-第20章- 刹那の最中
無線は、重なっていた。
【第七ブロック、別件対応要請】
【優先度:高】
【理由:統制上の必要】
鷹見朗は、歯を食いしばる。
「……二正面か」
統の指示だ。
理由は書いていない。
だが、拒否権はない。
「任務を優先する」
判断は早かった。
早すぎた。
その途中で、
別の反応が割り込む。
——能力者。
「……ハル?」
路地の奥に、
影が走る。
神木ハルと、
その背後に水卜葵、火野火憐。
「まずい……」
鷹見は、舌打ちした。
対応か、任務か。
判断は、もう一度迫られる。
——遅れた。
黒が、
想定よりも深く入り込んでいた。
「下がれ!」
鷹見の声より早く、
ハルが前に出る。
「間に合います!」
影が伸びる。
——だが。
黒の動きが、
一瞬だけ“ずれた”。
誰かに、
引かれたように。
「——っ!」
ハルの体が、
吹き飛ぶ。
影が間に合わない。
葵の視界が、
真っ白になる。
——また。
——また、間に合わない。
——なんで。
——なんで、あんたが。
怒りが、
底を叩いた。
次の瞬間。
空気が、凍った。
音が消える。
黒が、
完全に止まる。
誰も触れていない。
誰も詠唱していない。
それでも。
氷が、
“そこにあった”。
「……は?」
火憐が、声を失う。
ハルの前に、
誰かが立っている。
——違う。
“何か”だ。
細い影。
白く冷たい気配。
笑っている。
「遅いよ」
声は、軽い。
「奪うなら、
最初から奪いなよ」
ハルを見る。
その目は、
感情がない。
「……触らないで」
低く、静かに。
「それ、
私のものだから」
次の瞬間、
黒は砕けた。
喰われたわけでもない。
取り込まれたわけでもない。
“消された”。
無線が、悲鳴のように鳴る。
【索敵報告】
【黒反応:急変】
【等級——】
一拍。
【S級確認】
【属性:嫉妬】
【人型】
鷹見は、
凍りついた。
——S。
日本に、指で数えるほどしかいない。
その“嫉妬”。
能力者と、
完全に重なっている。
「……そんな、」
その時、
別の回線が開く。
静かな声。
「嫉妬、か」
統だった。
笑っている。
「なるほど」
どこか、楽しそうに。
「やはり、
人を残すと面倒が起きる」
氷の中の“それ”が、
ゆっくりと振り返る。
声は出さない。
ただ、
“見ている”。
統は、続けた。
「だが悪くない」
「感情は、
管理しやすい」
その言葉を聞いた瞬間、
鷹見は理解した。
——これは、
——最初から“想定内”だ。
正しさのために、
ここまで来た。
だが。
目の前で、
子供が血を吐いている。
氷の中で、
怒りが、確かに形を持った。
そして、
それは——
黒だった。
_____
氷が、音を失っていく。
砕けた黒の残滓が、
夜に溶ける前に、すべて止まっていた。
ハルは、地面に片膝をついていた。
呼吸が浅い。
影が、うまく応えてくれない。
——取り込みすぎた。
自覚はある。
それでも、止まれなかった。
「……立てる?」
すぐ近くで、声がした。
聞き覚えは、ある。
夢の中。
水の奥。
感情の底。
顔を上げると、
氷の気配がそこにあった。
人の形をしている。
でも、人じゃない。
「……葵?」
名前を呼ぶと、
それは少しだけ首を傾げた。
「違う」
即答。
否定に、棘はない。
「今は、私」
それだけ。
ハルは、視線を逸らさなかった。
怖くないわけじゃない。
でも——
「助けたのか」
問いは、短い。
「うん」
零は、軽く頷いた。
「間に合わなかったから」
言い訳みたいな口調だった。
「……怒ってたな」
零は、少し考える。
「そりゃね」
肩をすくめる。
「勝手に壊れそうになってたでしょ」
「見てて、気分悪かった」
ハルは、苦笑した。
「……庇うつもりだった」
「知ってる」
即答。
「だから腹立った」
一歩、近づく。
氷の冷気が、
ハルの影に触れる。
「あなた、
いつもそう」
責める声じゃない。
ただの事実。
「全部背負う顔して、
結局、間に合わない」
ハルは、返す言葉を探す。
でも。
「それでも、
行くでしょ?」
零が言った。
「やめろって言っても」
ハルは、答えなかった。
沈黙が、答えだった。
零は、少しだけ笑った。
「……ほんと、面倒」
その声は、
どこか楽しそうだった。
「ねえ」
視線が合う。
「これから、
もっとひどくなるよ」
「あなたも」
「私も」
夜風が、氷を撫でる。
「それでも?」
零は、問いかける。
「まだ、
戻れるつもり?」
ハルは、
さっきまでの言葉を思い出す。
——戻ろうと思えば戻れる。
胸の奥で、
何かが軋む。
「……分からない」
正直な答えだった。
零は、満足そうに頷いた。
「それでいい」
一歩、下がる。
「分かってる人は、
もう遅いから」
最後に、
ハルの影を見る。
「次は、
ちゃんと壊しな」
言葉は軽い。
でも。
「壊すなら、
一緒に」
氷の気配が、
すっと消える。
残ったのは、
冷えた影と、
ひどく静かな夜だけだった。
_______
鷹見は、動けなかった。
距離は、そう遠くない。
声も、届く位置だ。
だが、
割り込める“立場”ではなかった。
氷の気配が、消える。
そこに残ったのは、
膝をついた少年と、
静まり返った夜。
——会話していた。
はっきりと。
黒と。
感情の塊と。
S級と。
それを、
少年は恐れていなかった。
それどころか——
理解しようとしていた。
「……」
喉が、乾く。
鷹見は、
これまで何度も人型の黒を見てきた。
交渉不能。
共存不可。
排除対象。
それが常識だった。
だが、今見たものは違う。
怒り。
嫉妬。
執着。
どれも、人間のものだ。
「……くそ」
拳を、強く握る。
あの会話を、
報告できるわけがない。
報告した瞬間、
少年は“処理対象”になる。
S級との接触。
意思疎通あり。
影響の可能性。
——終わりだ。
鷹見は、
静かに無線を切った。
命令違反だと、
分かっていて。
それでも。
「……見なかった」
誰に言うでもなく、呟く。
自分に言い聞かせるように。
「今夜は、
何もなかった」
その言葉が、
どれだけ脆いかも知りながら。
_____
会議室に、
新しい記録が追加される。
【案件番号:J-ENVY-01】
【等級:S】
【分類:嫉妬】
【特記事項:能力者と同化】
統は、画面を眺めていた。
指先で、
軽く机を叩く。
「……やはり、出ましたか」
誰も答えない。
答えは、最初から一つだ。
「興味深い」
統は、微笑む。
「嫉妬は、
比較から生まれる」
「比較は、
集団に必ず発生する」
「つまり」
視線が、上がる。
「管理しやすい」
一人の役員が、躊躇いがちに言う。
「しかし、S級です。
現場判断では——」
「現場判断は、
不要になります」
統は、遮った。
「S級は、
“事象”です」
「制御する対象ではない。
利用する対象です」
静まり返る室内。
「感情が強いほど、
誘導は容易い」
統は、
画面に映る氷の残像を見る。
「特に、
“誰かのため”に怒るものは」
その視線が、
別の資料に移る。
【関連能力者:神木ハル】
【能力:黒パレット】
【等級推定:B】
「……まだ、Bですか」
少しだけ、残念そうに。
「いずれ、
必ず引き上げる必要がありますね」
誰かが、問いかける。
「捕獲、ですか?」
統は、首を振る。
「いいえ」
微笑みを、深くする。
「育成です」
画面を閉じる。
「壊れるまで」
その言葉は、
誰にも向けられていなかった。
まるで、
世界そのものに言っているようだった。




