ep13.後味
喫茶アオハラの朝は、驚くほど普通だった。
ミルの音が、いつも通り店内に響く。
ガリ、ガリ、と一定のリズム。
湯が沸く音。
カップを温める湯気。
コーヒーの匂い。
どれも昨日と同じで、
どれも数日前と同じで。
——なのに。
「……静かだな」
久我がぼそっと言った。
誰に向けた言葉でもない。
ただの感想。
だが、その一言がやけに耳に残った。
カウンターの奥で、
火憐が無言でドリップしている。
いつもなら
「だから蒸らしは三十秒って言ってるでしょ!」とか
「雑!」とか
うるさいくらい口出してくるのに。
今日は、何も言わない。
葵も同じだった。
窓の外を見ながら、
ぼんやりと提灯の撤去作業を眺めている。
祭りの痕跡が、
少しずつ街から消えていく。
まるで。
昨日の出来事ごと、
なかったことにされていくみたいに。
「……鷹見は?」
ハルが聞く。
「寝かせてる」
久我が短く答える。
「起きてはいるが、動けねぇ」
あの傷だ。
当然だ。
全身の損傷を、自分で引き受けた。
まともに立てる方がおかしい。
「無茶しすぎなんだよ、あの人……」
葵が小さく呟く。
誰も否定しない。
鷹見がいなければ、
あの場で何人死んでいたか分からない。
統を止められたのも、
あの男がいたからだ。
「……」
ハルは、コーヒーを一口飲む。
苦い。
やけに苦い。
舌に残る。
魅魅の笑顔が、ふっと脳裏をよぎった。
あの、甘ったるい声。
ねっとりした視線。
『かわいいね』
火憐の、あの一言。
「……っ」
無意識に、奥歯を噛み締める。
思い出したくないのに、
鮮明すぎる。
「はっ……!」
火憐が急に肩を震わせた。
「……あれ?」
「どうした」
「いや……なんか、変な夢見てたみたいな……」
額を押さえる。
「胸の奥、ざわざわする……」
後遺症はない。
ないけど。
確実に「触れられた感覚」だけが残っている。
それが、余計に気持ち悪い。
「……遊ばれたな、俺ら」
久我が吐き捨てる。
「本気出されたら終わってた」
誰も、笑えなかった。
その時だった。
カラン、と。
スプーンがカップに当たる。
小さな音。
それと同時に。
ハルの喉が、勝手に動いた。
「——黒粒子の濃度が上昇している」
全員が凍る。
声。
ハルの声。
でも、ハルじゃない。
「半径二十五キロ圏内」
「精神汚染報告、増加」
「失踪者、十九名」
淡々と。
感情ゼロで。
統の声が続く。
「……なるほど」
カウンターに指を置き、軽く叩く。
「効率的だ」
「人間を黒に染めるなら、この方法が最適解だな」
「粒子散布型感染」
「接触不要、呼吸のみで侵食可能」
久我が舌打ちする。
「おい、勝手に喋んな」
「黙れ、非効率」
即答。
冷たすぎる返し。
「王を探しているのだろう、貴様ら」
ゆっくり顔が上がる。
ハルの目なのに、
光が違う。
「ならば次は色欲だ」
「奴は“巣”を作るタイプだ」
「人を集め、依存させ、増殖させる」
「すでに拠点が形成されている可能性が高い」
「放置すれば、都市一つ落ちるぞ」
店内が、しん、と静まる。
コーヒーの香りだけが漂う。
日常の匂い。
でも。
確実に、戦場の匂いが混ざってきている。
「……場所は」
ハルが、静かに聞く。
統が、口角をわずかに上げた。
「西だ」
「黒が濃い」
「甘ったるい腐臭がする」
「……色欲の王の縄張りだ」
火憐が、ぎゅっと拳を握る。
葵が、小さく息を吸う。
久我が、コートを掴む。
「……行くか」
ハルは、カップの底に残ったコーヒーを飲み干した。
苦味が、喉を焼く。
「行こう」
立ち上がる。
「次は、あいつの“巣”だ」
窓の外。
最後の提灯が外される。
夜祭りは、完全に終わった。
そして。
王を狩る物語が、
静かに次の段階へ進み始めた。
____
統を取り込んでから、数日が過ぎた。
喫茶アオハラは、いつも通りだった。
豆を挽く音。
湯気。
カップの触れ合う軽い音。
変わらない日常。
なのに。
「……静かすぎない?」
火憐が窓の外を見て呟いた。
昼間だというのに、人通りが少ない。
いや。
少ない、というより——
“動いていない”。
ベンチに座ったままのカップル。
立ち話の途中で止まった二人。
スマホを持ったまま固まっている学生。
笑っている。
全員、同じ顔で。
同じ温度で。
気味が悪いくらい、幸せそうに。
「……あれ、ずっとあの姿勢じゃね?」
美波が言う。
「さっきから動いてない」
ハルも気づいていた。
胸の奥が、ざわつく。
「黒、か……?」
無意識に呟いた瞬間。
喉が勝手に動いた。
「違う」
自分の声なのに、自分じゃない。
低く、冷たい声音。
「これは黒ではない」
ハルの口が、勝手に続ける。
「空気中に微量の粒子反応」
「精神干渉型」
「なるほど」
「効率的だな」
久我が目を細める。
「……統か」
「黒粒子だ」
その単語が、空気を凍らせた。
「色欲の王がよく使う手法」
「吸引、依存、思考鈍化」
「集団感染向けの散布型汚染」
「人間を“自分から堕ちたくなる状態”にする」
火憐が顔をしかめる。
「……なにそれ、最悪」
「触れずに洗脳できるってことか」
「肯定だ」
ハルの視界の端で。
葵が、ふらついた。
「……なんか、甘い匂い……」
胸を押さえている。
美波の呼吸も浅い。
火憐の頬が、わずかに赤い。
統が淡々と言った。
「感情が揺れやすい者から感染する」
「依存傾向が強い者ほど危険」
久我が即座に吐き捨てる。
「女とガキはアウトだな」
「は!?」
火憐が睨む。
「どういう意味よ!」
「足手まといって意味だ」
即答。
一切の迷いなし。
「色欲は“好き”とか“かわいい”とか、そういう感情を利用する」
「お前ら三人、真っ先に餌だ」
言葉が刺さる。
反論できない。
実際。
葵はまだ胸を押さえている。
美波は銃を握る手が、少し震えている。
火憐は視線が泳いでいる。
「……俺と久我だけで行く」
ハルが言った。
「統の解析もある」
「最小人数が正解だ」
沈黙。
悔しそうに火憐が歯を噛む。
「……死んだら許さないから」
「死なねぇよ」
久我が肩を鳴らす。
「まだ借りがあるんでな」
ハルは葵を見る。
「待っててくれ」
葵は小さく頷いた。
でも。
その目は、少しだけ潤んでいた。
「……うん」
「気をつけて」
統が告げる。
「突入推奨人員」
「神木ハル」
「久我」
「以上」
「私が内部解析を担当する」
つまり。
二人と、一つ。
それだけ。
扉を開けた瞬間。
甘ったるい匂いが、喉に絡みついた。
花みたいで。
香水みたいで。
腐った果実みたいな匂い。
気持ち悪い。
「……巣だな」
久我が呟く。
通りの先。
人が集まっている。
笑っている。
抱き合っている。
泣いている。
でも全員、同じ顔。
同じ幸福。
同じ諦め。
「……気持ち悪ぃ」
ハルの背筋に、冷たい汗が流れる。
その時。
奥のビルの入口。
ピンク色の光。
ゆらり、と。
影が動いた。
長いツインテールが揺れる。
細いシルエット。
少女。
いや。
女。
声が、耳の奥に直接届く。
甘い。
ねっとりした声。
「……あ」
「来ちゃった」
「お客さん」
喉が、ひくりと鳴る。
統が小さく呟く。
「確認」
「色欲の王」
「個体名——」
影が、くすっと笑った。
「魅魅」
「よろしくね、お兄さんたち」
心臓が。
嫌な音を立てた。
——ここから先は、人間の領域じゃない。
色欲編、開幕。




