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冬の少女

 一人の少女がいる。それはわたしの頭の中にしかいない。もちろん他人に見えることはないし、声も聞こえることはない。少女はわたしにだけ語りかけてくる。そのほとんどが他愛のないことで、わたしが散歩をしているときに道端に咲く花の名前を聞いたり、枯れ木に留まった鳥の名前を尋ねたりした。わたしはそれに、応えられる範囲で応えた。わたしには、妻がいた。もうとうの昔に亡くしてしまったが、いつでもそばに妻がいるような感覚がまとわりついていた。少女がいたからかもしれないが、少女は妻とはまるで正反対で、一挙手一投足に妻の面影をかけらほども感じることはない。だからまったく見当違いだ。わたしはこの違和感と共に、少女と時を過ごした。季節を送り(または季節を捨てて)、新しい季節を迎えた。暑くなるころには少女に麦わら帽子を買ってやったこともあった。少女はいたくそれを気に入って、涼しい部屋の中でも被る始末だ。ほほえましくてわたしが笑うと、少女はその理由がわからず困り果てるのだった。少女は可愛かった。おそらく、この世界の同年代の、いや、世界の女性の中で最も可愛い。可憐な少女だった。それを誰にも言うことはできないし、また少女を紹介することもできないから、証明することはできない。もどかしいきもちもあったが、少女をわたしが独り占めしているのだという優越感もないわけではなかった。だから休日には手を繋いで公園を散歩したり、せがまれて遠出して、遊園地や動物園に連れて行ってやってこともあった。妻とわたしとの間に子供はできなかったが、もしも子供がいたらこんな風に溺愛していたんだろう。今のわたしがそうであるように。

 さて、どんな時にわたしの周りで妻を感じることがあるかというと、それは散歩をしているときでも少女と一緒に話をしているときでもない。仕事(わたしの仕事は家で文章を書いたり、あるいは直したり、読んだりする仕事で、これはあまり稼ぎがないのだが、好んで選んだ仕事なので不満はない)の合間にふっと首筋をなぞるような風が吹いて、それに触った時にまるで妻の細くて小さな指先を感じることがある。また、わたしひとりが風呂に入っているときに、全身を伝う水滴のひとつひとつに妻の息遣いを感じることだってある。ほかにも挙げていけばきりがないが、とにかくそういう日常のちょっとした意識の隙間に、妻が顔をのぞかせてわたしをからかっているみたいなのだ。それが本当に生前の妻にそっくりで、寡黙なわたしとコミュニケーションを図るためにわざといたずらしてくる、それでいてわたしから話しかけても気分が乗らなければ無視をするような、きまぐれな猫のよう。そんな妻のことがわたしは好きだった。愛していた。それは心の底からそう思っている。生前に一言でも愛していると言えなかったわたしの心残りが、妻が死んだあともこうして生活の中に顕われているんじゃないかと思う。もしも、妻が生き返ったとして、一言だけ伝えられるとすれば、愛していると伝えたいと思っていた。夢の中でもいい。わたしの心が救われるだけで終わりなのだから、一度だけでいいから、意地悪しないで夢に出てきて、わたしに愛していると伝えさせてほしい。

 少女と過ごす二度目の冬は、それは極寒だった。北風が吹き止むことなく、わたしの街のあらゆるものを凍えさせた。頭の中の少女もまた、とってもさむがった。わたしは温かい洋服を少女に与え、家を温めるために薪を手に入れようと街に出た。近くの森では、たくさんの薪が墜ちているとおもったから、なるべく温かい格好をして家を出たけれど、外に出た瞬間、猛烈な吹雪が全身を殴りつけた。あまりの寒さに、たちまちわたしは震え、数歩も歩かないうちに動けなくなってしまった。寒くなる前、散歩を日課にしていたわたしだが、情けない。歳は取りたくないものだ。身体を丸めて吹雪が落ち着くのを待ったが、それより先に身体のほうに限界がくる。末端から冷えた体は凍傷を起こして感覚が失せていく。次第に意識がはっきりしなくなって、目の前がぼやけていく。わたしの命もここまでだ。わたしは悟った。死を前にして、不思議と恐怖はなかった。妻に会える、そう思っていたからかもしれない。そんな確証はどこにもないけれど。心臓の音が耳元で聞こえているのかと思うほど大きくなっていく。あらゆる感覚が鈍くなっていき、それから、身体の内側から熱が広がっていくのがわかった。頭がぼーっとして気持ちよくて、おかしかった。こんな時でさえ、わたしはこの感覚にも、妻の面影を感じているのだから。こんな風に寒い冬の日に、妻が薪ストーブに火をつけて、そのうえで沸かしたハーブティーを、妻の趣味である食器コレクションのカップの一つに注いでわたしに差し出して、それをわたしは丁寧に香りを楽しんだあと、口いっぱいに含んだのだ。程よい温かみが細胞に染み渡って、上品な茶葉の甘みと渋みが舌の上で広がった。その時、そうだ、妻は笑っていたんだ。わたしを見て、愛おしいものを見るみたいに、笑っていたのだ。どうして笑っているんだい、と妻に尋ねたのを覚えている。妻は応えなかったけれど、ただずっと、わたしの目を見ていた。

 わたしの目の前でほほ笑んでいたのは、わたしの頭のなかにだけいる少女だった。吹雪の中、不思議と寒さを感じていないようだった。その微笑みが、わたしのことをみつめていると、わたしは現実と夢が交差する感覚を覚えた。目の前にいるのが少女なのか妻なのかわからなくなった。少女のようにも見えるし妻のようにも見える。それほど同一化していて、あいまいだった。ここが生者の世界なのか、死者の世界なのか、それすらも境界がなくなって均衡が崩れているようだった。わたしは最後の力を振り絞って、声を出した。それはちゃんと生者の世界で声に成ったのか、確認する術はない。ただ今わたしの手を握る少女の手に体温があって、そのおかげで最期に声だけがかろうじて発せられることが、神がわたしに与えた最後の機会であることは自明であった。

「愛している」

 届け、届いてくれ、頼むから、届いてくれ。何もいらない、もう何も望まないから。応えはいらないから。ただ伝えたいだけなんだ。愛している、愛しているんだ。ずっとずっと、いつまでも、愛しているんだ。


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