-第16章- 誰かの為の
午後の喫茶アオハラは、相変わらず静かだった。
ドアベルが鳴っても、誰も顔を上げない。
その音が、もう風景に溶け込んでいる。
「いらっしゃいませ」
青原の声は、少しも変わらない。
佐倉恒一は、迷わず同じ席に座った。
もう案内は要らない。
「今日はブレンドで」
「いつもので、ですね」
短いやり取り。
それだけで、関係性は十分だった。
神木ハルは、カウンターから少し離れた席にいる。
ノートを開いているが、文字は書かれていない。
考え事をしている、というより、
考えないようにしている顔だった。
水卜葵は、スマートフォンを伏せて机に置いている。
通知は来ていない。
それでも、指先が一度だけ画面に触れた。
火野火憐は、店内を見回してから言った。
「今日、人少ないですね」
「そうですね」
青原は、特に理由を付けなかった。
理由はある。
でも、言う必要はない。
佐倉は、コーヒーを一口飲んでから口を開く。
「……ここに来ると、
時間が巻き戻る気がする」
「悪い意味で、ですか」
「いえ。
戻っていい時間、というか」
言い終えて、少し照れたように笑った。
ハルは、その会話を聞いていないふりをしていた。
でも、耳には入っている。
“戻っていい時間”。
その言葉が、なぜか引っかかった。
葵は、ふいに顔を上げる。
「先生」
「ん?」
「……ここ、好きですよね」
断定だった。
佐倉は一瞬驚いて、それから頷いた。
「ええ。
好きですよ」
「理由は?」
少し間が空いた。
「安心できるから」
葵は、それ以上聞かなかった。
代わりに、カップに視線を落とす。
——安心。
その言葉を、
どこかで聞いた気がした。
青原は、カウンターの奥でカップを並べている。
その手つきは、いつもより丁寧だった。
揃えすぎている、とも言える。
ハルは、ペンを置いた。
「……青原さん」
「はい」
「ここって、
ずっとこのままですか」
唐突な質問だった。
佐倉が、ちらりとハルを見る。
青原は、少し考えてから答えた。
「変わることは、ありますよ」
「……でも」
ハルは言葉を探す。
「なくなったりは、しない?」
店内が、ほんの一瞬だけ静まる。
青原は、即答しなかった。
代わりに、
一杯分のコーヒーを淹れ始める。
湯気が立ち上る。
「なくならないように、
残してるんです」
それだけだった。
火憐が、小さく息を吐く。
「じゃあ、大丈夫ですね」
「ええ」
青原は頷いた。
葵は、そのやり取りを黙って聞いていた。
胸の奥で、
「残す」という言葉が、別の意味を持ち始めていることに、
まだ気づかないふりをして。
外では、夕方の風が吹いている。
サイレンは鳴らない。
今日も、夜はまだ来ない。
それでも、
喫茶アオハラの中には、
変わらないままでいられない何かが、
静かに溜まり始めていた。
_______
サイレンが鳴ると、街は正しく静かになった。
人が消え、灯りが減り、
夜だけが残る。
「各員、配置確認」
インカム越しの返答は揃っている。
緊張はあるが、混乱はない。
いつもの夜だ。
「索敵班、状況を」
『黒反応、検出』
『人型。等級——A』
その報告に、誰も声を上げない。
A級。
強いが、想定内。
被害が出る前に制圧すべき対象。
「照射準備」
白い光が構えられる。
太陽に似せた、対黒局のライト。
「未所属反応は?」
『確認できません』
逃げない。
隠れない。
人型の黒が、こちらを見ている。
「囲め。
不用意に近づくな」
影が揺れた。
一瞬だけ、
“人の顔に見える何か”が浮かぶ。
「照射」
光が当たる。
黒は怯み、動きを止めた。
——効いている。
「制圧。
回収手順へ移行」
『了解』
淡々とした声。
それでいい。
部下の一人が、わずかに言葉を挟む。
『……感情反応、記録します』
「基準値か」
『……いえ。
A級としては、高すぎます』
一瞬だけ、思考が止まる。
「数値を言え」
『……人間に近い反応です』
人間、という単語を
インカム越しに使うことは少ない。
「……参考記録に留めろ」
即断した。
「等級はAだ。
手順は変えない」
『了解』
判断を揺らすには、材料が足りない。
ライトがもう一度当てられる。
黒は、声を出さない。
それが、少しだけ気になった。
サイレンが止まる。
夜は、まだ終わらない。
帰投の指示を出しながら、
胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
A級。
そう分類した。
だが、
——本当に、そうだったか?
報告書には書かない疑問が、
夜の底に沈んでいく。
答えは、
まだ先だ。




