96話 豊穣楽土②
総合病院の近所にある人気コーヒー店は、昼日中から満席状態だった。
それでも回転率は高いようで、五分ほどの待ちでテーブル席につくことが出来た。
喫煙者ならここで安堵の一服をするのだろうが、そもそもこの席は喫煙ブースではない。
もっとも織田信長は、端から「吸う人間」では無かったので、そんな欲求とは無縁だった。ただ、空腹は満たしたかった。
運ばれたコップの水に口をつけ、店員の立ち去る前に、
「モーニング二つ」
と即座に注文する。
向かい合った竹中半兵衛ちゃんは、否応もなくうなづくしかなかった。
「半兵衛ちゃん。オレ、やっぱ地球に帰るわ」
「ダメですよ、ここまで来といて」
「しかしな」
岐阜と大坂表の情勢が気になるからと、理由付けした。
無論、取ってつけた言い訳である。
モーニングを平らげ、さっさと支払いを済ますと、考える余地を与えず、半兵衛ちゃんは信長を引っ張り、病院の門をくぐらせた。彼女にはもうすでに通い慣れたルートだった。
「さ、信長さま。病室に着きましたよ。深呼吸して覚悟を決めてください」
「半兵衛ちゃん」
「なんですか?」
「降格させるぞ」
「ご自由に」
「半兵衛ちゃん」
「まだ、何か?」
「……ありがとな」
信長は入口にかかるネームプレートを指でなぞり、はじいた。
スライドドアの向こうは四名収容の大部屋だった。
昼前なのでベットまわりのカーテンはすべて解放されている。
手前二つのベットは使われていなかったが、奥の患者二人の談義する声が、掛けっぱなしになっているテレビの音量よりも大きく、病室内を騒がしていた。
イカスルメルの高度文明について賛否の論じ合い……らしい。どうでもいい話題だ。
それが、入室した信長を認めたことで、ピタリと止んだ。
「織田信長。唐突だな」
「長政よう、具合はどうだ?」
互いに一言ずつ。そのまま時が停まったようになる。
ペコリと一礼した半兵衛ちゃん、見舞いの果物をベット横のチェストに置き、横のイスに腰かけた。だがそれ以上は何もしない。仲介などしない。ポーカーフェイスを決め込み、静観する構えである。
浅井長政は、半兵衛ちゃんの態度に含み笑いし、入口に突っ立ったままの信長を手招いた。
向かい側のベットにいるのは、浅井久政。彼は渋いカオをしている。
信長は躊躇した。やや後悔の念がよぎった。
来るんじゃなかったか、と。
「鉄砲弾の当たったところな、もう痛かねぇよ。オメエの信忠が気にしてんだったら、そう報告してやれや」
「いや。……いろいろ済まなかった」
「おいおい、謝るなよ! お互いさまじゃねぇか! いわゆる戦国の倣いってヤツだ」
「そりやそうだが」
ぎくしゃくした空気だったが、久政のカオが緩んだ。
華子が着替えをもって現れたのだ。
「まあ、信長さん。今日でしたっけ?」
「あ、いや。明日だったが繰り上げた。アポなしだ。スマン」
「なんだ、華子、お前人が悪いぞ」
「なぜですか?」
「信長が来る事自体は知っていたということじゃろ? ナゼ言わんかった?」
「久政さま。お言葉ですが、申し上げればまた前みたいに病院から消えるでしょう?」
「それは……」
ハハハと大笑いする長政。
ベットから身を上げた彼は、信長の横をすり抜けながら、
「ちょっと話ししようぜ」
と彼を誘った。
「あぁ」
廊下に出ようとしたところで、万福丸とすれ違う。
「あっ。織田信長?!」
「ここじゃ呼び捨てすんな。『さん』付けしろ」
「信長さん」
「そうだ。おじいさまなら中に居るぞ」
「はいっ」
考え込んだ信長を促し肩を並べて歩く。
「……気になっているのか? あの子はさっきの娘の子だ。市の子じゃねぇぜ?」
「あ、い、いや。そ、そうか。そうだよな! もう随分大きいもんな」
強張る頬が少しだけ緩んだ。
「もうひとつ言っておく。地球に残した三姉妹のことだ」
「茶々、初、お江か」
「あの子らも、お市の子じゃねぇ」
え? と信長が立ち止まる。茫然とする。
「……違うのか?」
「あの子らはかつて清水谷に住んでいた戦災孤児たちだ。市が拾って育ててたんだ」
「……安心したか?」
「あ、い、いや」
待合所の自販機でコーヒーを買い、信長に投げる。
「ほらよ」
「――っと。熱っち」
「ここ、座れよ」
肩をつかみ、ムリヤリ長椅子に腰かけさせる。
横並びに長政もドッカと座る。
「信長よぉ。オレはよ。お前のそういう鈍いところが――」
「言うな、分かってるさ。自分でも」
十数える間ほど、信長を睨んでいた長政は、グイと缶を飲み干し、
「今日わざわざ来たのは、何の用だ? 入院とか、手術とか、生活費とか、オメエには色々面倒見てもらってるが、そのお礼を言って欲しいのか?」
「はぁ? そんなんじゃねぇ」
「じゃあ、何だよ。言ってみろよ?」
夜診の受付にはまだ大分早い時間だが、待合所はまばらに混み始めた。
辛抱強く信長の言葉を待っていた長政は所在ない心持ちになり、立ち上がりかけた。
その時になってやっと信長の重い口が開いた。
「長政」
「なんだ?」
「パスワードを教えてくれ」
眉をしかめる長政。
感情の揺らぎではない。
中途半端に立った姿勢をとったために腹部に激痛が走ったのである。
歩行器に捕まり、何とか転倒をまぬがれた。
「急に言い出すなよ。なんだ、そのことか」
「わ、悪い。でも思い詰めてんだ」
【コールドスリープ】などという突飛な装置で眠るお市を起こすためには、開錠用のパスワードが必要だった。
真っ先に半兵衛ちゃんを問い詰めたのだが、知らないの一点張り。
あの手この手で随分追及したが彼女の態度は変わらず、本当に知らないのだと思い始めた。
「市を起こすためか……」
「間違ったパスワードを入力したら手動開錠は二度と出来なくなるらしい。何度トリセツを見てもそう書いてあるし、メーカーに問い合わせても答えは同じだった。――頼む。協力してくれ」
長政は首をうなだれさせて悩む風であったが、やがてこう答えた。
「信長。オマエ、お市から何か渡されたものがあるか?」
「渡されたもの?」
お土産のフランスパン?
「そーゆーんじゃねぇ。そのカラクリ装置に入る前に受け取ったモンだ。何か無かったか?」
「えー……と、これ……か?」
小さな布袋。
「だがな。これにはオモチャのカギしか入って無かったぞ?」
当然ながらコールドスリープにはカギは使わない。ましてはこれはオモチャだ。
からかわれたのかと気色ばんだ信長に、長政が見せたもの。
信長のものと同じく、小さな布袋。
「そ、それは!?」
「中身はメモ紙だ。『わたしの好きな人』と書いてあった」




