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パレット  作者: 青原朔
15/34

-第15章- 僅かに香る

——担任、佐倉恒一さくらこういち


朝の教室は、嫌いじゃない。


騒がしくて、どうでもいい話ばかりで、

それでも――ちゃんと生きている感じがする。


「おはよー」

「課題やった?」

「聞いた? 昨日のサイレンさ」


いつも通りだ。


……いや、

**いつも通りの“ふり”**をしている。


「着席ー」


そう言いながら、教室を見渡す


神木ハル。

水卜葵。

火野火憐。


三人とも、いる。


遅刻もしていない。

欠席でもない。


なのに。


——妙に、静かだ。


神木は、前より喋らなくなった。

以前はぼんやりしているようで、

授業中でも、どこか人の気配を気にしていた。


今は違う。


視線が、内側に向いている。


水卜は、笑っている。

愛想もいいし、返事も丁寧だ。


ただ、その笑顔が

少しだけ、遅れる。


火野は、苛立っているように見える。

いや、正確には――

何かを我慢している顔だ。


「……神木」


名前を呼ぶと、

ワンテンポ遅れて顔を上げた。


「はい」


声は、普通。


でも、

「今ここに戻ってきた」声だ。


「昨日の続き、分かるか?」


「……あ、はい」


黒板を見る。


書いてあるのは、

いつも通りの式。


何も変わっていない。


——変わっているのは、

見ている側の世界だ。


授業を終え、

休み時間。


三人は自然に集まるが、

会話は短い。


必要なことだけ。

余白がない。


「……昨日さ」


誰かが言いかけて、やめる。


その「昨日」が、

誰の昨日なのか分からない。


それが、教師として一番嫌な違和感だった。



放課後。


職員室に戻る途中、

ふと思い出す。


最近、

喫茶アオハラに立ち寄る回数が増えたことを。


理由はない。

ただ、落ち着く。


それともう一つ。


——生徒が、そこにいることがある。


不自然じゃない。

バイトでも、常連でもない。


ただ、

居場所のように座っている。


「……今日も寄るか」


自分でも理由は分からない。


教師として、

踏み込むべきじゃない線があるのは分かっている。


でも。


黒板に書かれた文字より、

テストの点数より、


あの三人は、

日常を少しずつ削られている。


それだけは、

はっきり見えていた。


サイレンは、まだ鳴らない。


昼の世界は、安全だ。


それでも。


——何かが、夜に持っていかれている。


それを知らないふりをするほど、

鈍くはなれなかった。


——喫茶アオハラ


喫茶アオハラは、放課後の時間がいちばん静かだ。


客がいないわけじゃない。

ただ、声が低い。

話題が、急がない。


カウンターに腰を下ろし、

俺はいつものブレンドを頼んだ。


「どうぞ」


マスター――青原は、

必要以上のことを言わない。


それが、この店の居心地の良さだった。


一口、飲む。

苦い。でも、嫌じゃない。


「先生、最近よく来ますね」


先に口を開いたのは、青原の方だった。


「ええ。たまたまです」


嘘ではない。

理由が自分でもはっきりしないだけだ。


「落ち着くんですよ、ここ」


「それはよかった」


それ以上、踏み込まない。


少し沈黙が流れる。

カップの縁から、湯気が立ち上る。


「……生徒が、来てますよね」


言ってから、

しまった、と思った。


教師が言うには、

少し踏み込みすぎた。


でも、青原は表情を変えない。


「ええ。何人か」


それだけ。


「……授業中、なんとなく分かるんです」


俺は、カップを見たまま続けた。


「何かがあった生徒って、

成績や態度より先に、

“間”が変わる」


青原は、黙って聞いている。


「元気がないとか、

問題を起こすとかじゃない」


「……日常が、削れてる感じです」


言葉にして、

自分でも少し驚いた。


青原が、ようやく口を開く。


「削れる、ですか」


「はい」


俺は頷く。


「夜に何かあったんだろうな、

っていう顔をしてる」


一瞬だけ、

青原の指が止まった。


ほんの一瞬だ。


「夜は、いろいろありますから」


それは、

肯定でも否定でもなかった。


「教師としては、

踏み込むべきじゃないのは分かってます」


俺は、正直に言った。


「でも……放っておくのも、違う気がして」


青原は、コーヒーを注ぎ足す。


「正しさって、難しいですね」


「ええ」


「守ろうとして、

余計に壊すこともある」


その言葉に、

胸の奥が少しざわついた。


「……マスターは」


俺は顔を上げる。


「生徒と、どこまで関わるべきだと思います?」


青原は、少し考えてから答えた。


「居場所を用意するところまで、でしょうか」


「答えを出すところまでは、行かない」


「選ぶのは、本人ですから」


それは、

教師としても、

大人としても、

否定できない答えだった。


「……そうですね」


カップの中身が、少し減っている。


「この店は、

夜になると閉まるでしょう」


青原が、ふとそんなことを言った。


「ええ」


「それでも、

ここに来た人が

“戻れる場所”だと思えるなら」


一拍。


「それで、十分だと思ってます」


俺は、何も言えなかった。


ただ、

この人は“知らない”ふりが

とても上手い人だと感じた。


それは、

無関心とは違う。


「……また来ます」


そう言って、席を立つ。


「ええ。いつでも」


外に出ると、

夕方の光が少し傾いていた。


サイレンは、まだ鳴らない。


でも俺は、

この街の夜が

以前より重くなっていることを知っていた。


理由は、分からないまま。

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