-第29章- 再会
折れた箒の破片が、夜に消えていく。
その音が、須川健には“はっきりと”聞こえていた。
——来たな。
須川は、屋上の縁から一歩だけ身を引く。
撃った位置はすでに捨てている。
だが、その直後。
「……そこだ」
低く呟いた声と同時に、
乾いた銃声が夜を裂いた。
須川は、わずかに眉を動かす。
——速い。
弾丸は、須川のいた位置を正確に捉えていた。
だが、ほんの数センチだけ、外れている。
コンクリートが弾け、粉塵が舞う。
「……今の、見た?」
屋上の影で、美波が息を整えていた。
撃った。
間違いなく撃った。
でも、仕留めていない。
「ズレた……」
悔しさより先に、
純粋な疑問が湧く。
——今、どうやって動いた?
美波が、再び照準を合わせようとした、その瞬間。
——キン。
嫌な音。
次の瞬間、
スコープが砕け散った。
「……っ!」
破片が跳ね、美波は反射的に顔を背ける。
撃たれた。
いや、壊された。
「……なるほど」
「そういう撃ち方をするか」
美波には、明確な“関心”があった。
「殺さない。
でも、止める気はある」
「だから、悔しい」
美波は、口を開いた。
「……どうやって、今の位置に?」
返事はなかった。
その代わり。
地上で、火憐が叫ぶ。
「葵っ……!」
折れた箒を抱え、必死に体勢を保つ火憐。
葵は、何も言わない。
顔色が、明らかに違った。
「ねえ、葵……?」
焦りが、火憐の声に滲む。
——だめ。
——今は、まだ。
火憐の中で、何かが崩れ始める。
「……お願いだから、目、開けて」
その瞬間。
——あーあ。
聞こえたのは、
葵の声ではなかった。
——折られちゃったね。
——大事なもの。
空気が、冷える。
葵の視界が、
ゆっくりと遠ざかっていく。
まるで、モニター越しに世界を見るみたいに。
「……変わって」
声は、確かに葵のものだった。
「私が、出る」
次の瞬間。
葵の体が、ふわりと立ち上がる。
落下していたはずの体が、
あり得ないほど静かに宙に止まる。
火憐が息を呑む。
「……葵?」
返事はない。
代わりに、
低く澄んだ声がインカムに割り込んだ。
『ホークアイ』
全員の通信が、一瞬止まる。
『その人、私が仕留める』
言い切りだった。
命令でも、相談でもない。
宣言。
「ちょ、待っ——!」
美波が言いかけた、その瞬間。
葵——否、零は、前に出た。
一直線に。
迷いのない突撃。
「……はは」
須川は、屋上で小さく息を吐いた。
「そっちが来るか」
だが、その直後。
「——私も行く!」
美波が、駆け出す。
壊れたスコープはもう見ない。
視線と勘だけで、距離を詰める。
「ちょ、二人とも——!」
火憐の声が、追いつかない。
そのとき。
インカムに、別の声が割り込んだ。
『第二班、こちら鷹見』
短く、要点だけ。
『腕章を一つ確保したな』
火憐は、はっとして答える。
「は、はい!」
『第一班と合流しろ』
『深追いするな。
次は“対応”になる』
その言葉の意味を、
火憐は理解していた。
「……了解」
返事をしながら、
前に出た二人を見る。
零と、美波。
片方は、奪う存在。
片方は、学ぼうとする存在。
夜は、完全に制御を失い始めていた。
花火が、また一つ上がる。
祝祭の光の下で、
本当の戦いが、今、動き出した。
_____
「……今のインカム、誰だ」
久我が低く言った。
第一班は、路地を抜けて開けた通りに出たところだった。
上空では、まだ花火の余韻が空気を揺らしている。
ハルは、思わずインカムに手を当てる。
「……葵、だよな」
声は、確かに葵だった。
抑揚も、呼吸の癖も、聞き間違えるはずがない。
けれど。
「……違う」
久我が、視線を上げたまま続ける。
「同じ声だが、中身が違う」
ハルは、喉が鳴るのを感じた。
「……変わった、ってことですか」
「少なくとも、今までの“水卜葵”じゃない」
その直後。
——パンッ。
乾いた銃声が、夜に裂けた。
音は一発。
だが、方向は明確だった。
「Fビルだ」
久我が即座に言う。
「高所、角度、距離。
狙撃だな」
ハルが一歩踏み出した、そのとき。
『——こっちも聞こえた』
美波の声がインカムに入る。
『Fビル方向。
今、向かってる』
それに重なるように、
鷹見の声が割り込んだ。
『ホークアイは、同じ場所に留まらない』
淡々と、だが迷いのない声。
『撃ったら動く。
周辺ビルを含めて調査しろ』
「……了解」
久我が短く返す。
その瞬間。
前方の路地から、三つの光が現れた。
腕章。
対黒局でも、ヴィジランテでもない。
捕獲班だ。
「来たか」
久我は、足を止めなかった。
言葉もない。
一歩、踏み込む。
次の瞬間、
一人が地面に伏していた。
「——っ!」
残り二人が反応する前に、
久我の影が、すでに間合いに入っている。
関節。
鳩尾。
顎。
打撃は最小限。
だが、確実だった。
「……うそだろ」
ハルが思わず漏らす。
次の瞬間には、
もう一人も崩れ落ちていた。
残った一人が、距離を取ろうとした瞬間。
「逃げる判断は、正しい」
久我が言う。
止めなかった。
腕章の光が、闇に溶けて消える。
ハルは、しばらく言葉を失っていた。
「……久我さん」
ようやく出た声は、半ば呆然としている。
「本当に、人間ですか……?」
久我は、肩をすくめただけだった。
「褒め言葉だな」
ハルは、思わず笑った。
「……でも、正直」
胸の奥が、少し軽くなる。
「嬉しい誤算です」
そのとき。
「——ハル!」
火憐の声が、通りの向こうから聞こえた。
駆け寄ってくる姿。
息は乱れているが、無事だ。
「第一班!」
火憐は、インカムを叩く。
「Fビルより、西!」
即座に、状況を共有する。
「狙撃は移動してる!」
久我が頷く。
「追う」
ハルは、もう一度だけ空を見た。
花火の光が、街を照らしている。
祝祭の夜は、
完全に、戦場へと姿を変えていた。
——そして、
あの“声”が、まだ動いている。
この先、
誰が、どこまで戻れるのか。
ハルには、もう分からなかった。
西へ向かおうとした第一班の足を、
呼び止めるような声 が、闇の中から投げられた。
「神木くん。――ストップ」
反射的に、ハルは立ち止まった。
街灯の届かない影の中に、
腕章をつけていない人影が三つ。
その中央に立っていた男を見た瞬間、
ハルの喉が、ひくりと鳴る。
「……青原、さん」
「こんなところで会うなんて、偶然だね」
いつもの調子だ。
夜祭りの警戒区域の真ん中だというのに、
まるで喫茶店のカウンター越しみたいな軽さで。
その背後に、二つの影が並ぶ。
一人は――時矢。
そして、もう一人。
「……なんで」
言葉が、それ以上続かなかった。
火野火憐の弟。
火野亜蓮。
生きているはずのない名前が、
当たり前みたいに、そこに立っていた。
「ごめん、姉ちゃん」
亜蓮が、視線を逸らしながら言う。
「今は……止まって」
火憐の指が、わずかに震える。
「そういうこと」
時矢が淡々と続けた。
「今、アマ姉は仕事中だから」
「……アマネが?」
問い返すより早く、
青原が一歩前に出る。
「余計な情報は、あんまり流さないで」
静かな声だった。
けれど、それは制止だった。
ハルは理解してしまう。
ここで踏み込めば、
何かが決定的に壊れる。
——まだ、その時じゃない。
青原の視線が、はっきりそう言っていた。
⸻
ほぼ同時刻。
Fビル西側。
第二班は、外壁に身を寄せるようにして到着していた。
「……着いてきたの?」
低い声で、零が言う。
その隣で、美波が肩をすくめた。
「だってさ。
私も、なんかしたいじゃん」
零は一瞬、黙る。
それから、楽しそうに笑った。
「じゃあ、いいよ」
氷の気配が、わずかに濃くなる。
「牽制は私がやる。
不意を突いてくれたら、あとは何とかする」
美波は即座に頷いた。
「了解」
その短いやり取りの間にも、
上方からは、微かな金属音が落ちてくる。
——いる。
零は、ビルの非常口へ視線を向けた。
「私が入る」
そう言い残して、
彼女は闇の中へ溶けるように駆け出す。
氷は、まだ使わない。
これは、
狩りじゃない。
相手が何者かを、
見極めるための一歩だ。
美波は銃を構え、
夜空を見上げた。
その瞳には、恐怖よりも――
純粋な興味が宿っていた。




