-第25章- 心の準備
窓の外で、提灯が吊られていく。
赤でも白でもない、くすんだ色の布が、等間隔で並んでいく様子を、ハルはカウンター越しに眺めていた。
風に揺れているのに、不思議と騒がしさはない。
「……多くない?」
ぽつりと火憐が言う。
彼女の視線の先には、作業員の数があった。
一人、二人ではない。
提灯一本に対して、人が多すぎる。
「祭りだから、じゃない気がするよね」
そう続けてから、火憐は自分で言葉を切った。
理由は分かっている。
口に出す必要がないだけだ。
喫茶アオハラの中は、いつも通りだった。
豆を挽く音、カップを温める湯気、コーヒーの香り。
変わらない日常が、確かにここにある。
なのに、窓の外だけが違う。
「夜祭りは、数年に一度だけだ」
カウンターの端で、鷹見が資料から目を上げて言った。
紙の上には、警備配置図のようなものが広げられている。
「夜に人を集める以上、対黒局が関わらないわけがない」
「……対黒局だけ?」
ハルが尋ねると、鷹見は首を横に振った。
「それだけじゃない。
自警団系の組織も入る。ヴィジランテだ」
葵が、窓の方を見たまま呟く。
「制服、揃ってない」
その通りだった。
統一された服装の中に、私服に近い格好の人間が混じっている。
同じ方向を見て、同じ間隔で立っているのに、所属が違う。
提灯の一つが、試験点灯された。
柔らかな光。
けれど、どこか硬質な明るさ。
「飾りじゃない」
鷹見が言う。
「識別灯だ。
黒が入り込まないように改良されてる」
ハルは、その光をじっと見つめた。
「……ここまでして、祭りやるんですね」
「だからやるんだ」
鷹見の声は低かった。
「“安全な夜”が存在するって、示さなきゃいけない」
店内に、一瞬の沈黙が落ちる。
外では、次の提灯が吊られていく。
人の手で、夜を管理しようとするみたいに。
火憐が、わざと明るく言った。
「ま、準備してる間は平和ってことじゃん」
誰も否定しなかった。
窓の外で、提灯が並ぶたびに、
ハルの胸の奥で、言葉にならない違和感だけが、少しずつ積もっていく。
まだ、光っていない。
それなのに、夜はもう、すぐそこまで来ていた。
「……夜までに戻る」
鷹見朗そういうと店を後にした
墓地は、思ったより静かだった。
街では祭りの準備が進んでいるはずなのに、
ここまで来ると、そんな気配は何一つ届かない。
提灯の光も、警備の足音もない。
鷹見は、花を二つ並べて置いた。
色を選ぶほどの余裕はなかった。
枯れていなければ、それでいい。
線香に火をつける。
煙がまっすぐ立ち上り、途中で風に折れた。
「……辞めたよ」
それだけ言って、鷹見は黙った。
言葉を続けるつもりはなかったが、
沈黙が長くなると、勝手に口が動く。
「判断は、間違ってなかった」
墓石を見ないまま、言い切る。
「……はずだった」
一度、息を吸う。
胸の奥で、何かが引っかかる。
「先に行かせた理由も、
説明はできてた」
だからこそ、今さら後悔だとは言えない。
言ってしまえば楽なのに、
その言葉だけは選べなかった。
鷹見はポケットに手を突っ込み、
拳を握る。
「祭りがある」
それが何を意味するか、
ここに眠る二人は知らない。
知る必要もない。
「……同じことは、もうやらない」
誓いのつもりではなかった。
決意でもない。
ただの、確認だ。
鷹見は静かに一礼し、背を向けた。
振り返らない。
墓地を出る頃、
遠くで何かが軋むような音がした。
祭りの準備だろう、と鷹見は思った。
それ以上、考えなかった。
____
葵は、一人でカウンターを拭いていた。
喫茶アオハラは、昼間より少しだけ静かだった。
祭り前日だからだろう。
客足も落ち着いていて、空気に余白がある。
カップを一つ、棚に戻す。
次のカップを取ろうとして、手が止まった。
「……」
理由は分からない。
ただ、胸の奥がざわついた。
——星崎。
ふいに、名前が浮かぶ。
口に出した覚えはない。
誰かに呼ばれた記憶もない。
それなのに、その名前だけが、やけに鮮明だった。
「……アマネ、さん」
小さく呟いて、葵は眉をひそめる。
どうして知っているのか。
どうして、今なのか。
思い出そうとすると、頭の奥がひやりと冷えた。
——ほら。
声がした。
耳ではない。
胸の内側に、直接触れるみたいな声。
——ちゃんと、覚えてるじゃん。
葵は、思わずカウンターの縁を掴んだ。
「……だれ」
問いは、震えていなかった。
逃げるより先に、確かめようとしていた。
——妬いてたでしょ。
声は笑っている。
楽しそうですらあった。
——あの人のこと。
喉が、詰まる。
「……違う」
反射的に否定する。
でも、言葉が軽い。
——じゃあ、なんで苦しかったの?
返せなかった。
ハルの背中。
アマネの名前。
自分が、そこにいなかった事実。
感情だけが、絡まって残っている。
——私はね。
声は、少しだけ近づいた。
——奪う気なんてないよ。
その言葉に、逆に寒気が走る。
「……じゃあ、何」
問いかけた瞬間、
声は、ひどく穏やかになった。
——守るだけ。
——だって、あれは。
一拍、間が空く。
——私のだから。
葵の胸が、強く脈打つ。
「……やめて」
懇願ではなかった。
拒絶でもない。
ただ、踏み込みすぎないでほしいという願い。
——まだ、だよ。
声はそう言って、遠ざかる。
——でも、もうすぐ。
静けさが戻る。
カップの並んだ棚も、
磨きかけのカウンターも、
何一つ変わっていない。
葵は、ゆっくりと息を吐いた。
「……逃げない」
自分に言い聞かせるように。
窓の外では、提灯がまた一つ灯った。
その光は、昨日より少しだけ強く見えた。
夜祭りは、もう始まっている。




