-第11章- 正しさとは
夜は、もう静かだった。
黒は消え、
路地に残っているのは
割れた街灯の光と、濡れた地面だけ。
一般人だったはずの“それ”は、
もう覆われている。
誰も、近づかない。
ハルは、しばらく動けずに立っていた。
「……正しかったのか」
独り言だった。
誰に向けた問いでもない。
答えが返ってくるとは、
思っていなかった。
「正しかったよ」
すぐ隣から、声がした。
振り向く。
水卜葵が立っている。
いつも通りの顔。
いつも通りの声。
でも、
その目は感情を映していなかった。
「被害は一人で済んだ」
淡々と。
「君が止めなかったから」
胸の奥が、きしんだ。
否定できない。
理解できてしまう。
だからこそ、
言葉が出なかった。
「……それで」
ハルは、視線を落としたまま言う。
「満足か」
一瞬の沈黙。
それから、
彼女はほんの少しだけ笑った。
哀れむでもなく、
勝ち誇るでもなく。
ただ、決まったことを告げる顔で。
「ううん」
首を振る。
「でも、もう隠す意味はなくなった」
一歩、近づく。
距離は、指一本分。
「名前、必要でしょ」
ハルは顔を上げる。
視線が、絡む。
「……零」
それだけだった。
「そう呼んでいい」
間を置いて、続ける。
「君が選ばなかった判断の名前」
夜風が吹く。
覆われた布が、わずかに揺れる。
ハルは、何も言わなかった。
言えなかった。
その沈黙を、
零は否定しなかった。
「大丈夫」
静かな声。
「これからも、同じ判断をするから」
それは約束でも、脅しでもない。
宣告だった。
夜は、何事もなかったように続いていく。
ただ一つだけ、
戻らないものを残したまま。
_____
最初に気づいたのは、匂いだった。
血の匂いじゃない。
焦げた金属でもない。
――濡れた布の匂い。
夜気に混じって、やけに生々しく鼻についた。
「……なに、これ」
声に出した瞬間、
自分の声がひどく場違いに聞こえた。
路地の奥。
街灯の下。
そこに、白い布がかかっている。
人の形だと分かるのに、
“人”として認識するのを、
脳が拒んでいる。
一歩、近づく。
足音が、やけに大きい。
「……誰か、呼んで」
誰に向けた言葉かも分からないまま、
そう言った。
返事はない。
布の端が、風でわずかにめくれる。
――靴。
見覚えのない、
ごく普通の靴。
その瞬間、
胸の奥がひどく冷えた。
能力者じゃない。
制服でもない。
武器も、痕跡もない。
ただの――
「……一般人、じゃん」
呟いた声が、震えた。
誰かを守るために、
ここにいたわけじゃない。
黒を追っていたわけでもない。
ただ、
夜に出てしまっただけの人。
火憐は、反射的に周囲を見る。
黒はいない。
敵もいない。
戦闘の痕跡は、ほとんど残っていなかった。
――終わった、後。
その事実が、遅れて理解に落ちてくる。
「……ハル?」
名前を呼ぶ。
返事はない。
少し離れたところに、
二人が立っていた。
神木ハルと、水卜葵。
並んで。
距離は近いのに、
妙に、静かすぎる。
「……これ、なに」
歩み寄りながら、言った。
声が、少し強くなる。
「どういうこと」
ハルが、こちらを見る。
一瞬だけ。
それだけで、
何かが分かった。
――もう、終わっている。
「火憐」
低い声。
止めるための声。
「……触るな」
その言葉に、
頭が真っ白になる。
「は?」
止める?
「なに言って……」
一歩、踏み出しかけて、
足が止まった。
理由は分からない。
ただ、
近づいてはいけない気がした。
葵は、何も言わない。
布にかかった“それ”を、
一度も見ていない。
視線は、ずっと地面。
「……説明して」
喉が、ひりつく。
「誰が」
「どうして」
「なんで、ここに」
ハルは、答えなかった。
代わりに、
ほんの少しだけ、視線を逸らした。
その仕草が、
火憐の中で何かを決定づけた。
――選ばれた。
この人は、
選ばれなかった。
「……最悪」
そう呟いたのが、
自分の声だと気づくのに、少し時間がかかった。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、
取り返しがつかないという感覚。
「ねえ」
葵の方を見る。
「あなた、覚えてる?」
問いは、短かった。
葵は、ゆっくり顔を上げる。
困ったように、眉を寄せる。
「……なにを?」
その答えを聞いた瞬間、
火憐は確信した。
――ここにいるのは、
――三人じゃない。
夜風が吹く。
白い布が、また少しだけ揺れた。
その下にいる“誰か”は、
もう何も言わない。
火憐は、拳を握った。
この夜を、
絶対に忘れないと、決めてしまった。
それが、
一番いけない始まりだとも知らずに。
______
——喫茶アオハラ/昼
昼の喫茶店は、静かだった。
夜を越えた街が、
何事もなかった顔で動き出している。
カップの音。
豆を挽く音。
ラジオの、低い声。
「……で」
青原は、カウンターの向こうで言った。
「何があった」
火憐は、椅子に座ったまま、
しばらく口を開けなかった。
言葉を選んでいるんじゃない。
どこから話せばいいか、分からない。
「……死んだ」
最初に出たのは、それだった。
青原の手が、止まる。
顔は上げない。
「誰が」
「一般人」
即答。
「能力者じゃない。
黒に関係してたわけでもない」
喉が、ひりつく。
「ただ、夜に出てただけ」
一拍。
「……助けられた」
言い直す。
「助けられた、はずだった」
青原は、ゆっくりカップを置いた。
「“はず”というのは」
火憐は、爪を噛みそうになるのを堪えた。
「選ばれなかった」
言葉が、落ちる。
「切られた」
青原が、初めて顔を上げる。
視線が合う。
逃げなかった。
「誰が、選んだ」
火憐は、すぐに答えなかった。
「……分からない」
正直な言葉。
「ハルは、止めなかった」
「葵は……覚えてない」
「でも」
声が、少し強くなる。
「判断は、確実に“そこ”にあった」
胸を、指で叩く。
「三人の中に、
もう一つ」
青原は、ゆっくり息を吐いた。
「それで」
静かな声。
「君は、それを何と呼ぶ」
火憐は、首を振った。
「名前なんてない」
「でも」
視線を落とす。
「人じゃない」
「黒とも、違う」
「判断だけが、そこにある」
沈黙。
店内の音が、やけに大きく聞こえる。
青原は、少し考えてから言った。
「……その“判断”は」
「誰を守っていたと思う」
火憐は、答えに詰まる。
守った?
「……結果だけ見れば」
苦しそうに言う。
「被害は、最小だった」
「だから余計に、否定できない」
青原は、目を伏せた。
「それで」
「君は、どうしたい」
火憐は、拳を握る。
「止めたい」
即答。
「でも」
続ける。
「ハルは、もう引き返せないところに立ってる」
「葵は……自分が壊れ始めてることに、気づいてない」
声が、震える。
「私だけが、
“おかしい”って言える位置にいる」
青原は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと。
「……君が見たものは」
火憐が顔を上げる。
「“零”に近い」
その一言で、
空気が変わった。
「……なに、それ」
青原は、視線を逸らさずに言う。
「まだ名前じゃない」
「ただの、概念だ」
「感情が、判断に変わる瞬間」
火憐の背中に、寒気が走る。
「じゃあ、昨日のは」
「芽だ」
短く。
「そして」
一拍。
「もう、戻らない芽だ」
火憐は、唇を噛んだ。
「……ハルに、言うべき?」
青原は、首を横に振る。
「今は、まだ」
「言葉が足りない」
「君も、彼も」
カウンター越しに、
青原は火憐を見る。
「だから」
静かに。
「君が、見ていなさい」
「判断じゃなく、
人を」
その言葉が、
重く胸に落ちた。
火憐は、ゆっくり頷く。
「……分かった」
でも、その顔は、
まったく納得していなかった。
喫茶アオハラのドアが開く。
昼の光が、差し込む。
世界は、今日も正常だ。
だからこそ。
この異常は、
まだ誰にも気づかれていない。




