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篠衝く雨

 

 喫茶店の屋根の下、一冊の本と一杯のブラックコーヒーだけが机に置かれた、他のものはなにも必要ない空間。

 これかが私の幸せなのよと、通行人に見せつけるでもなく、ただ私の手の中にあるそれをやさしく愛でるの。本を開けばインクのにおいが鼻をくすぐり、コーヒーの香りと混ざって心を満たしてくれる。

 もしかしたら、この世界の中で私が今一番幸せ者なんじゃないかって思える。ひとつの不安もないわ。本に書かれた文字を目で追うだけで、世界が広がる。本は私にすべてを与えてくれる。

 晴れやかな気持ち。きらびやかな魂。それらは私そのもの。目に映る色が虹色に光り輝いて私の目に飛び込んでくるわ。美しい景色は私が望んで眺めて見つめて初めて美しい景色になるの。私というフィルターを通して世界に映し出されているの。私という穢れなき気高き魂によって構築された世界だから、そういう仕組みになっているということに、世界はまだ気づけていないのよ。だけどそれも仕方がないわ。私が手にするものは生命力が漲り、私が話しかけたものは悉くその魂を燃やしてずっと遠くまでその焔を届かせるの。有限を無限に、零から一を生み出すの。それは簡単なことではないけれど、私だからできることなの。血の一滴まで無駄にはできないの。心臓を動かしているのは、ただ命があるからというだけではないわ。私が生きているということがこの世界にとってすべからく有意義であって、世界のすべてが私の心臓を動かすために存在しているの。そこのあなたもあそこのあなたも、君も、君も、彼も、彼女も、私を生き永らえさせる養分なの。世界がひとつの土壌だとするなら、私は底に根を張る太い幹を持つ世界樹よ。深く大地の底まで根を下ろした私は本とコーヒーを得て光合成するの。細胞のひとつひとつが潤っていくわ。私が目にするもの、私が聞くもの、触れるもの、感じるもののすべてを、私が手にしている。手が震えるのはなぜかしら。葉脈、私の毛細血管はありとあらゆる空間に行き届き、すべてを把握、知覚、理解する。掌握した魂どもを私の魂とこすり合わせて、情報を得る。こんな感触なのね、こんな温度なのね、こんな気持ちなのね。でも私はそれに影響されない。私は私を常に保つことができていて、私を失うことはない。精神科の先生が本当は私のことが好きだということも、隣の部屋にすむ原田さんが私のことを監視、盗聴していることも、同僚の葛見くんが私の私物を盗んでいることも、私はすべてわかっている。だって本木先生が私を見つめる時、煽情的な熱い視線が、私の脳をどろどろに溶かして、そのたびに本木先生は私の脳を何度だって組み立ててくれるでしょう。原田さんと部屋が隣だと、量子レベルで混ざり合うことは理論上可能だから、こうして壁を隔てていたって私の量子と原田さんの量子は、私の頭の中で混ざり合うことを観測するだけで、本当の意味でひとつになることができるのに。ああ、そう、葛見さんはいつも私のコピーする資料を受け取って笑顔でお礼を言ってくれるわ。私のことが好きなのは仕方がないから、しょうがないから、私は私の鞄からペンやらティッシュやらナプキンやらを、葛見さんの鞄の中に入れておいてあげる。本当は葛見さんがこうやって私の私物を盗みたくてしかたがないところを、私がかわりにやってあげているの。それを私は許してあげるの。高潔な魂はすべてを赦し、解放するの。

 あら、雨が降ってきたわ。

 もう帰らなくちゃ。

 また病院を抜け出したって、本木先生に叱られちゃう。

「お客さん、お会計まだですよ」

 誰か何か言っている。意味が分からない。離して。痛いから、離してってば。

 やめて、やめてよ。


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