海
海が見たいの、と彼女は言った。僕は彼女の横顔を見つめていた。
海が見たいの? とぼくは尋ねた。それに彼女は無言で頷いた。彼女の言葉には、微妙なニュアンスが多分に含まれていた。どうしようもない後悔や、積年の恨み、または懐かしい友人に会いに行くような、形容しがたい意味が言葉の抑揚によって僕に突き刺さった。だから僕はどうやって断っていいのかがわからなかった。彼女を傷つけないように断る、いい言葉が紡げなかった。別に断る理由はなかったのだけど、ここから海まではだいたい五十キロはあるから、往復するにはすこし面倒な距離なのだ。
いいよ、海を見に行こう。僕は彼女に言った。けど、どうして? その理由だけはどうしても知りたかった。僕自身の留飲を下げたかった。彼女には答える義務があるし、僕には理由を聞く権利があると思っている。でも彼女はしばらくの間無言を貫き、ついに一言も発することがないまま僕の車に乗り込んだ。それからすこし走らせると、突然彼女は口を開いた。
海に着いたら教えてあげる。その一言だけを言い、それから海に着くまでの間沈黙を貫き通した。沈黙が気まずくなった僕はカーオーディオを起動した。つまらない、耳障りなだけのヒットチャートは、それでも沈黙を壊してくれるだけありがたかった。僕のイライラは募っていった。どうしてこんな夕方から海までいかなければならないのか、帰るころにはすっかり深夜になるじゃないか。どうしたって今日なんだ。僕は明日仕事なのに。明日も明後日も仕事がない君とは違って、自分を整えないといけないのに。
海に着くと、潮のにおいが鼻を衝く。このにおいは嫌いじゃない。ささくれだった気持ちが落ち着いていく。波の音が鼓膜をくすぐって、はやる心臓をなだめてくれているようだ。辺りはすっかり暗くなっていて、海沿いの街灯も間隔が広く、明かりが弱い。だから波打ち際が見えづらいし、波の高さもよくわからない。彼女と隣り合わせで手を繋ぎ、海辺へと向かう。ここまできて、彼女は無言のまま。まったく、いい加減にしてほしい。一体どうして夜中になってまで海まで来る必要性があったのか、そろそろ教えてもらおうか。砂浜は歩きづらくて、砂が靴に入るから嫌だ。僕は彼女から手を離して、ねぇ、と対話を求めた。どうして海にきたかったの? 僕の問いに、彼女はすこし考える様子を見せて、それから波の音が消え入るのを待って話し始めた。
今日で最後だから。彼女はそれだけ言うと、また黙った。その続きを待ったけれど、続く様子はない。しびれを切らして僕がどういうことって尋ねると、決壊したダムのように、彼女は言葉を紡いだ。
「光の蝶が私に告げたの。この海にやってきなさいって。夜の深い、月が照らさない日に、最も愛するものと。光の蝶は夢じゃないわ。確かに現実としていたのよ。だってそれは金の鱗粉を振りまいて、私の見える色をがらりと変えたわ。黒を白に、壺を着物に、水をパンに、あらゆるものを変容させたの。でもそれは私の見方が変わっただけだった。私の知覚をおかしくしてしまったの。光の蝶は私の最も大切な人を奪ったわ。私の大切な人は、道端に捨てられた吸い殻よりも無価値になってしまった。そのことに涙を流すこともできなくなった。道端のごみに喪失感を抱くものはいないわ。それと同じ。だから私は光の蝶にお願いした。私の知覚を元に戻してくださいって。そうしたら、光の蝶は三次元にはない器官を使って私の脳に直接言葉を流した。海に行きなさい。海に行って、最も愛するものと、この世から消えてしまいなさいって。あなたは私の最も愛する人。だから、今日が最良だったのよ。この海にきて私の知覚をとりもどすために」彼女は僕の手を再び握った。ひんやりと冷たい彼女の手は、本当に生きている人間のものか疑わしいくらい生気を感じなかった。僕は抱いた疑問を彼女に投げる。「君の大切な人が大切じゃなくなったのなら、今どうして僕は君とここにいるんだい?」そして彼女は応える。「私の最も愛する人はあなた。それは間違いないわ。その知覚も瓦解してしまって、今はもしかしたら赤の他人よりもさらに関係のない人のようにも思えるけれど、それでもあなたを最も愛していた記憶はあるの。私が失ったのはあなたではなくて大切な人、つまり、私自身なの。私は私がどうしようもなく汚い人間のように思えるの。何よりも嫌いで、何よりも憎い。そんな風に、光の蝶に知覚を壊されてしまったの。あなたには想像できるかしら。私の操作する私の肉体が何年も洗っていない垢まみれの皮を被っていること。飲み込む唾が汚泥のように思えること。吸い込む空気がきれいすぎて肺が焼けるように錯覚すること。吐く息はくさく、排せつはまるで私という人間を出産するがごとき所業。死を望み眠りにつき、絶望と共に朝を迎えること。それが、あなたには想像できるのかしら。光の蝶は言ったわ、この海に沈めば、私の知覚を元に戻すと。この海は私の知覚を浄化する聖水となるの。理解できるかしら。そのためにあなたが必要なこと、あなたの存在意義を」そこまで聞いて、それから彼女が続けて何かを言った気がしたけれど、僕には聞こえなかった。聞く必要がなかったから、聞こえなくなったのかもしれない。僕は僕のやるべきことを見つけたからだと思う。僕は彼女とこの海に沈むことを覚悟した。それは彼女にそう言われたからではなく、僕自身が決意したことだった。僕にしか彼女を救うことができないならば、僕がその意志を実行に移すことで、彼女にとって僕がもっとも大切な人になれる。それを確信していた。僕は僕がどうなるかより、彼女の中の僕がどうなるかの方が重要だ。僕は僕より彼女の方が大切だけれど、彼女は僕より自分が大切みたいだから、それを変えたい。そのために海に入る。光の蝶は、彼女の知覚を壊したけれど、それは結果として、彼女の認識を透明化してくれた。だから僕は光の蝶に感謝する。ありがとう。そして、さようなら。
海に入った。海は冷たかった。海は静かだった。
僕は、彼女の手を最期まで離さなかった。