-第17章- 選択
夜のサイレンが、街を切り分けた。
昼と夜の境目は、いつも唐突だ。
さっきまで人がいた場所から、
一斉に気配が消える。
神木ハルは、屋上の縁に立っていた。
足元の影が、ゆっくりと伸びていく。
ダイブできる距離。
逃げるには十分。
追うには、少し足りない。
「……来た」
遠くで、黒が動く気配がした。
人型じゃない。
A級にも届かない。
数も多くない。
本来なら、問題ない相手だ。
——なら。
ハルは一歩、前に出る。
影に沈み込む感覚が、足首まで届く。
そこから先へ行けば、
確実に“取り込める”。
でも。
「……やめとけ」
自分の声が、頭の中で響いた。
まだ早い。
まだ、戻れなくなるほどじゃない。
影が、そこで止まる。
次の瞬間、
遠くで悲鳴が上がった。
——遅れた。
ハルは歯を食いしばる。
走る。
ダイブを使わず、屋上の階段を駆け下りる。
一階。
路地。
黒は、既に人の姿を失わせていた。
遅かった。
地面に残るのは、
引きずられた跡と、
靴だけ。
「……くそ」
拳を握る。
この程度の黒だ。
取り込めば、すぐに終わった。
分かっている。
分かっていて、止まった。
火憐が駆け寄ってくる。
「ハル!?」
葵も、少し遅れて合流する。
二人とも、無事だ。
それが、余計に胸を締め付ける。
「……間に合わなかった」
そう言うと、
火憐は何も言えなかった。
葵は、地面を見ている。
「……ハル」
低い声。
「今の、倒せたよね」
責める口調じゃない。
でも、事実だった。
「……うん」
「だったら」
葵は、言葉を切る。
「どうして?」
答えは、喉まで来ていた。
——人間でいたかった。
——これ以上、踏み込むのが怖かった。
でも、それは
ここで失った命の理由にならない。
沈黙が落ちる。
夜風が、冷たい。
「……ごめん」
ハルは、それしか言えなかった。
影が、足元で揺れる。
まだ、応えてくれる。
まだ、人間側にいる。
——でも。
このままじゃ、足りない。
ハルは、初めてはっきりと思った。
黒を取り込まなかった結果、
誰かが死ぬなら。
それは、
自分が選んだ“弱さ”だ。
夜は、何も言わない。
ただ、
次はどうする、と
静かに問いかけてくるだけだった。
______
神木ハルは一人で屋上にいた。
街は、何事もなかったみたいに眠っている。
サイレンの余韻も、
悲鳴の記憶も、
朝には残らない。
それが、この世界の普通だ。
ハルは、手のひらを見つめた。
何も変わっていない。
血も、黒も、付いていない。
——昨日と同じ。
それが、
やけに重かった。
足元の影が、ゆっくりと動く。
呼んでもいないのに、
そこにある。
「……次は」
声に出すと、
思っていたよりも静かだった。
「次は、迷わない」
誰に聞かせるでもなく。
誓いというほど強くもなく。
ただ、
判断を先送りにしない
それだけを決める。
影が、わずかに濃くなる。
歓迎でも、拒絶でもない。
ただ、応じただけ。
ハルは一歩、前に出る。
影に沈み込む寸前で、止まった。
——今じゃない。
でも、
止まる理由が、昨日とは違う。
昨日は、怖かった。
今日は、順番を待っている。
「……行こう」
誰もいない屋上で、
そう言って、踵を返す。
階段を下りる途中、
ポケットの中でインカムが軽く鳴った。
点検用の通知。
用事はない。
それでも、
電源を切らなかった。
切らない、という選択。
その日、ハルは
黒を取り込まなかった。
でも、
次に取り込む準備だけは、終えた。
人間でいるブレーキは、
まだ効いている。
ただしそれは、
いつでも踏み替えられる位置に
移された。
朝日が、影を薄くする。
それでも影は、
消えなかった。
______
その夜、
黒はすぐには現れなかった。
サイレンが鳴ってからしばらく、
街は静かすぎるほど静かだった。
水卜葵は、少し離れた場所から
神木ハルの背中を見ていた。
声をかければ届く距離。
でも、今はかけなかった。
——違う。
理由は説明できない。
ただ、昨日までと同じじゃないと、
体が先に気づいている。
ハルは動かない。
影の縁に立ったまま、
まるで“来ることが分かっている”みたいに待っている。
「……来る」
低く、短い声。
次の瞬間、
路地の奥で気配が弾けた。
黒。
数は少ない。
等級も高くない。
昨日なら、
ハルは一拍、様子を見たはずだった。
でも今日は違う。
迷いなく、影に沈む。
——早い。
葵は、無意識に息を止めた。
躊躇がない。
怖れもない。
決めていた動きだった。
影から現れたハルは、
既に黒の懐に入っている。
その瞬間だった。
葵は、一歩踏み出しかけて止まった。
何かを出そうとしたわけじゃない。
詠唱も、魔力操作もしていない。
それなのに。
——出せる。
そんな感覚だけが、
先に、確かにあった。
冷たさでも、熱でもない。
形を持たない“手応え”。
「……?」
理由を探す前に、
その感覚は消えた。
黒は、ハルに取り込まれる。
一瞬、
影が脈打つ。
でも、暴走はしない。
ハルは、立っている。
「……終わった」
短い言葉。
振り返った顔は、
いつもと変わらない。
それが、
一番おかしかった。
「ハル」
名前を呼ぶ。
「……なに?」
声も、同じ。
葵は、言葉を選ぶ。
「さっきの……」
「迷ってたら、遅れる」
即答だった。
正しい。
反論はできない。
でも。
——昨日は、止まっていた。
「……そうだね」
それ以上、何も言えなかった。
ハルの足元で、
影が静かに揺れている。
昨日より、
ほんの少しだけ濃い。
葵は、無意識に胸元へ手を当てた。
——今の、なに。
使っていない。
でも、確かに“あった”。
ハルが変わったのか。
それとも、自分が。
分からない。
ただ一つ、はっきりしている。
ハルは、
もう「迷う人」じゃなくなり始めている。
その変化に、
置いていかれる気がした。
夜風が吹く。
何も起きていない。
何も壊れていない。
それなのに、
胸の奥だけが、
静かにざわついていた。
——ねえ。
聞き慣れない声が、
心の奥で囁いた気がした。
——それ、私の場所じゃない?
葵は、きゅっと目を閉じる。
今は、気のせいでいい。
まだ




