-第23章- 変わらないこの場所で
昼前の喫茶アオハラは、いつもより静かだった。
客がいないわけではない。
席も埋まっている。
コーヒーの香りも、いつも通りだ。
それでも、どこか落ち着かない。
ハルはカウンターの奥で、
豆の量を量りながら、何度も手を止めていた。
手順を間違えているわけじゃない。
ただ、次に何をすればいいかを決める声がない。
ドアベルが鳴った。
顔を上げた瞬間、
ハルは一拍遅れてその人物を認識する。
「……佐倉先生」
佐倉恒一は軽く会釈し、
すぐにはカウンターへ向かわず、店内を一周見渡した。
客の様子。
動線。
レジの位置。
教師というより、
監督者の目だった。
それから、ようやく口を開く。
「……今日は、青原さんはいないのか」
誰もすぐに答えなかった。
火憐はエプロンの紐に触れたまま止まり、
葵はカップを置く動作の途中で視線を落とす。
沈黙は、短かった。
だが、十分だった。
佐倉はそれを急かさない。
ただ一度、目を閉じて息を吐く。
「そうか」
それだけ言って、
カウンター席に腰を下ろした。
すぐに説教は始めない。
注文もしない。
代わりに、店の中をもう一度見た。
カウンターの内側。
動いているのは、全員子供だ。
「正直に言う」
佐倉は、声のトーンを落とした。
「子供だけで店を回すのは、許可できない」
断定だった。
責める響きはない。
だが、揺るがせる余地もない。
ハルが反射的に口を開く。
「でも、ちゃんと——」
佐倉は、視線だけでそれを止めた。
「話は最後まで聞いてほしい」
そう前置きしてから、続ける。
「君たちが真面目にやっているのは分かる。
危ないことをしていないのも、今のところはな」
“今のところは”。
その言葉が、重く落ちる。
「問題は、責任だ」
佐倉は指先でカウンターを軽く叩いた。
「何かあったとき、
誰が説明する?
誰が止める?
誰が決断する?」
一つずつ、問いを置いていく。
「その役割を、
未成年に任せることはできない」
沈黙が、また落ちる。
否定できる言葉は、なかった。
佐倉はそこで初めて、
少しだけ言いにくそうに視線を逸らす。
「……最近、噂を聞いた」
全員の視線が集まる。
「対黒局を辞めた大人が、
この辺りにいるらしい」
名前は出さない。
断定もしない。
「詳しい事情までは知らない。
だが少なくとも、
“責任を負う立場にいた人間”だ」
佐倉は、真っ直ぐハルを見る。
「その人が、この店を引き受けるなら。
私は、これ以上踏み込まない」
それは条件だった。
同時に、限界線でもあった。
「それが無理なら——」
言葉を切り、はっきり告げる。
「この店は、続けられない」
その瞬間、
ドアベルが鳴った。
振り向くと、
見知らぬようで、どこか見覚えのある男が立っている。
「……噂ってのは、
回るもんだな」
鷹見朗は、苦笑して言った。
佐倉は一度だけ頷く。
「ここは、子供の居場所だ。
それだけは、忘れないでくれ」
「約束はできない」
鷹見は、店の中を見渡す。
「だが——
逃げ場には、しない」
その一言で、
喫茶アオハラは静かに、次の段階へ進んだ。
____
昼下がりの喫茶アオハラは、やけに賑やかだった。
「だから豆はこうやって挽くんだって!」
ハルがミルを持ったまま、やたら偉そうに言う。
「力入れすぎ! それ粉じゃなくて砂になるから!」
すかさず火憐が突っ込む。
「え、え、そうなの?」
新人が慌てて手を止める。
「そうです。
あとカップ、温めるって言いましたよね?!」
「今やろうと思って——」
「今じゃ遅いです!」
火憐の声が店内に響く。
「コーヒーは準備の飲み物ですから!」
「そんな格言みたいなのあった!?」
ハルが笑う。
その横で、葵はドリップポットを持って固まっていた。
「……コーヒーは……」
声が小さい。
「もっと、ゆっくり……!」
「そこ急ぐと全部台無しだぞー」
ハルが横から口を出す。
「……分かってる!」
珍しく、葵が少し強く言い返した。
お湯が細く落ちる。
一滴、二滴。
「……あ、ちょっと多い」
「えっ」
「今の一滴で味変わります」
「そんなシビア!?」
火憐が腕を組む。
「だから楽しいんですよ」
出来上がったカップが並ぶ。
三人で覗き込む。
「……」
「……」
「……」
最初に飲んだのは、ハルだった。
「……うん」
「その“うん”信用ならないんだけど」
「いや、うまいって!」
葵も恐る恐る口をつける。
「……ほんとだ」
少しだけ、表情が緩んだ。
「でしょ」
火憐が、満足そうに頷く。
「私たち、普通に店員してますね」
「なにそれ、ちょっと誇らしいな」
ハルが言うと、
葵はカップを見つめたまま、ぽつり。
「……青原さんがいたら、怒られるかな」
一瞬、空気が止まる。
「……いや」
ハルはすぐに言った。
「多分、笑う」
火憐が肩をすくめる。
「“まあまあ”って言いながら、
結局全部やり直させるやつ」
「それそれ!」
三人が同時に笑った。
その笑い声は、
昼の喫茶アオハラに、ちゃんと馴染んでいた。




