009 彼女の笑顔
魔法陣を吸収した笑顔のドラゴンからの正体不明の圧力が増したような感じがした。
「三=三=三=――==!!!」
先程までは足がガクガクしていて立っているのも怪しい状態だったのに、今はむしろ彼女が現れたその時よりも力が溢れているように見えた。その端正に整った顔に浮かぶ笑みも深みを増し、ぽたぽたとよだれが垂れている。
「モカ様! その少女は、魔笑奇伝にその命の有り方を描写された微笑ドラゴンを造型した存在だと思われます!」
「ま、魔笑奇伝っすか……?」
自慢ではないが、私は子供の頃から書物大好きっ子だった為、今に至るまで結構な量の書物を読んでいるし、読んだことのない本でもタイトルは大抵知っているつもりだったのだが……魔笑奇伝という本の事は、全く知らなかった。
「あたし、それ知らないんすけど、どんな話なんすか?」
ミントちゃんも知らない本のようだ。
「微笑ドラゴンはその存在が人間体である時に、闇の修行の末に敵の魔法陣を無効化、吸収して己の力とする能力を身につけています。代償としてどんな時でも笑う事しか出来なくなってしまった為に、様々な者と敵対し、打ち破り、結果として孤独になってしまうのですが……っていう童話ですけど、知らないのですか?」
「姫さまは王家っすから、そういうマニアっぽいのも気軽に読んでたかもしれねえっすけど、あたしの実家はドブ横のスラムっすからねぇ……」
うん、ドブ横スラム生まれのお陰でおおよその内容を知ることが出来てしまった。出来てしまったのだが……別に知らなくても良かったような情報しか無い。その童話にはあのやけに気になる笑顔の理由付けが書いてあるといいのだけど。
絵描きの世界にも上手な絵の代償なのか、心がねじくれ曲がったような人が居たものだけど。そのドラゴンだか人間だかは一体何をして表情筋をぶっ壊してしまったのだろう……?
「しかし、何故攻撃を仕掛けてきたのでしょう? それに、そもそもあの子が出現している理由が分からないのです」
「姫さまの持っていた魔法陣以外は、偉大なる魔術師であった御祖母様の崩御で、完成寸前ながらも未完成。遺された残りは城の地下で厳重に封印されていた筈っすけど……」
「もしや、何か城で問題が?」
3人の会話が耳に入ってくるが、目の前では微笑を絶やさないドラゴン少女が引っ切り無しにヤバそうな攻撃を仕掛けてくるので、会話に参加できないのは残念だ。
取り敢えず、私を狙って振るわれた爪を避ける。だが、しなやかな筋肉の躍動と共に力一杯に振るわれたその美しい爪で少し前まで私が居た空間が切り裂かれる際に、その爪先が音速を越えているのか、衝撃波が発生し、爆発音と共に私の身体を突き抜けていくのを感じた。要するに、避けても無駄な程の攻撃なのだろう。
だが、何発か爪が命中しても、何にも問題がない。威力の上がったブレスを吹き当てられても、巨大な岩をぶつけられても。自分でも驚き呆れるほどに、私の身体はぷにっぷにの無傷だった。
「=――三三――==三三!!!」
両手を上に上げてドリルのように高速回転し、私の腹めがけて猛スピードで突撃してくる微笑ドラゴン。おそらくは、私の腹にその爪を差し込み、切り開き、致命傷を与えようとしているのだろう。
私の腹を貫こうと必死な彼女の無防備な後頭部が目に入ってきたので、手で掴んで持ち上げて、その顔を確認してみた。相変わらず笑顔なのだが、その顔色や瞳には焦りの色が見え隠れしている。頭を掴んでいる私に対し、見るからに強烈な爪や重い蹴り、しまいにはブレスまでをもを繰り出しているが、恐ろしいことにそれら全てが、私にとっては全く痛くなかった。
話が通じないのだから仕方がない。拘束も出来ないのだから、手加減できる自信は全く無いが、殴り飛ばすか、ブレスで焼くか……。
そうは思ったのだが、私の事を殺そうとしている事を除けば、目の前の相手は容姿端麗で笑顔のかわいいドラゴンだ。それも、人型だ。全裸の少女だ。
存在が危険とはいえ、人間を。全裸の少女を攻撃する。もしかしたら殺してしまうかも……と、いうのは、これが夢であったとしても許容され、許容できるもの?
「モ~カ~様~っ! もしかしたら抵抗があるのかもしれねえっすけど、魔法陣で召喚された生物は、殺しても、元の次元に戻るだけっす! ほっとくのも危ねえので、遠慮なく殺っちまってくださ~い!」
私が、腹で生成され両胸で凝縮された猛烈な灼熱地獄を微笑ドラゴンに叩きつけたのは、ミントちゃんの言葉の直後だった。
手加減……というか腹加減をしたつもりだった。だが、私の口から発射された超高熱という形の暴力は、一瞬で彼女を包み込み、全てを無慈悲に破壊していく。
「=――!」
最後の瞬間まで。消え失せるその時でも、彼女の笑顔が絶えることは無かった。その悲痛な程の笑顔は、なぜか、私の心に長く残り続けることとなる。
あのまま放置するのも危険だったのだが、やはりいい気分ではない。人を殺した経験なんてこれまで無かったし、まさか殺害することになるだなんて思ってもいなかったのだ。死んだら元の次元に戻ると聞いたが、まっ黒焦げの恐らくは死体だと思われる残骸が残っているのにも参ってしまった。
勿論、死というものは表現者としては率直に興味深い題材だ。以前にも説明したとおりだが、黒焦げの死体であっても興味深い観察対象になり得る。それを作り出すという貴重な経験になった気はするが、この経験を生かして死体をリアルに描写されても読者は困惑するだけではなかろうか。
まぁ、要するにこれ、殺人事件だ。私は、殺人を犯してしまった。当然、110番しなければならないのだが、このやたらとリアルな夢の世界には、どうやら警察は存在していない。
そして、もっと困ったことに。その時の私は、心情的には不本意の殺人に戸惑っていたのだが、体は何の問題もなく元気いっぱいで、食欲が失せたりもせずに腹を減らしていたのだ。
そして、その日。
私達は、第四魔術防壁塔に到着し、残酷な現実に向き合うこととなる。
「……姫様。こちらも、駄目なようです」
「何故、こんな事に……」
塔には。塔に隣接している村にも、もう、誰一人として、生き残った人間が居なかったのだ。
そこいら中に激しく傷んだ遺体が転がっている。その中には老人や子供も混じっており、戦士だから殺されたとかいうわけではなさそう。気候のせいか腐敗臭はしなかったが、あまりにも無残な光景で、号泣するミントちゃんにつられて思わず泣きそうになってしまった。
だが、人殺しの私に、そんな権利があるのだろうか?
「……うう、通信網が生きているかもしれねえっすから、ちょっと塔の様子を見てくるっす」
ミントちゃんとロレッツさんは塔に登り、その間に私が地面に穴を掘って、目についた遺体を転移させ、埋めていった。姫様はずっと祈りを捧げている。
「これ、さっきのドラゴンが、やったのかな?」
「モカ様との戦いでは、お力の差がありすぎて、それ程の脅威には感じていませんでしたが……今思えば、このくらいは簡単にやれてしまう力を持っていましたね……」
塔から降りてきたミントちゃんが、泣くのを我慢しながら口を開いた。
「やはり、通信網も壊れてるっす。状況が全く掴めねえとか、ふざけんなって感じっすよ」
「どちらにせよ、我々には城に戻る以外の道はありません……」
「残念ながら、馬等も見当たりません……モカ様。失礼ながら、新しいマントを見つけてまいりました。宜しければ、こちらをご着用ください」
そう、マントを焼かれてからここまでの私は完全に全裸だったのだ。ロレッツさんの差し出してくれたマントをありがたく羽織ると、少しだけ。無くなっていた人間性を取り戻せたような気がした。
翌日。準備を整えた私達は、城に向かって歩み始めたのだった。