囁きの底
山あいの盆地に「鹿ノ沢」という集落があった。
地図には載っているが、訪れる人はほとんどいない。
人口は数十人、家々は古く、ほとんどが空き家だ。
その中心に、苔むした大きな井戸がある。
民俗誌を執筆している記者の斎藤は、この村に伝わる「井戸下り」の風習を取材するためやってきた。
古老によれば、この井戸は地下の川と繋がっており、年に一度、代表者が縄を腰に巻いて井戸の中に降りる。
そして底の水面に手を浸し、「今年も流れを返します」と唱えるのだという。
儀式を怠ると、村の者が一人ずつ水に引かれると信じられてきた。
近年は形だけの祭りになっており、井戸下りをする者もいなくなった。
しかし、三年前から村で奇妙な事故が続いた。
川で溺れる者、用水路で倒れている者、雨の日に側溝で見つかる者……どれも不自然に水に関わっていた。
取材のため村の空き家に泊まった夜、斎藤は外から水の音を聞いた。
雨は降っていない。
耳を澄ますと、それは井戸の方からだった。
水が揺れる音と、かすかな囁き声。
「……おりて……」
懐中電灯を手に井戸へ近づくと、覗き込んだ水面が月明かりを反射していた。
そこで、ぽちゃん、と水泡が弾け、声が再び響く。
「……おりてきて……」
その声は、自分の名前を正確に呼んだ。
心臓が跳ね、思わず身を引いた時、背後から村の若者が肩を掴んだ。
「今、聞こえたでしょう? 絶対に返事しちゃダメです」
若者の顔は真剣だった。
「……今年は、もう三人呼ばれてます」
翌日、古老に話を聞くと、低く言った。
「井戸の下には川が流れとるが、その先は人が行けぬほど狭い岩の割れ目じゃ。そこに流れ着いた者は二度と戻らん」
さらに古老は目を細め、こう続けた。
「昔、井戸下りで降りた者の中には、上げる縄が急に重くなり、慌てて引き上げたら腰から下が消えとったこともある」
斎藤は冗談だと思いながらも、夜になると井戸の方を見ないようにしていた。
しかし三日目の夜、強い喉の渇きで目が覚めた。
台所に行く途中、無意識に外に足が向く。
気づけば井戸の前に立っていた。
水面は闇に沈み、何も映していない。
だが、耳の奥で声がする。
「……おまえが、返す番だ……」
次の瞬間、足首に冷たいものが絡みついた感触があった。
見下ろすと、井戸の外なのに、足元まで水が満ちている。
水は音もなく膝、腰、胸と上がってきた。
逃げようと身をよじるが、下から強く引かれる。
視界が歪み、冷たさで呼吸ができない。
――意識が途切れる直前、暗い水の中に村の人々の顔が並んでいた。
皆、口を動かしていたが、声は泡に消えた。
その中に、自分と瓜二つの顔があった。
翌朝、村の若者は、井戸の脇に斎藤のノートと録音機を見つけた。
録音には夜通し、水音と人の囁きが続いていた。
「……おまえが、返す番だ……」
その声は、確かに斎藤自身のものだった。