-第32章- 夜祭
路地を抜け、祭りの喧騒から少し離れた場所。
提灯の光が届かない分、空気が冷たい。
美波は足を止め、振り返った。
「……ここでいい」
時矢は周囲を見回し、逃げ道を探すような素振りを見せない。
それが、逆に緊張を生んでいた。
久我は少し距離を取って立ち、腕を組む。
「確認だけだ」
低い声。
「責める気はない」
時矢は、小さく頷いた。
「……わかってます」
美波が一歩、前に出る。
「私の両親」
その言葉で、空気が変わる。
「死んだ瞬間、
人と人の立ち位置が、一瞬で入れ替わった」
時矢の指先が、わずかに震えた。
「そのせいで、二人とも撃たれた」
美波は感情を押し殺した声で続ける。
「……あの時、
“時間が止まった”って思った」
久我が、視線を落としたまま言う。
「お前がやったのか」
問いは短い。
逃げ場も、言い訳もない。
時矢は、少し考えてから答えた。
「……止められます」
一拍。
「でも」
はっきりと、続ける。
「大人を動かすのは、無理です」
美波が息を呑む。
時矢は、目を逸らさなかった。
「僕の能力は、
“自分が処理できる範囲”しか触れない」
「世界が止まっても、
人の意思までは止められない」
沈黙。
久我は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか」
それだけだった。
怒りも、疑いもない。
ただ、納得した声。
久我は、時矢から視線を外し、美波を見る。
「悪かった」
短い言葉。
だが、そこに嘘はなかった。
美波は、驚いたように目を瞬かせた。
「……え」
「疑った」
久我はそれ以上、言い訳をしない。
「それだけだ」
しばらくの沈黙のあと、美波は小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
それが、今出せる精一杯だった。
久我は踵を返す。
「戻るぞ」
「うん」
美波は一度だけ振り返り、時矢を見る。
「……逃げないんだね」
時矢は苦笑した。
「逃げると、
もっと大変なことになる気がして」
美波は、少しだけ笑った。
_______
人の気配が、少しずつ遠ざかっていく。
路地に残ったのは、火憐と亜蓮だけだった。
提灯の光は届かず、街灯が一つ、二人を照らしている。
「……背、伸びたね」
先に口を開いたのは、火憐だった。
「姉ちゃんは、変わってない」
亜蓮はそう言って、少しだけ笑う。
その笑顔が、胸に引っかかった。
「……なんで」
火憐は視線を外したまま言う。
「なんで、ここにいるの」
責める声じゃない。
理由を確かめる声だった。
亜蓮は一瞬、言葉を探すように黙り込み、それから答える。
「助けられたんだ」
火憐が顔を上げる。
「……誰に」
「青原さんたちに」
短く、はっきり。
「黒に追われてた。
逃げ場もなくて」
火憐の指先が、わずかに強張る。
「……それで?」
「一緒にいた方がいいって言われた」
亜蓮は肩をすくめる。
「保護、みたいなものだよ」
「でも、それって――」
火憐は言葉を切る。
「帰れないってこと?」
亜蓮は、少しだけ間を置いてから頷いた。
「うん」
一拍。
「少なくとも、前みたいには」
火憐の胸が、静かに軋む。
「……戻るつもりは?」
問いは、もう答えを分かっている声音だった。
亜蓮は、首を横に振る。
「ない」
即答。
「俺、追われる立場になった」
「それに――」
一歩、前に出る。
「助けてもらったまま、
何も返さずに帰る気はない」
火憐は、息を吐いた。
怒りは湧かなかった。
代わりに、妙な納得があった。
「……あんたらしい」
小さく呟く。
「知ってる」
亜蓮は、少し照れたように笑う。
「だから、行く」
「この先も、
青原さんたちと」
火憐は、しばらく黙っていた。
それから、亜蓮の肩を軽く叩く。
「……生きなさい」
強くもなく、弱くもなく。
「生きて、戻らなくていい」
亜蓮は、真剣な顔で頷いた。
遠くで、花火が一つ上がる。
夜祭りの始まりを告げる音。
「終わったら」
火憐は空を見上げて言う。
「また、話そう」
「うん」
二人は、同じ方向を向いた。
理由は、まだ全部は分からない。
けれど――
戻れないことだけは、確かだった。
______
提灯の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
人の気配は遠く、
夜祭りのざわめきは、ここまで届かない。
ハルは石段に腰を下ろし、靴先で小さな石を転がした。
「……変わってないね」
何気なく言う。
アマネは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「なにが?」
「喋り方」
「失礼だなあ」
軽く言い返して、隣に座る。
「ハルこそ。
相変わらず、無茶しそうな顔してる」
「顔に出る?」
「出る」
即答だった。
短い沈黙。
遠くで花火が一つ、鈍く弾ける。
「……なんで、いなくなったの?」
ハルは前を向いたまま言った。
責める声じゃない。
詰める声でもない。
ただ、聞くための声。
アマネは少しだけ間を置き、空を見上げる。
「覚えてる?」
「なにを?」
「十年前のこと」
ハルの指先が、微かに止まった。
「……子供が何人か、消えたやつ?」
「そう」
アマネは頷く。
「小学生を含む、複数の行方不明」
「場所も時間もバラバラで、
事件性があるのかどうかも分からなかった」
「調査中、で終わった」
ハルの胸に、嫌な感覚が広がる。
「……あれが?」
「当時、中学生だった女の子がいた」
アマネは、淡々と続ける。
「その人が、子供たちを連れて
ある施設に侵入した」
ハルの喉が、ひくりと鳴った。
「対黒局」
「うん」
アマネは否定しない。
「管理されていた能力を、
子供たちに付与して、連れ出した」
「ハル」
「私」
「……他にも、何人か」
ハルの頭が、追いつかなくなる。
「ちょっと待って……」
「それ、全部……」
「表には出せない」
アマネが、静かに言った。
「対黒局の力で、隠された」
「能力を子供に使った事実も、
侵入があったことも」
「全部、なかったことにされた」
ハルは拳を握る。
「……最低だ」
「知ってる」
アマネは、あっさり言う。
「だから、私たちは戻れない」
ハルが顔を上げる。
「“私たち”?」
「うん」
アマネは、はっきり言った。
「当時、中学生だったその人」
「今はもう、大人だよ」
一拍。
「その人を、探してる」
ハルの胸が、強く脈打つ。
「……なんで」
「見つけない限り、
全部が終わらないから」
「能力も、
私たちの立場も」
沈黙。
ハルは、こめかみを押さえた。
突然、鋭い痛みが走る。
「……っ」
「ハル?」
視界が、歪む。
断片的な映像。
白い蛍光灯。
無機質な部屋。
そして――
眼鏡をかけた女。
顔までは、はっきりしない。
でも、その存在だけが、妙に鮮明だった。
「……覚えて、ないはずなのに」
ハルは、息を整えながら言う。
「確かに、いた」
「眼鏡の……女」
アマネの表情が、僅かに強張る。
「……やっぱり」
「記憶は、消えてない」
「ただ、
奥に押し込まれてるだけ」
ハルは、ゆっくりと手を下ろす。
「その人を見つければ……?」
「戻れる」
アマネは頷いた。
「少なくとも、
次に進める」
「だから今は」
ハルを見る。
「能力者側を、当たってる」
「当時の関係者に、
近づくために」
ハルは、少し考え込んだあと、言った。
「……じゃあ、俺は?」
アマネは、迷わず答えた。
「ハルは、黒の方」
「能力者じゃなくて、
“黒に近い側”から探してほしい」
「その人は」
一拍。
「黒とも、
無関係じゃないはずだから」
花火が、夜空を割く。
提灯の光が、二人の影を揺らした。
「……重たい役目だな」
ハルが苦笑する。
「ごめん」
アマネは、少しだけ視線を逸らした。
「でも、
ハルにしか頼めない」
ハルは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「……わかった」
「探すよ」
「黒の方から」
アマネは、小さく息を吐いた。
それだけで、十分だった。
十年前に始まった歪みが、
今、はっきりと形を持った。
夜祭りは、もうすぐ始まる。
そして――
探す方向も、定まった。
夜祭りの灯りは、街全体を包むほど明るくはなかった。
提灯は等間隔に吊られ、
その一つ一つが、夜を押し返すというより、
「ここまでなら安全だ」と線を引いているみたいだった。
少し離れた路地の影から、
二つの視線が、その光景を見ていた。
一つは、人のもの。
もう一つは、そうでない。
葵は、建物の壁に背を預けるように立っていた。
人混みの中に入る気にはなれず、
かといって、背を向けることもできなかった。
視線の先。
提灯の下を、二人が歩いている。
神木ハルと、星崎アマネ。
距離はある。
声も届かない。
それなのに、二人が今どんな表情をしているのか、
なぜか分かってしまう気がした。
ハルが、少し困ったように屋台を指差す。
「……これ、食べる?」
理由のない問い。
意味を探す必要もない声。
アマネは一瞬考えてから、頷いた。
「うん」
それだけで、二人は足を止める。
焼きとうもろこしを受け取って、
熱いだの、甘いだの、
そんな当たり前のやり取りをする。
ハルが先にかじって、
アマネがそれを見て笑う。
祭りの音に紛れてしまうくらい、ささやかな笑顔。
葵は、その様子をじっと見ていた。
——ああ。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
羨ましい、とは少し違う。
悔しい、とも言い切れない。
ただ、
「そこに自分はいない」という事実だけが、
はっきりと浮かび上がる。
花火が上がった。
空が一瞬だけ昼みたいに明るくなり、
アマネの横顔が、くっきり照らされる。
ハルは、目を逸らさなかった。
その光景を、
少し高い位置からも、誰かが見ている。
——楽しそうじゃん。
葵の内側に、声が落ちてくる。
——ちゃんと、笑えてる。
零だった。
責めるでもなく、
慰めるでもなく。
ただ、事実をなぞるような声。
葵は、答えない。
代わりに、片目にだけ、涙が浮かんだ。
零は、それに気づいている。
だから、少しだけ声を低くする。
「……何であんたばっかりさぁ」
拗ねたようで、
でもどこか寂しそうな声。
花火の音が、すぐにその言葉を飲み込む。
夜祭りは続く。
光も、笑い声も、絶えない。
夜祭りの終わりは、思ったより静かだった。
花火が最後の一発を打ち上げたあと、歓声は波のように引いていき、提灯の明かりだけが街に取り残される。
さっきまで肩が触れ合っていた距離が、気づけば少しずつ広がっていた。
ハルとアマネは、並んで歩いていた。
言葉は多くない。
それでも、足並みだけは揃っている。
「……楽しかったね」
アマネが言う。
どこか確認するみたいな声だった。
「うん」
ハルはそれだけ答えた。
それ以上の言葉を探して、やめた。
人混みを抜け、露店の明かりが途切れる。
提灯の数も減っていく。
ここで「送るよ」と言えば、きっと自然だった。
今までなら、迷いなく口にしていた。
けれどハルは、言わなかった。
代わりに、立ち止まる。
「……また、探すから」
それは約束だった。
再会の約束じゃない。
探し続けるという、終わりの見えない約束。
アマネは少しだけ目を細めて、笑った。
「知ってる」
短く、それだけ。
二人はそれ以上近づかず、
それ以上離れもしない距離で、向き合った。
「じゃあ」
アマネが先に言う。
手を振ることもなく、背を向ける。
迷いのない足取りだった。
ハルは、その背中を追わなかった。
追わないと決めたのは、優しさじゃない。
自分が、まだここに立つ人間だと分かっていたからだ。
アマネの姿が、人混みに溶けて消える。
その瞬間、
胸の奥に小さな痛みが走った。
それでも、足は動かなかった。
⸻
少し離れた場所。
人の流れが見える位置で、葵は立っていた。
祭りの音は、もう遠い。
残っているのは、片付けを始める人の声と、夜風だけ。
視線の先に、ハルがいる。
その向こうに、アマネはいない。
「……行ったね」
声は、葵自身のものだった。
——そうだね。
重なるように、もう一つの声。
葵は驚かない。
もう、驚く段階は過ぎていた。
「……分かってる」
——何が?
問いかけは、意地悪じゃない。
確かめるみたいな声。
「一緒にいられないってこと」
葵は、ゆっくり息を吐く。
「選ばれなかったわけじゃない。
選ぶ場所が、違うだけ」
——ふぅん。
気のない相槌。
——じゃあさ。
少しだけ、声が近づく。
——悔しくないの?
葵は答えなかった。
否定も、肯定もしない。
ただ、胸の奥がひりつく。
ハルが見ていたのは、アマネだった。
それは事実だ。
葵は、それを見ていただけだ。
「……泣かないよ」
そう言った自分の声が、思ったより掠れていた。
——強いね。
——でもさ。
一拍、間。
——何で、あんたばっかりなんだろ。
その言葉は、冗談みたいな調子だった。
だからこそ、胸に刺さる。
葵の片目に、光が滲む。
零れない。
まだ、零れない。
「……戻ろ」
葵は、夜から視線を切った。
——うん。
——戻ろう。
声は、楽しそうだった。
⸻
同じ夜だった。
同じ祭りを見て、
同じ花火を聞いて、
同じ時間を過ごしたはずだった。
それでも。
ハルとアマネは、別々の道を選び、
葵と零は、その背中を見送った。
提灯が一つ、また一つと消えていく。
夜祭りは、静かに終わる。
そして、
誰もまだ気づいていない。
この夜が、
もう二度と同じ形では戻らないことを。
読んでいただきありがとうございます。
夜祭り編が終わりで、ここまでがこの物語り前編の話になります。
次からは中編がスタートします。




