78話 兄・信長包囲網⑨ 反旗の比叡山
― 兄・信長 ―
――元亀元年(1570年)9月24日。
織田軍3万は天満ケ森の陣を払うと淀川を越え、京を経つ一気に近江に到る。
信長の神速ぶりに驚いた朝倉義景は、坂本で急に足を止め、そのまま比叡山に登って重層陣地を築いてしまった。浅井長政は、姉川の戦いでのリベンジを果たそうと主張したが意見は折り合わず、結局集結した一向勢を連れだって登山し、朝倉と同様に持久戦の構えを整えた。
大軍での一気呵成による撃破を試みようとした信長は完全に肩透かしを喰らった。姉川の戦いで行ったような短期決戦を望んでいた彼だったが、浅井・朝倉の陣容を視察し即座に断念した。
「チッ長政め。ビビリやがって」
「いえ。どちらかというと朝倉義景の思惑のようです」
「そーなんだ、分るわぁ。浅井にとっては領国内を踏み荒らされてる紛争だけど、朝倉は遠い土地での《他人事紛争》だもんね、冷静な判断は義景がしているわけね」
信長は敵方のいる山麓を忌々しげに睨んでいたが、やがて参謀格の丹羽五郎左と松永弾正に向き直り、
「叡山延暦寺の坊さんたちを連れてこい。オレが説教してやる」
◇ ◇ ― ◆◆ ― ◇ ◇
延暦寺の僧らは信長の前で縮こまっていた。彼らからしたら有難迷惑な話である。
「オレの故郷にもお坊さんはいるが、みんな一様に親切だぞ。それに人の困る行いはしないように充分な教育もされてる。ところがお前らはどうなんだ?」
信長が頭ごなしにいきなり無礼な質問を投げつけると、僧の中の代表格と思しき男が、さすがにムッとしたカオで言い返した。
「ワシらには敵も味方もござらぬ。強いて言えば、理不尽極まりない者や、強権を笠に着てムリを通そうとする輩には一切手を貸さないよう、よくよく教育を受けており申す」
「フーン。……オレはな、ただ交渉がしたいんだ。オマエたちがまず、武装解除していったん山を下りてきてくれれば、それでいい」
「交渉? それでワシらになんのメリットがあるというんじゃ」
バネのような肢体を躍らせた信長は、周囲の制止をする間もなく首班の僧に近寄り、
「外来語使いやがって、オマエ、イカスルメル星人か? どっちでもいいけどよ? ……そーだな、オマエらの有する領地、権益のすべてを保証してやるよ。そーゆー条件でどーだ?」
「……そのような条件を提示する代わりに、浅井・朝倉を見捨てよと? 彼らを置きざりにして、そっと下山しろと? ……では反対に、浅井・朝倉に味方すると言えば、織田は叡山をどう処置なされるおつもりか?」
「回りくどい聞き方をするなぁ。これだよ」
信長が指した先には黒い幕が張られていたが、それがサッとめくられると、そこには数十機のドローンがびっちりと並べられていた。
「こいつら全機に火炎瓶をぶら下げて飛ばし、上空から山に落とす」
「なっ?」
「山ごと、奴らともどもオマエらを焼き尽くす。山を火の海に変えてやる」
「く……」
「ところでよオマエら。山の上でいったいナニやってんだ? いろいろウワサは聞くぞ? この、破戒坊主ども」
僧らは息をのんだ。信長の目に飲まれそうになった首班は、歯をぎりぎり言わせたまま頭を垂れた。
「信長ちゃんはよーするに、イエスかノーかを聞いているのよ? ノーならば」
松永弾正は、抜き放った刀をぎらつかせ、主格の僧の首にそれを当てがった。
「猶予を頂きたい。しばしの猶予を」
「期限は?」
「三日、いや二日後に」
「明後日ね」
◇ ◇ ― ◆◆ ― ◇ ◇
「こんなんで良かったのか。ちょっと高圧的過ぎたんじゃねーか?」
「『まさかそんなことをするはずがない』そう思われたら負けなのよ? 『ヤバいかも知れない。ホンキかも知れない』そー思わせなきゃ、ヤツらは動かないわ」
◇ ◇ ― ◆◆ ― ◇ ◇
かがり火が盛り狂う中、浅井長政と数人の武将らが朝倉の陣中に現れた。彼らの真意をただすためである。
奥院の広間に陣取って畳を敷き、そこに寝そべりながら月空を眺めていた朝倉義景は、長政を見つけると手招きし、「今晩は冷えるな」と明るく語りかけた。
「義景兄。グズグズしていてはすぐに雪が降り出します。進退極まりない事態になる前に雌雄を決するべきだと思いますが」
「焦らなくても勝手に信長の方から下手を出してくるって」
「……何か作戦でも?」
徳利を傾けた義景に、おちょこを差し出した長政は小さく「えっ」と声を上げた。ささやきに反応したためだ。
「……うちの市が?」
「堅田の湖族衆を使って織田を誘き出しているらしい。のこのこと出張って来たところを我が軍で一気に叩く」
「うまく行きますかね?」
「さぁ。運次第だろうね。あとは足利将軍がどう上手に後方攪乱してくれるかだけど、これはどちらかというと本願寺次第かな」
注がれた杯をグッと空けた長政はちょこを返し、注いだ。かがりの炎が二人の網膜に赤く映っている。ちびりと口をつけると、義景が息を吐く。
「本願寺顕如を通じて伊勢長島の一向衆も働きかけ蜂起させたとの事。いよいよ信長は終わりだ。市どの、かなりやるよね」
「ははあ、そうですか」
「何が彼女をそこまでさせているのかと思うよ」
「さぁ。どうでしょうか」
そっぽを向き、あぐらになった長政は、手酌で自分の杯に注ぎ始めた。
「ここで武田が動いてくれると、ますます頼もしいのだがね」
「それは他力本願にすぎますね」
「妙に噛みつくじゃないか」
「そんなことありませんよ」
運ばれてきた追加の徳利を独り占めする長政。しかたなく義景は、ふたたび月夜に目を転じた。月下、煌々とした境内に紅葉が舞うのがしみじみとした風景画のように思われた。
「……お市どの、いわゆるデキル女じゃそーな」
「それ、ダレが言ってました?」
「いや。ご本人が」
「アイツらしい」
とうとうラッパ飲みし出した長政のひざ元には、既に3本ほど、空の徳利が転がっている。月が雲に隠れ、あたりが暗闇に沈んだ。瞬時に二人の表情も黒に染まった。
◇ ◇ ― ◆◆ ― ◇ ◇
約束の期限を過ぎたが、信長のもとに、比叡山からの返事は届かなかった。すなわちそれは、彼らが反織田の旗幟を鮮明にした意思表示でもあった。
1570年(元亀元年)9月。
織田信長とその一党は、四つ足を縛られて暴れ猛る、孤虎のような状態に陥った。織田の将士は誰もが、垓下で四面楚歌を聞く項羽軍の末路を頭によぎらせたのだった。




