前編
さとみから電話がかかってきたのは、終業時刻を少し過ぎた時間だった。
「あっ」
私は一瞬動揺したが、取引先からの電話を装って、よそ行きの声で返事する。
「はい、和光商事第1営業部、柴田です」
「お先に」
隣の席の萌が、申し訳なさそうに言って席を立った。私は萌にうなずいた。
『……あの……。私、布川ですけど、わかります?』
もちろん。この『甘えた』な独特のしゃべり方。
大翔さんの前の彼女やん、って。
「ああ……。こんにちは。で、どういうご用件でしょう?」
私は小声で答えた。営業時間を過ぎているとはいえ、部署の人の大半は残業しているし、外回りの営業担当も、まだ全員帰社していない。しーんと静かな部屋には私の声しかしていないのだから。
『すみません、まだお仕事中でしたかしら。実は、今日これからお会いできへんかなあって……』
何がつらくて彼氏の元カノに会わなアカンねん。
「ごめんなさい、今日は」
『そんな長い時間やないんですけど。さっさと、お話済ませますから』
仕方がない。はっきり言お。
「すみませんけど、ほんまに何のご用でしょう? 会うてまで……」
『ねえ、大翔さんに関係ある話やし、少しだけ会うてくれへん?』
受話器を通して、粘着性のある声が私の耳に張り付く。
結局、布川さとみと会うことにした私は、電話を切ったあとため息をつき、パソコンを閉じて帰りの挨拶をする。
「お先に失礼します」
残って仕事している人は、パソコン画面を注視したまま、「お疲れ」「お疲れ様」と、口々に答えてくれた。
女子ロッカールームに行くと、萌がまだ念入りにメイクを直していた。
「早いな。取引先からちゃうかったん?」
「違う。大翔さんの元カノやった」
私は制服から私服に着替えながら答える。
今日は大翔さんと外で晩御飯を食べる約束だったが、昼休みに彼から連絡が来て予定変更になった。せっかく今日は新品のワンピを着てるのに。
「で、元カノが何言うてきたん? てか、祐華は元カノと仲良しやったんか」
「ううん。せやから不気味やねん。突然なにごとかと」
「大翔さんとその人が、ちゃんと別れてないとか?」
私は何も言えない。
パフで頬にパウダーファンデを叩いていた萌が、手を止めて驚いたように言った。
「いや! マジなん⁈」
「違う、違うよ。別れてるはず。多分。大翔さんとは、彼女が浮気したから別れたい、言うて相談されて、その…… 仲良うなったし。けど、もう1年も前やで」
「そう。それなら、なんで今ごろあんたに連絡して来るの」
「さあ? なんやろ」
「別に決闘するんちゃうよね。ほら、江戸時代に前妻が後妻に殴り込みかけるみたいの、あったやん」
「何? それ。……あーあ、気が重いわ」
「そもそも大翔さんとは、なんか意識高い系の集まりで知り合うたんやったっけ?」
「異業種交流会やけど」
「彼、お金持ちやったな。元カノもモデルやった? ラジオのパーソナリティみたいなんもしてるんでしょ。大翔さんもなんで祐華と……。いや、なんでもない」
萌はウヒヒ、と笑った。
最寄りのJRの駅まで徒歩で5分。私は駅まで早足で歩きながら、先ほどの電話を思い返すと、なんとなく嫌な予感がした。
『大翔さんに関係ある話やから』さとみが思わせぶりに言ったとき、優越感に浸ってる感じがにじみ出ていたからだ。
待ち合わせ場所は、JR大阪駅改札出てすぐの喫茶店。
外から丸見えの落ち着かない店だから長居しないぞ、と私は決意する。
店に着いたとき、店内はほぼ満席で、さとみは一番手前の2人がけでぼんやり座っていた。