人形師の霊
これは、私が検査入院をしたときに恐怖を感じた心霊体験のお話です。
◆
五月の終わり、だんだんと気温が上がり眠気を誘うような日々が続く季節になった頃、職場で定期的に行っている健康診断の結果が返ってきました。
会社に勤めだしてから四年。実家を出て一人暮らしをしていた私は、日頃の不摂生がついに顔を出し再検査の診断を下されてしまいました。
「紗季ー、結果どうだった?」
「……再検査」
「あははは、マジ?」
「マジ。やっぱり一人暮らしは駄目ね。食事とか面倒で適当に済ませちゃうし」
「実家は実家で親がうるさいけどね」
私は同僚の綾香と他愛のない会話をしながら再検査のことで憂鬱な気分になっていると、綾香はニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「あ、お見舞い行ってあげようか?」
「い・ら・な・い」
「またまた~、嬉しいくせに!」
「嬉しくない。検査入院でお見舞いとかどんな罰ゲームよ。恥ずかしい……」
楽しそうに提案する綾香に私はため息を吐いた。正直、検査入院なんてしたくない。確かに不規則な食生活をしていたことは認めるけど、そこまで大変な職場というわけではないし改めようと思えば改められると思う。多分。
原因も改善方法も分かってるつもりだから入院で一日が潰されるのが嫌だった。
そんなことはお構いなしに綾香は私をまだからかいたいらしく、「そういえば」と取ってつけたような思案顔をして、ありきたりな話題を振ってくる。
「病院といったらやっぱり……」
「幽霊、とでも言う気?」
「え~、紗季紗季否定派?」
「紗季紗季言わない。否定も何もないわよ、私心霊体験とかしたことないんだし」
「そうなんだ」
「そういう綾香はあるの?」
「ない!」
「なんて元気いっぱいのドヤ顔」
綾香のこういう性格は付き合っていて疲れるけど嫌いじゃない。疲れるけど。
「病院には幽霊が付き物って言うけどどうなのかしらね? 昔はどうだったか知らないけど今の病院って夜でも明かりはちゃんと付いてるしテレビで見るような暗い雰囲気じゃないわよ」
「そうなの!? 非常灯の明かりだけで夜のゴーストチェイスと洒落込まないの!?」
「私も真夜中まで病院にいたことがあるわけじゃないから分からないけど洒落込まないんじゃないかしら」
「そっか……テレビのは夢なんだね……」
「夢を売る仕事だもの」
夢破れた少年のような遠い目をした綾香は夜には元に戻っていて──実際は数分後には戻ってたけど──夜には同僚数人と飲みに行った。健康診断の結果からは目を逸らした。
◆
検査入院当日。
私は都内のU病院という大きな病院にいました。綾香の話ではないですが幽霊が出るとか墓地の上に建てられたとか、そういったいわくのある話は聞かない普通の病院です。
内装も清潔で明るく、それこそテレビ出てくるような暗い雰囲気はまったく感じませんでした。
私の入院する病室は6人部屋でしたがちょうど私一人があぶれたのか一人で病室を使うことになり、少し寂しさを感じましたがこれはこれで静かに過ごせて良いかと、この時の私はそう思っていました。
一通り検査が終わり夕食も終えると、私は消灯時間までの暇な時間を読書で潰すことにした。
病室は私一人しかいない静かな環境。聞こえてくるのは窓の外からの車の音や電車の音だけ。うるさすぎず、けれど静かすぎない。読書をするには最適だった。
だけど私は読書に集中できずにいた。
6人部屋に一人きりというのはどこか落ち着かなかった。心がざわざわするような居心地の悪さだ。
それに誰にも使われていない5つのベッド。否応にも視界に入ってくるそれらの上には何かがいるような妄想を掻き立ててしまう。病室の清潔感を優先した暖かみのない白色の電灯がさらに不気味さを助長させる。カーテンで仕切りを作っても人影が映りそうで気味の悪さは拭えない。
(……綾香のせいよ)
心の中で愚痴を吐いて私は早く消灯時間が来るのを願った。
夜。
目が覚めると夜だった。すっかり外は暗くなっていて病室の電気も消えていた。
(……寝落ちしちゃったんだ)
だんだん頭の中がはっきりしてきて、本を置いた記憶も消灯の連絡もなかったことを思い出す。
私は今の時間を確認しようと体を動かして、ぞわっと嫌な緊張に襲われた。
(え? 動かない? な、なに!?)
どれだけ力を入れても全く体が動かなかった。指先一つ動かない。
声を出そうとしても口から空気が漏れるだけ。
(もしかして金縛り……? ど、どうしよう……誰か!)
私はパニックになっていた。
心霊体験なんて一度も体験したことはないし、金縛りだって初めてだった。
どうにかしてナースに異常を知らせようとしても体は言うことを聞かない。
誰でも良いから気付いて欲しくてもこの病室には私一人しかいない。焦りばかりが募っていく。
何度か試してようやく視界だけは動かせることに気付くと、今度は心臓がドクンと大きく跳ねた。
私のベッドの隣に気配があった。
医者じゃない。
看護師でもない。
その恰好は病院にはふさわしくない、職人が着るような作務衣の腰の曲がったおじいさんらしき人が立っていた。
(ひっ!?)
顔はよく見えない。
だけど何かぼそぼそ呟いている気がする。
私は聞いてはいけないと頭ではわかっているのに耳が勝手にその人の声を拾ってしまう。
「…い。…いなぁ。このあ…は良いなぁ。これを……えば…ばらし……ぎょうが……れる」
全部は聞き取れなかった。それで良かった。
しわがれた、欲にまみれた声が耳にこびりつく。
嫌な汗が額から、背中から一気に流れていく。
怖くてしょうがなかった。
目を逸らしたいのに逸らせない。気付かなければ良かった。
(誰かきて! お願い……お願いだから…誰か! 助けて!)
私の祈りが届いたかのようにおじいさんが私の顔の方を向いた。
陰で顔はまったく見えないのに何故か口が三日月のように醜く歪んだのがわかった。
そして、今までで一番はっきりと聞こえる声で語りかけてきた。
「君もそう思うだろう?」
そう言っておじいさんは人形のような節を持った私の足を持ち上げて見せた。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
気付くと朝になっていた。
私の体は水をかぶったように汗でびっしょりとなっていた。
時間を確認すると6時を少し過ぎた頃。
時間を確認できることで自分の体が自由に動くことに気付く。
昨日のアレは何だったのか。夢だったのか。それにしては感覚がリアル過ぎた。
寝起きの回転の遅い頭では何も分からない。
とにかく、私は汗で気持ちの悪い体を拭こうとタオルを取り出そうとして異変に気付いた。
「足が、動かない……?」
◆
足が動かないことを女性看護師に伝えると医者を呼ばれ、問診を受けた後精密検査を受けることになりました。けれど原因は不明。体のどこにも異常はありませんでした。ですが、足に関してはまったく動かず、痛みや熱さ、寒さも感じなくなりました。本格的に入院することになり、私はだんだんあの夢のような出来事を忘れ、この先どうなるのかという不安と恐怖でいっぱいになっていました。
「紗季、大丈夫?」
「わかんないよそんなの……」
「そ、そうだよね……ごめん……」
綾香が心配してお見舞いに来てくれた。本当に心配してくれてるのか今日はかなり大人しい。生活用品も揃えてきてくれて感謝しかない。
でも、いつもの綾香のテンションで来てくれた方が不安や恐怖を吹き飛ばしてくれそうで嬉しかった。色々してもらったのにそんなことを言ったら罰当たりかもしれないけど。
「……ねえ」
「なに?」
「聞いても良い?」
「足の事?」
「……うん」
綾香がためらいがちに頷く。
私はどう説明したらいいかと頭の中で整理しようとして、医者でも分からないんだから無意味だと思い率直に話すことにした。
「本当に何が何だか分からないの。昨日までは普通に動かせたのに今日の朝になったら動かなくなってて……。お医者さんも原因が分からないって言ってたしどこにも異常は見つかってないの」
「……でもそんなことって本当にあるの? 急に足が動かなくなる病気なんて聞いたこと無いよ。それに異常もないって」
綾香にそう言われても私には分からないとしか言いようがない。医者が原因不明だって言ってるんだから。
ただ私も急に足が動かなくなる病気は聞いたことがない。もちろん私が知らないだけであるのかもしれないし、新しい病気かもしれない。
昨日は特に問題なんてなかったと思う、検査をしただけで。
医者が変な薬を注入したとか? それなら検査でわかるような気もするし、やる意味も分からない。
検査に問題なかったとしたら、昨日の夜から今日の朝にかけて何か変わったことがあったってことだけど……。
「あ」
「! 何々? 心当たりあった? お地蔵さんでも転がした?」
この子は……。でもあながち的外れでもないのがなんとも言えないところだ。それにいつもの綾香のテンションが戻ってきたみたいで少しほっとする。
「……笑わない?」
「友達がこんなことになってるのに笑わないよ!」
綾香は真面目な顔をしていた。
しかしどうして忘れていたのか。あんなに怖い思いをしたっていうのに。
「じゃあ言うけどね。夢を見たの。それもすごく怖いやつ」
「……私真面目に聞いてるんだけど?」
「わ、私もいたって真面目よ!」
綾香が真顔で反応するので顔が少し熱くなった。私がすべったみたいになってる。
「その、ね? すごい変な夢で、いや夢なのかもわかんないんだけど。金縛りにあって私はまったく動けないの。私のベッドの横には作務衣を着た腰の曲がったおじいさんがいて何を言ってるのか分からなくて。最後に私の足を持ち上げるんだけど……その足が、人形の足になってたの。それで朝起きたらまったく動かなくなってたんだ」
「…………」
綾香が呆然とした顔で私を見つめる。
「綾香?」
「何でそれを先に言わないの!?」
「え!?」
「それ絶対幽霊じゃん! 心霊体験だよ! 足が動かなくなるってことは呪いとか取り憑いてるってことなのかな……。あーもうとにかく! それ電話で言ってくれればお守りやらなんやら買ってきたのに!!」
「えー……」
綾香が早口でまくしたてる。
電話でって言っても足が動かなくなった原因が幽霊の仕業だなんて思うわけないじゃない……。
「とりあえずこれ持ってて!」
そう言って渡されたのは交通安全と書かれたお守りだった。
「……うん、嬉しいんだけど効果あるの?」
「ないよりマシ!」
「わ、わかったわよ」
「じゃあ私はもう行くね! ホントは朝まで一緒にいたいけど調べなくちゃいけないことができたから! また明日!」
「また明日……」
私の返答を聞くまでもなく綾香は風のように去っていった。
病室には私一人だけとなった。だけど昨日のような居心地の悪さはなく、どこか地に足が付いたような安心感があった。
(ふふ、綾香のおかげね…って私少し現金かも)
退院したら綾香に何かお礼をしてあげようと思い、お礼は何が良いか想像しながら消灯までの時間を過ごすことにした。
夜が来た。
時間はわからない。でも不思議と昨日と同じ時間帯なのではないかという予感がした。
どのみち昨日の時間は知らないし金縛りにかかった私にそれを確認することはできないけれど。
私は金縛りから抜け出せないかと一通り体を動かそうとするも無理だと悟り、だんだんと焦りから心がざわついていきた。
(……落ち着け私……。大丈夫、大丈夫だから……! 綾香にもらったお守りもある……!)
根拠も何もない言葉で自分に暗示をかけるように頭の中で言い聞かせる。それでも効果はあった。金縛りにかかるのが二度目だからか、綾香にもらったお守りが功を奏したのかは分からないけど昨日のようにパニックに陥ることはなかった。
そうなると今度は少しばかりの余裕が出てくる。
私はあのおじいさんがいないことを願いながら目だけ動かして周りを見回してみると。
いた。
作務衣を着た腰の曲がったおじいさん。
昨日立っていた場所よりも視覚的に近づいていてちょうど私の腕がある場所に立っていた。それなのに顔は確認できず、不自然に陰がかかっているようだった。
内臓が浮遊するような落ち着かなさに襲われる。私は無理やりに冷静を保つために何度も深呼吸を繰り返した。
おじいさんは何をするでもなく不気味に佇んでいると、ついに私の腕を持ち上げて不気味な声で言う。
「いい。い…なぁ。…の腕は良いなぁ。これ…使えば素晴ら…い人形が作れる」
それを見て私は後悔した。
冷静さなんて一瞬で吹き飛んだ。
むしろ昨日よりも幾分冷静だったがためにそれをしっかりと認識してしまった。
おじいさんが持ち上げた私の腕はまるで人形のような節を持った腕になっていて、その節から人間ではありえない角度で折れ曲がっていた。
今すぐこの場から叫び逃げたしたい衝動に駆られた。だけど声も体も自由が利かない。
心臓が痛いぐらいに早鐘を打つ。呼吸が浅く速くなる。四肢を除いた全身に鳥肌が立つ。
視覚から得た情報を許容できない。
私の体から人形の腕が生えている?
──気持ち悪い。
腕が変な角度で折れている?
──気持ち悪い。
なのに一つの感覚すら感じない?
──気持ち悪い。
どれもが理解の範疇を超えている。いや、脳が理解するのを全力で阻止しているのかもしれない。
こうしている間もおじいさんは私の人形の腕を検分でもするかのように様々に動かして見つめていた。
何度も普通に又はあり得ない方向に腕を折り曲げて。
何度も普通に又はあり得ない方向に手首を折り曲げて。
何度も。
何度も。
何度も。
そのあまりに異様な光景の気味悪さに吐き気がこみ上げてくる。
怖い。
嫌だ。
助けて。
誰か。お願い。怖い。もう止めて。なんで私がこんな目に。早く朝来て。夢なら覚めて。怖い。嫌だ。どうして。助けて。神様。怖い。怖い。誰か。体動いて。綾香。怖い。嫌。どっか行って。お母さん。お父さん。夢なら。止めて。誰か。怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
視界がだんだんとぼやけてくる。
涙か、酸欠のせいか。
麻酔が効いていくように意識も少しずつ薄れていく。
そして、おじいさんの最後の言葉を聞いて私は意識を完全に失った。
「君もそう思うだろう?」
◆
「上谷さんおはようございます! 体調の方はどうですか?」
「……すみません、今度は両腕が動かなくってしまって……」
「えっ?」
翌日、私の原因不明の症状を心配して見回りに来てくれた看護師に今の症状を話すと目を丸くして驚いていました。その後は昨日同様検査を行いましたが結果は芳しくなく原因は分からないまま。さらに、ご飯を取るのもトイレに行くのも一人ではできず、恥ずかしさと申し訳ない気持ちで精神的に疲れてしまいました。
そのうえ、入院してから今日で三日目。一日目は両足、二日目は両腕を。誰でもわかる簡単なことです。今日は頭か、胴体か。どちらにせよ私の命は今日までの可能性がとても高いのです。その事実が私を諦観した気持ちにさせるには仕方のないことでした。
「もう紗季! メッセ飛ばしたのに無視なんて酷いじゃん!」
「あー……、ごめん」
綾香がお見舞いに来たのはお昼ご飯の時間だった。私は看護師の方に食べさせてもらっていて、その姿を見られたのは少し恥ずかしかった。
綾香はというと私のことを見て驚きと困惑の表情を浮かべていた。
「えっと、今度は両腕が動かなくなっちゃって……あはは」
「──っ! 看護師さん、あとは私がやりますからいいですよ」
看護師が「どうします?」という風に私を見てきたので頷いた。
「それじゃあお願いします」
「はい!」
看護師が仕切られた私の病室のスペースから出ていくと、綾香が看護師の座っていた席に座った。
「……紗季、ごめん。さっきは怒って」
「別に謝る必要ないわよあんなの。いつものやりとりじゃない」
「……うん」
「それより綾香が食べさせてくれるんでしょ? 早くしないと片付けられちゃうんだけど」
「もう、私は心配してるのに。それにお世話してもらう人の態度じゃないと思う!」
「あははは」
そのあとは私がいない間の職場での話や綾香の周りで起こったことを話しながら色々と世話をしてくれた。綾香は積極的に世話をしてくれたけど、同僚に世話をしてもらうのは恥ずかしく、看護師に任せた方が良かったと少し後悔した。
「はぁ、まさか綾香に世話される日が来るとはね」
「ひひ、私だって思わなかったよ。感謝してよね!」
「もちろん感謝してるわよ。お礼は、そうね。守護霊になって綾香を守るとか──」
「冗談でもそんなこと言わないで!!」
私のちょっとした軽口に綾香は今にも泣きそうで怒った顔をして怒鳴る。
出来てしまった沈黙が痛くて私は顔をそらしてしまう。
「……でもわかるでしょ? 両足両腕が動かなくなって、残るのは頭か胴体か。どっちにしろ……」
「私がそんなことさせないよ」
「どうやって?」
「コレ」
そう言ってカバンから取り出して私の足の上に置かれたのは人形だった。
日本伝統の人形とは違う、海外のドールを元にしたような今どきの30センチ程度の人形。子供が遊ぶような簡単な作りではなく、肩やひざなどの大きな関節から指の小さな関節まで作りこまれていた。目はガラス玉のように光を反射し髪もリアルな質感で、洋服の布も上等に見える。
「どうしたの? この人形」
「私、心霊現象とかについて色々調べたんだけどね、呪いとか憑き物から身を守るには人形が良いらしいんだ。なんでも人と人形を勘違いするみたい。ほら、身代わり人形とか厄除け人形ってあるじゃない?」
「え、ええ。テレビで人形供養とか聞いたことはあるけど」
「そうそれ! そういうの! でね、一番良いのは遊んであげた人形なんだけどこういう精巧に作られた人形も効果が高いんだって」
「オカルトに頼るってこと? 期待できないような……」
「そんなこと言ったら紗季の現状が一番オカルトだよ!」
「それは……」
そう言われると否定できない。
新しい病気や変な薬を盛られている可能性はもちろんある。けど、あの夢なのか現実なのかも分からない体験に沿って体の自由が奪われているのも事実だ。むしろ私の体の症状が原因不明の今、一番可能性が高いと言える。だとするとオカルトは決して否定することができない要素となってしまう。
「それとこの人形にはまだ注目ポイントがあるんだけど、どう? わかる?」
「?」
綾香が子供が自慢するように聞いてくる。
注目ポイントと言われても人形に大して詳しくない私が見たところで普通の人形にしか見えない。
強いて挙げるとするなら。
「値段が張る?」
「違うよ! いやそれも正解だけどさ! ほら髪の長さとか顔立ちとか紗季に似てるじゃん!」
「似てる、のかな?」
「似てるよ!」
私にはわからないけど綾香によると似ているらしい。
自分の顔は自分と他人では見え方が違うと聞いたことがあるからそういうものなのかもしれない。
「まったく、この似てるっていうのも重要なんだからね。人と人形をより間違えやすくするから。はぁ、大変だったんだよ紗季に似てる人形を探すの」
「あ、ありがとう……」
「そだ。髪の毛ちょっともらえる?」
「別に良いけど」
綾香は櫛で私の髪を梳く。誰かにやってもらうのは少しくすぐったい。
櫛に絡んだ髪の毛をハンカチで包み、それをカバンから取り出した紐で人形の体に括り付ける。
「それは?」
「体の一部を人形に付けておくと効果が高まるんだって」
「……なんか、色々あるのね」
「本当にね。調べてびっくりしちゃった」
作業を終えると、ベッド横にある棚の上に人形を置いて拝みだした。
「紗季人形さん紗季人形さん。どうか紗季のことをお願いします。紗季を襲う何かから紗季をお助けください」
「…………」
「これで良し! もう大丈夫だよ紗季。何かあっても紗季人形が助けてくれるから!」
「……うん。ありがとう、綾香」
「にひひ!」
「でも人形の名前はちょっとどうかと思うけどね」
「え~!?」
私たちは面会時間が終わるまで色んなことを話して過ごした。
恋愛話で愚痴ったり、好きなテレビ番組でもめ合ったり、それぞれの学校時代でのハプニングに大笑いしたり。六人部屋の病室に一人だったから少し大きな声で話していても咎められなかった。それは一軒家の友達の家に泊まったような、修学旅行の宿泊先で夜遅くまで語り合ったような楽しさがあった。それと同時に、遠くに引っ越してしまう友達との最後の会話のような寂寥感も。
そして、その時間も終わりが来る。
「綾香、もう……」
「そ、それでさぁ最悪なんだよ! 他の仕事がまだあるのに課長がこれもって──」
「綾香」
「やだ! 帰りたくない!」
綾香が子供みたいに叫んで抱き着いてくる。
「もし、もしだよ? 明日になったら紗季が死んじゃうって考えたら帰れないよ! 帰れるわけないよ!!」
「紗季人形が助けてくれるんじゃなかった?」
私は努めて優しく言う。
「あんなのインターネットに載ってたよく分かんない方法だよ!? 信じられるわけないじゃん!」
「それ今ここで言っちゃう?」
私は苦笑いを浮かべた。
感覚の残っている胴体は綾香に抱き着かれて暖かく、綾香が震えてるのがわかった。
「綾香、泣いてるの?」
「……紗季も泣いてるくせに」
「だね」
頬を涙が流れる。
怖くないわけがない。当たり前に続くはずの明日が来るかわからないんだから。
残るは頭か、胴体か。どちらにせよ終わることに違いはない。
でも、だからこそ。その当たり前の明日が続くように、私は笑顔で別れたかった。
だけど、感覚のなくなった私の腕じゃ流れる涙を拭くこともできない。
だから。
「だから、綾香が拭いてくれる? 笑って『また明日』って言いたいから」
「ひぐっ、う゛ん……うん……!」
綾香が私の頬を暖かい両手で包みこんで親指で涙を拭っていく。
私の涙を拭うたびに綾香はボロボロと大粒の涙を流していく。
同じようにしてあげられないのがこんなにもどかしいと感じたのは初めてだった。
笑顔で別れることは出来なそうだけど時間だから言わなければいけない。
私は精一杯の笑みを浮かべて、言った。
「また明日!」
「っ! ま…だ、あじだ……!」
三度目の夜が来る。
「────!?」
目が覚めて私は思わず叫んでしまった。もちろん声は出ない。
動かない体をなんとか動かして『それ』をどかそうともした。けれど叶わない。
私は恐怖のあまり、どうしても『それ」を視界から外したかった。
周囲がわかる程度の暗闇の中、私の眼前には異形なおじいさんの顔があったから。
(な、なんなの……その顔…!)
これまで不自然に陰のかかっていたおじいさんの顔が初めてはっきりと見えた。
年季の入ったしわくちゃな肌。
平べったい鼻に短い無精ひげ。
そして、おかしかったのが、異形だと思ってしまうほど不気味だったのが目と口だ。
暗闇だった。
目は瞳だけでなく眼窩と呼ばれる範囲全てが底の見えない穴のような黒よりも深い暗闇が覆っていた。
口は醜く三日月型に歪んでいて、その口の中は目同様、気味の悪い暗闇が広がっていた。
おじいさんの顔を見ているだけで不安がとめどなく噴き上がってくる。
「いい。いいなぁ。あごの形も、目の形も、鼻の形も。素晴らしい」
おじいさんがゆっくりと私の顔に触れる。
頬。
鼻。
唇。
もしかしたら耳やあごも触っていたかもしれない。
けれど、私にはどれ一つ触られている感覚がなかった。鏡を見ればきっと私の頭は既に人形のそれに変わっているはずだ。
つまり、おじいさんの目的は私の頭だった。
「これはとても良い人形が作れそうだ。瞳もこんなに綺麗で」
呼吸が乱れる。おじいさんの次の行動を理解して。
感覚がないことはわかっていても、目にゆっくりと伸ばされる指に人としての本能が悲鳴をあげる。
(うそ……いや、嫌だ! やめて! やめ──)
心臓が止まるかと思った。
おじいさんの指がすうっと私の眼球を撫でる。感覚はなかった。それでも生きた心地がしなかった。顔をぐしゃぐしゃにして泣きたいのに人形の顔が許さない。
感覚がないのが唯一の救い? そんなわけない。むしろ地獄だ。触られているのに正常な感覚が返ってこないことが視界に入る情報との矛盾で頭がおかしくなる。まぶたを閉じて何も見たくないのに全てを強制的に見せられてしまう。
(もう嫌、やめて! 触らないで! お願いだから……持っていくなら早く、終わって……!)
祈りなんてまったく届かなくておじいさんは念入りに私の顔を調べていく。
眼球を直接触られるごとに心臓が止まる思いだった。
暗闇の眼窩と常に目が合って不気味さと恐怖で精神がすり減っていった。
頭を好きなように弄られていることを想像すると嫌悪感で内臓の一つ一つが別の生き物のように動いている感覚がして気持ち悪くなる。
そうして、検分のような接触が永遠に続くのではないかと思った時だった。
おじいさんがふと視線を私から別のものに移した。私の視界では何に興味を移されたのかは分からなかったけど、どうやら綾香に渡された人形を見ているみたいだ。
数十秒か数分か。おじいさんがそのまま固まっていると、独り言ではない、誰かに語り掛ける調子で呟く。
「……そうだねぇ。友達は大切にしないとねぇ」
その声を聞いて私は耳を疑った。
これまでの不快で欲望の混じった雰囲気は一切なく、他者を慈しむ優しい声色に変わっていたからだ。
さっきまでは早く死なせてほしいとさえ思っていたのに、私はその声色に誰かが傍で見守ってくれているような安心感がして、突然の睡魔に襲われる。不安と恐怖で押しつぶされそうになっていた心は何故かすっかり落ち着いてた。
おじいさんは私の方に向き直して顔から手を離した。
意識がだんだんと暖かい暗闇の底に沈んでいく。危機感はなかった。きっともう大丈夫だ、当たり前の明日がやってくるんだと根拠のない確信があった。
私は睡魔に負けながら、それでもおじいさんの最後の言葉がしっかりと聞こえた。
「友達は大切にするんだよ」
意識を失う寸前見えたのは、好々爺と呼ぶべき優しいおじいさんの笑顔だった。
◆
翌日。
朝起きると体は元通りに動かせるようになっていました。むしろ入院する前より軽いぐらいでした。ふと綾香からもらった人形を見てみると、私の身代わりになったかのように頭と四肢がもぎ取られ、胴体だけの状態となった無残な姿があり、その不気味さに全身に鳥肌が立つのと同時に感謝を感じました。
体が元に戻ったとは言っても医者としては念のためということで数日入院することになりましたが問題はなく、何故か検査の結果は健康すぎるくらいに正常な数値に改善していて医者は頭をひねるばかり。真剣に考えてくれているのが少し申し訳なくなりました。
退院間近、私はあの三日間に起きていたことを医者と看護師に話してみることにしました。内容が内容だけに笑われるかもと思いましたが、医者と看護師は一笑に付すことなく顔を見合わせてこんなことを教えてくれました。
私が入院する前に著名な人形師がこの病院で亡くなったこと。
亡くなるまで入院している子供たちの人形を治していた優しいおじいさんだったこと。
そのおじいさんが入院していた病室が私と同じ病室だったこと。
医者は、そのおじいさんがもしかしたら悪いところを治してくれたのかもね、と笑っていましたが素直に頷くことはできませんでした。
あの顔を見てしまったから。
声を聞いてしまったから。
眼窩と口の中が底のない穴のように暗闇で塗りつぶされたあの顔を。
優しさの欠片も感じさせない不快な欲にまみれたあの声を。
もし綾香から人形を渡されていなかったら私はどうなっていたのか。これは推測することしかできませんが、今この場にいられなかったのではないかと思います。私の前に現れた人形師の霊は明らかに良い霊には見えませんでした。
そして、結局のところあの人形師のおじいさんが何をしたかったのかは誰にもわかりません。
優しいと言われていたおじいさんが何故あのような姿になってしまったのか。
人の体を人形にしてどうする気だったのか。
今もあの病室に留まっているのか。
その答えを知っているのはきっと人形師のおじいさんだけなのでしょう。
ネタが思い浮かんで書き始めた当初は日本特有の精神的に来る作品を書きたかったんだけど、書いてるうちにだんだん違くなってる気がしてました……(汗
自分が書きたいイメージを実際に書けるようになるにはまだ難しいです!
書いている自分としては書いていて怖いのかどうか分からなかったけど(頭の中では怖い)、一人でも鳥肌の一つでも立ってくれたら嬉しいです。