55話 兄も、妹も。⑧ 乱れた想い
― 兄・信長 ―
なぜ? どうしてあの時もっと妹の話を聞いてやらなかったのか? などと言う生易しい慙愧の念を凌駕して、あるおぞましい、陰鬱な妄心が、拭っても拭っても脳内にまとわりついた。
たとえばそれは、妹を羽交い締めにする大きな両の腕。その横顔に密着する、無骨な頬。嫌がるそぶりもなく、それを受け入れている妹の、艶かしくも熱い眼差し。類する愚劣な想像。
「ボクは病気なのか?」
ふたりに対するドス黒い情念が、ボクの心を汚し、乱れさせる。間違いであって欲しい。そう念じつつも、胸の中の大部分はとうの昔に諦めに支配されていた。嫉妬じゃない。だって、アイツは妹なんだから。強いて言えば、それは、例えようのない怒り。焦燥感、悲壮感に近い感情か。
腰の刀を抜いたボクは、群生する枝木を片っ端から斬りまくった。もはや自分で自分が理解できない。
「丹羽くん。秀吉」
「は。これに」
幔幕のすぐ裏で様子をうかがっていたのか、ボクの目の前に拝跪するのに三秒とかからなかった。コイツら人が悪いな。いや忠義者と解釈しよう。
「お前ら。知ってたのか?」
「何を? でござる?」
「あのなぁ。この期に及んでまで、しらばっくれんな」
「お市さまでございますな。……無論。心配かけたくないから黙っておいてくれと。ただ、イカスルメルに帰ろうとしているのは事実でございまするに」
このォ、サルめぇ。いけしゃあしゃあとぬかしやがって。グーパンチをお見舞いしてやろうか? と思ったがヤメた。どーせまた避けられる。結果、不愉快しか残らん。それに倫理に引っかかるか。
「つまり。お前らとグルになって、市はボクを騙してたんだな? アイツは、ボクを裏切って浅井長政とランデヴーしようとしてたんだな? そーゆーコトだな?」
「信長旦那。それは飛躍しすぎでござるよ?」
ムカッ。
丹羽くんを見ると失笑している。ますますムカムカッ。ちっとは目上に気ィ使えよ!
「そこっ、丹羽くんっ! 笑うなっ。ボクはいたって真剣なんだ」
「あ、いや。殿があまりに純情少年っぽかったので。誠に申し訳ありません。マジメに申せば、お市さまも年頃になったということです」
「何だと?」
「いつまでも兄の後ろに付いて行く、お子のままではありませぬ」
分かった風な。
「……サル。目障りなドローンを落とせ」
「えっ? よろしいので? 契約違反では?」
「もう充分だ。今日の出来事で最高記録更新してんだろ。これ以上、恥を積み上げんな。ウーチューバー稼業は今日限りでお終いだ」
トーゼンだがボクの目的は別にある。
妹たちにボクの動向を知られないようにするためだ。こういう時でさえ、しょーもない気を回せるようになったのは、《織田信長》を本気で生きだしてからだろうな。
「楽しくねぇなー」
「と言いますと?」
「いや。なんでもない。早くしろ」
ドローン撮影機の破壊を見届けたボクは本陣の自席に戻り、部将衆を眺め直した。小雨が降り出したので皆一様に顔中、水滴でベトベトにしている。これが織田軍の現在の状況を物語っているように思えてならなかった。ボクは密かに自嘲の笑いをこらえた。何故ならボクだって多分、コイツら以上に、そんな情けない面を晒しているのだろうから。
「織田家バンザイ」
つい独り言をこぼした。佐久間が聞きとがめた。
「ほうほう? バンザイとはいったいどういうご了見で? 桶狭間の再来を狙っていると? だったらワシも、バンザーイ。ほれ、皆の衆も。バンザーイ」
「スマン。とにかく黙っててくれ。ポロリと出た贅言だ。気にすんな」
座についていた丹羽くんがツイと腰を上げた。あらたまって告げる。
「聞いてください。既にお気づきと思いますが、近江の浅井家が朝倉方に寝返りました。我が織田軍三万は向背を塞がれた恰好になります」
「前門の虎、後門の狼というのでござるな! キキッ」
秀吉がしゃべると、どーでもいい気分が増すな。丹羽くんのセリフが台無しだ。猛者に交じる猿一匹。
「どーすりゃいいと思う? 意見とか知恵のあるヤツ?」
ザワつく一同。佐久間なんてポカンとしている。ボクが衆議に諮るなんて、皆無に近いからな。しゃー無しなんだよ。悪いがアタマが回んねぇんだ。
ここでボクに任せりゃ、どーなるか言ってやろう。ためらいなく小谷城を急襲するだろうな。むろん全軍挙げてな。これは間違いなく。
勝家が手を挙げた。
「このまま朝倉の一乗谷を落とし、そこを織田の新たな本拠としましょう。ワシがすべて引き受けます」
「兵站はどーすんだ? はい却下」
「わたし、オトリになります。その隙に撤退してください」
光秀が挙手した。
その横で秀吉と、最近仲間になった摂津国守護の池田勝正も、それぞれ手を挙げている。
「拙者らが明智殿とともに尻を持ちますわ!」
コイツらは逃げようと言ってるんだ。自分たちが人身御供になるからと。丹羽くんが秀吉にうなづいている。実はさっき幔幕の外で丹羽くんと秀吉が示し合わせ、ボクがオーケーしたシナリオなのだ。光秀と池田勝正には、予め二人が根回ししていたというわけ。あえて話し合いの形をとったのは皆を一丸とさせるため、総崩れを防ぐためだった。
秀吉は言ったんだ。
「信長旦那にも、拙者にもすでに家族があります。他の者も同じでござる」と。
誰一人、織田の者を不幸にさせちゃならんと熱弁されたわけだ。サルもずいぶん成長しやがった。同意したボクもだけどな!
さらに、ゆっくりした動作で床机から立ち上がった男がいた。
松永弾正だ。
「逃亡ルートについては、こっちで何とかしてアゲル。わたしに任せなさい」
ウインクされたボクは、鳥肌の立った両の二の腕をさすった。




