囲が敵になる。
仲間が、仲間じゃなくなる。
「最悪のタイプだな」
ハルが吐き捨てると。
——ふっ。
風が、吹いた。
誰もいないはずの路地。
なのに。
足元に、ひらりと何かが落ちた。
紙。
薄い、黒い紙切れ。
「……?」
拾う。
触れた瞬間、ぞわっとした。
表面に、指紋みたいな黒い模様。
そして。
赤い口紅みたいな字で、ぐちゃっと一言。
『またね』
裏。
走り書き。
『黒粒子=種』
『王は“環境”から生まれる』
『探すなら、撒いてる場所から』
「……っ」
ハルの背筋が凍る。
「置き土産か?」
久我が覗き込む。
「……ヒントだな」
「あいつ」
ハルが苦く笑う。
「最初から、遊んでやがる」
敵じゃない。
でも味方でもない。
ただ。
「面白いから生かす」
それだけ。
完全に、王の目線。
「……ムカつく」
でも。
ありがたいのも事実だった。
黒粒子。
種。
環境。
つまり——
「黒を“発生させてる場所”があるってことか」
「感染源か」
久我が腕を組む。
「そこ叩けば、王に近づけるって話だな」
火憐が、まだぼんやりしながら言う。
「……かわいかったな、あの人」
全員が一斉に見る。
「え?」
「いや……なんか……」
頬を押さえる。
「むちゃくちゃかわいかった……」
「……やっぱ後遺症あるじゃねぇか」
久我が呆れる。
「ち、違うって!」
「なんか……頭に残ってるだけ!」
「ほんとに!」
必死に否定する火憐。
でも。
ほんの少しだけ。
声が名残惜しそうだった。
それが、いちばん怖い。
ハルは、紙をポケットに入れる。
「……作戦、練り直そう」
「王に正面からは無理だ」
「まずは“黒粒子を撒いてる場所”探す」
「原因潰して、王を引っ張り出す」
「……狩るんじゃない」
「会いに行く」
夜が、静かになる。
祭りの残り火だけが遠くで揺れている。
七つの王。
嫉妬。
傲慢。
そして——色欲。
一歩ずつ。
確実に。
人間の領域から、外れていく。
でも。
もう止まれない。
ハルは小さく息を吐いた。
「……次、行くぞ」
王に近づくための、次の一歩。
夜はまだ、終わらない。
_____
喫茶アオハラ — 作戦会議
コーヒーの匂いが、やけに濃い朝だった。
いつもと同じはずなのに、空気が重い。
窓の外では、通学路のざわめき。
平和そのものの景色。
なのに。
テーブルの上に置かれた一枚の紙だけが、
この場所を現実から切り離していた。
黒い粒子の付着した、あの紙。
魅魅が残していった“種”。
「……で」
久我が椅子を軋ませる。
「どうすんだ」
単刀直入。
いつも通りの声。
だが視線は鋭い。
ハルは腕を組んだ。
「追うしかないだろ」
「放っといたら、あいつ、街ごと汚染する」
「だな」
即答。
久我も同意だった。
そのとき。
「……待って」
葵が、小さく呟いた。
目が、少しだけ遠くを見る。
影が、揺れる。
零だ。
数秒後。
葵の口が、勝手に動く。
「匂い、残ってる」
ぞくり、と全員の背筋が粟立つ。
「粒子は完全に消えてない」
「濃いところ、たぶん辿れる」
「犬かお前は……」と久我。
「失礼だな。嫉妬だよ?」と零。
軽口。
でも内容は重い。
「行けるのは少数だね」
零が続ける。
「人数増やしたら、逆に汚染される」
「精神系は集団ほど危ない」
「……つまり?」
ハルが聞く。
零は、ゆっくり視線を横に向けた。
そこ。
火憐。
「……え?」
全員の視線が集まる。
火憐がきょとんとする。
「なに?」
「私、なんかした?」
「一番ダメ」
即答だった。
「え」
「一番堕ちるタイプ」
「感情強い」
「魔力多い」
「思い込み激しい」
指を折って数える零。
「魅魅の“餌”」
「直球やめろ?!」
火憐が立ち上がる。
「いやいやいやいや、待って?!」
「私めっちゃ戦力なんだけど?!」
「だからだよ」
久我が淡々と言う。
「強い奴ほど乗っ取られたら厄介だ」
「万が一暴走したら、俺ら全員死ぬ」
ぐ、と火憐が言葉を詰まらせる。
「……でも」
「足手まといって言われてるみたいで嫌なんだけど」
少しだけ、声が小さい。
ハルが目を逸らす。
正直。
連れていきたい。
でも。
昨夜の火憐の様子が、頭に焼き付いている。
『……かわいい……』
あの、焦点の合ってない目。
あれが、もう一度起きたら。
今度は戻ってこないかもしれない。
「……悪い」
ハルは言った。
「今回は、待機」
沈黙。
数秒。
火憐は、ふっと笑った。
「……は?」
笑ってるのに、目が笑ってない。
「私、信用ゼロ?」
「違う」
即答したのは葵だった。
「一番、大事だから」
その言葉に。
火憐の喉が、詰まる。
「……だからって」
「縛る必要ある?!」
次の瞬間。
ガチャ。
久我がどこからかロープを出した。
「念のためな」
「念のためで縛るなぁ?!」
「脱走しそうだし」
「するわ!!」
「ほらな」
「この野郎ぉぉぉ?!」
数分後。
椅子にぐるぐる巻きにされた火憐がいた。
「ちくしょう覚えてろよ……!」
「帰ってきたら全員コーヒー奢れよ……!」
「了解」
「軽いな?!」
そのやり取りを見ながら。
ハルは、胸の奥が少し痛んだ。
これは正しい判断だ。
でも。
正しい選択って、だいたい苦い。
ブラックコーヒーみたいに。
飲み込むしかない。
「……行くぞ」
久我が立ち上がる。
葵が頷く。
影が、わずかに揺れる。
「ふふ」
零が、小さく笑った。
「――じゃあ、行こうか」
「色欲の王に、会いに」
窓の外。
いつも通りの朝。
なのに。
世界のどこかで、もう黒は広がっている。
静かに。
じわじわと。
気づかれないまま。




