-第12章- 芽生えた手と手を
——喫茶アオハラ/夜明け前
ドアのベルが、静かに鳴った。
普段より低い音に聞こえたのは、
時間のせいかもしれない。
「……どうも」
神木ハルは、そう言って中に入ってきた。
制服のまま。
夜を越えた顔。
眠っていない目。
「座って」
青原は、カウンターの内側から言った。
いつもと同じ言い方。
だからこそ、
何も誤魔化せなかった。
ハルは、何も聞かずに腰を下ろす。
「コーヒーでいい?」
「ああ」
短い返事。
カップに注がれる音が、
やけに大きい。
青原は、向かいに立たず、
横に並ぶ位置を選んだ。
「……昨夜」
その一言で、
ハルの肩がわずかに強張る。
「全部は、聞かない」
青原は続ける。
「ただ、確認したいことがある」
カップを差し出す。
ハルは受け取るが、飲まない。
「君は」
青原は、視線を落としたまま言う。
「助けようとしたか」
沈黙。
長い。
ハルは、やがて小さく息を吐いた。
「……一瞬」
それだけ。
否定もしない。
正当化もしない。
「でも」
続けようとして、止まる。
青原は、先を促さない。
「……止まった」
ハルは、自分で言葉を選ぶ。
「理由は」
一拍。
「分かってる」
青原は、頷いた。
「なら、次」
少し間を置く。
「君は、判断したか」
ハルは、即答しなかった。
指先が、カップの縁をなぞる。
「……してない」
「そうか」
青原の声は、変わらない。
「では」
最後の問い。
「君は、結果を選んだか」
ハルの指が、止まる。
選んだか。
否定しきれない言葉。
「……否定しなかった」
それが、精一杯だった。
青原は、しばらく黙る。
そして、ぽつりと。
「君は、正しかった」
その言葉に、
ハルが顔を上げる。
「……」
言葉が、出ない。
「被害は、最小だった」
事実だけ。
「その夜、
他の通りでは、誰も死んでいない」
ハルの喉が鳴る。
「でも」
青原は、続ける。
「正しさは、
必ずしも君を守らない」
カウンターの奥から、
一冊のノートを出す。
見せはしない。
置くだけ。
「昨夜の記録だ」
ハルは、視線を逸らした。
「読ませない」
青原は、静かに言う。
「今は、まだ」
「……なら」
ハルが、低く言う。
「何のために呼んだ」
青原は、少し考えてから答えた。
「君が」
一拍。
「一人で背負おうとしているか、
確認するためだ」
ハルは、笑わなかった。
「……背負うしかない」
青原は、首を横に振る。
「違う」
否定は、短い。
「背負うかどうかを、
選ぶ段階に来ただけだ」
視線が、重なる。
「もう一つ」
青原は、最後に言う。
「昨夜、
君の中に“名のない判断”が生まれた」
ハルの瞳が、わずかに揺れる。
「それは」
言葉を選ぶ。
「君の敵にも、
味方にもなりうる」
一拍。
「だから」
青原は、静かに告げた。
「近いうちに、
君は“それ”に名前を与える」
ハルは、何も言わなかった。
言えなかった。
コーヒーは、冷めている。
でも、
一口も飲まれないまま。
青原は、カップを下げた。
「今日は、ここまでだ」
「……ああ」
ハルは立ち上がる。
ドアの前で、一瞬だけ立ち止まり。
振り返らずに言った。
「青原さん」
「なんだい」
「……俺は」
言葉が、続かない。
青原は、答えを待たなかった。
「君は、
まだ人だよ」
その一言で、
ハルの背中が、わずかに揺れた。
ベルが鳴る。
ドアが閉まる。
喫茶アオハラには、
また静けさが戻る。
青原は、ノートに一行だけ書き足した。
•神木ハル:
•判断を否定していない
•しかし、まだ名を呼んでいない
ペンを置く。
「……時間だな」
誰に向けた言葉でもなく。
夜明けは、
もうすぐそこだった。
_______
-水卜葵
朝は、普通に来た。
アラームが鳴って、
止めて、
天井を見る。
夢は、覚えていない。
でも、
目を開けた瞬間から、
胸の奥に小さな違和感があった。
——なにか、考え忘れている。
忘れた、というより。
先に片付けられてしまったような感覚。
制服に袖を通す。
ボタンを留める。
手順は合っている。
鏡の中の私は、いつも通り。
「……大丈夫」
声に出す。
誰に聞かせるわけでもない。
通学路も、変わらない。
昼の世界は安全で、
それが少し、腹立たしかった。
——昨日の夜も、
こんなふうに朝は来たのだろうか。
考えようとして、
思考が途中で途切れる。
「……あれ」
立ち止まる。
今、
何を考えていた?
分からない。
でも、
“答え”だけが残っている。
——今は、これでいい。
理由は分からないのに、
判断だけが、すでにある。
教室に入ると、
ざわめきが迎えてくる。
「おはよー」
「今日さ」
「昨日のニュース見た?」
普通だ。
席に座る。
前を向く。
黒板を見る。
その瞬間、
胸の奥が、ひやりと冷えた。
——この席、
前からこんなに、
前が広かったっけ。
誰かが、
ここに座っていた気がする。
でも、
思い出せない。
名前も、顔も。
「……変なの」
小さく呟く。
火憐が、少し遅れて入ってくる。
目が合う。
一瞬だけ、
彼女の表情が、硬くなる。
「……おはよ」
私が言うと、
火憐は少し間を置いてから頷いた。
「おはよ」
その間に、
何かを測られた気がした。
——見られている。
理由は分からない。
でも、確信だけがある。
授業中、
ノートを取る手は止まらない。
むしろ、
いつもより迷いがない。
答えが、
すっと出てくる。
「……あ」
自分で、自分に驚く。
私、
こんなに判断、早かったっけ。
「ねえ」
休み時間、
火憐が声をかけてくる。
「昨日の夜さ」
心臓が、一拍遅れる。
「……なに?」
聞き返す。
火憐は、言葉を選ぶように黙った。
「……いや」
首を振る。
「なんでもない」
その“なんでもない”が、
嘘だと分かる。
でも、
追いかけられない。
追いかける前に、
頭の奥で、
静かな声が囁いた。
——今は、触らない方がいい。
理由は、やっぱり分からない。
放課後、
帰り道を歩きながら、
ふと足を止める。
夕方の風が、冷たい。
「……ねえ」
誰に向けた言葉でもなく。
「私、
何かした?」
返事はない。
でも。
胸の奥で、
確かに“何か”が、
息をしている。
——まだ、名はない。
——でも、
私より先に、
考えている。
葵は、
その事実だけを、
はっきりと理解していた
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-神木ハル
夜は、静かだった。
黒の気配はない。
サイレンも鳴らない。
それなのに、
胸の奥だけが、落ち着かなかった。
「……出てこい」
声は低く、短い。
返事はない。
当然だ。
呼び出すものじゃない。
それでも、
確かに“そこ”にいると分かっている。
——今も。
「話は終わってない」
自分に言い聞かせるように続ける。
「役割を決める」
一拍。
「このまま曖昧にはしない」
沈黙。
それから、
空気が、ほんの少しだけ冷えた。
「……厳しいね」
聞き慣れた声。
でも、温度が違う。
「共存するって言ったのに」
ハルは、振り返らない。
「共存はする」
言い切る。
「でも、主導権は渡さない」
影が、足元で揺れる。
「私が正しい時もある」
その声は、落ち着いていた。
「君が迷うより、
被害が減る判断を出せる」
「分かってる」
否定しない。
「だから、排除しない」
一歩、前に出る。
「でも」
言葉を切る。
「人を切る判断は、
俺の目の前でしかさせない」
「結果だけで決めるな」
「理由を言え」
「他の選択肢も、必ず出せ」
影が、少しだけ歪む。
「……条件、多いな」
「減らさない」
即答。
「お前は“正しい”」
「でも、それだけで動く存在にはさせない」
沈黙が落ちる。
長い。
そして、
小さな笑い声。
「……ほんと」
「中途半端」
責めるでもなく、
呆れるでもなく。
「でも」
一拍。
「嫌いじゃない」
空気が、落ち着く。
氷の冷たさが、
必要な分だけ残る。
「役割を決めよう」
ハルは、静かに続けた。
「お前は、判断を出す」
「俺は、選ぶ」
「選ばなかった責任は、
全部俺が持つ」
影が、動きを止める。
「……それってさ」
「君が一番、壊れるやつだよ」
「分かってる」
それでも、言う。
「それでも、そうする」
夜風が吹く。
影が、ゆっくりと足元に戻っていく。
「……じゃあ」
声は、少しだけ柔らかくなった。
「私は、必要な時だけ出る」
「勝手には出ない」
「でも」
一瞬、鋭く。
「君が目を逸らしたら、
必ず出る」
ハルは、頷いた。
「それでいい」
影は、もう喋らない。
ただ、
そこに“収まった”。
ハルは、空を見上げる。
星は見えない。
それでも、
夜は終わりに向かっている。
「……行こう」
誰にともなく呟く。
葵の中で、
嫉妬は消えなかった。
でも。
初めて、共存する黒になった。
それが、
この編の結論だった。
プロローグ、嫉妬の黒編最後の章でした。
まずは読んでいただき本当にありがとうございます。
この作品がどのような形で皆様に届いているかは、僕には分かりませんが、確かに見ていただいているなと、実感でき本当に嬉しいです。
次の章では一拍置き、少しだけ視野と世界が広がり、嫉妬はより深く…。
そちらも読んでいただけると幸いです




