「闇と光」
世界全体から色という観念が払われ、すべてが漂白されたように、目の前には真っ白な世界だけが広がっている。
ここがどこなのかも皆目わからない。生きているのかも、死んでいるのかもはっきりしない。ただ、一つだけ言えることは、ここはかつて自分が暮らしていたあの世界ではない、ということだけだった。
どうしてこうなってしまったのだろう。ぼんやりとする頭の中で、大河はこれまでの記憶をただ手繰り寄せていく。
自分が所属していたサッカー部の友人に虚偽の事実を吹聴され、大河は退部せざるを得なくなってしまった。
そうだ、全部あいつが悪いんじゃないか。いや、あいつだけではない。噂に踊らされる部員たち、見て見ぬふり事なかれの教師たち。そのすべてが憎く、醜悪に思えた。
人間が、世界が、滅びゆく光景を夢想し始めたのはいつからだったか。魔物と対峙している時も――今から考えれば、何のために、誰のために戦っているのかさえ自分でもよくわからなかった。わかろうとしなかっただけかもしれない。
己は、世界の破滅を望んでいたのではなかったのか?
わからない、何もかも。
目を伏せ、思案に耽るも、一向に答えは頭を出さない。
――大河くん、大河くん!
――誰だよ、俺を呼ぶのは。
――大丈夫だよ、私がいるよ。だから、君は一人じゃないんだよ。
ふと目を上げると、すぐ目の前に背の低いポニーテールの少女――好桃が佇んでいた。彼女の服の白色は背景に溶け込み、判然としない。だが、彼女の緑がかった瞳の色だけくっきりと見えた。
「……お前、どうして……」
好桃は何も言わず、さらに一歩、一歩とこちらに近寄ってきた。眼前で立ち止まると、少し頬を染めて気恥ずかしそうに俯いてから、両手で優しく大河の手をとった。その手が、先ほどと同様、妙に温かったので思わず身震いしてしまう。
大河は、何も言えなかった。
向こうもそれきり黙っている。
ようやく大河も落ち着きを取り戻しつつ、彼女の目を見ながらどうにか言葉を発した。
「……好桃、どうしてここに? まさか、お前も魔物に襲われて……?」
しかし、好桃はゆっくり首を横に振った。
「違うよ。ジカルちゃんがね、大河くんが駐車所のところに倒れてるのを見つけてくれて、それを私に知らせてくれたんだ。それで、急いで手当をして……私の回復魔法じゃ頼りないかもって思ったんだけど、どうしても君を助けたくて……」
好桃はここで一旦言葉を切り、彼女の頬を一筋の涙が伝った。それは水飴のように二人の足許に滴り落ちて、どこが境界なのかもわからない白い地面に溶け込むようにして消えた。
「それで、傷は塞がったんだけど、大河くんが目を開けてくれないから、このまま目覚めなかったらどうしようって……私、すごく不安になって……そうしたら、ジカルちゃんが大河くんの夢の中に送ってくれるって言うから……」
「夢……? 俺は、死んでないのか?」
「うん、大丈夫、生きてる。ほら、こうすると……あったかいでしょう?」
好桃は、より強く大河の手を握りしめた。そして、さらに言葉を続ける。
「私も、知ってるよ。大河くん、本当はこんなことしたくないんだってことくらい。この世界が滅びるのを願ってもない。いつもなかなか素直になってくれないけど……、優しいもん。私にだけじゃない。みんなにだって、平等に優しい」
「……そんなことない。俺はお前が思ってるほど、心が浄化された人間じゃない。人の不幸を願ってしまうような、冷酷な人間なんだ」
大河が否定すると、好桃はいっそう強く頭を振った。
「そんなことない。大河くん、あんなに必死でこの世界を守るために戦ってくれてた。だから……」
好桃から、次々に涙が零れ落ちる。それを見ているほど、胸に針で肺を縫われているような痛みが迸る。大河は目を閉じた。
どうして、彼女はこんなにも素直なのだろうか。自分とは、何かが違う。それだけは明瞭だと思えた。それでいて、安心感もある。このまま二人で、この何もない世界に留まっていたいとすら考えてしまう。このままこの夢の中で、外の世界からのすべての刺激を一切受けずに。そうすれば、嘘も裏切りも、苦悩も何もない。
あらゆる邪悪なものから、解放されたい。自由になりたい。
ただ、好桃の手から大河の手へと伝わる熱が、彼をそんな心持ちにさせていたのだった。そんな中、好桃はまた、語りかけるような口調で囁く。
「……戻ろう。すべてを、終わらせるために」
大河は瞼を上げて、再び彼女と目を合わせる。好桃は頬をいくつもの水滴で濡らしながら、こちらに向かって微笑んでいる。それが、小さい頃から自分に甘えてばかりだった彼女とは、まるで別人のように見えた。ただ、そこに強さが居据わっていた。強がりとは明らかに違う、決然たる強さが。
――彼女がついているなら、まだ戦える。
不意にそんな言葉が、停まっていた思考のうちに閃いた。
「……あぁ、戻ろう」
無意識に口をついて出た言葉は、自分でもわかるほどに明朗たる響きを持っていた。好桃もまたにっこり笑って、大きく頷いた。そして、大河の手を握ったまま、彼の胸に顔を埋めた。大河も自由な片方の手を好桃の背中に回し、そっとそれを受け止めた。
まだ、やれることはあるはず。何故か、そんなことを前向きに考えることができた。それは好桃がいてくれたからか、自ずから決断したのかわからないが、多分前者だろうと思う。まだ世界が崩壊すると決まったわけじゃない、彼女がいてくれるなら――。
二人を包んでいた白い背景がより濃くなり、大河の視界にさらに光が満ち、再び意識が雲に入ったように薄れていき、好桃の姿さえ見えなくなっていったのはそれから数秒と経たぬうちのことであった。
***
ふと意識が戻ると、今度は打って変わって暗闇だった。それも、すぐに瞼を閉じているからだと悟り、大河はゆっくり目を開けていった。白い光が、切迫したような勢いで黒い部屋の中へと射し込んでくる。
今まで、仰向けで寝ていたのだ。真上の空は青紫色に澄み、少し下に視線をずらせば向こうの山肌が薄いオレンジ色に染まりつつあった。朝陽が、山峡から今にも顔を出さんとしているのがわかる。
痛みは全くない。しかし、臍から両太腿のあたりにかけてやや圧迫感がある。視線を自分の腹の近くに転じると、誰かが自分に覆い被さっていた。
好桃は大河の脇腹のあたりから、うつ伏せに覆いかぶさるように眠っている。
大河はそっと上体を起こした。すると好桃も目を開け、まだ眠たそうに両目をこすりながらもぞもぞと起き上がると、大河の方を見た。両者は目が合い、しばらく見つめ合った。
「あ……っ、大河くん、おはよう」
好桃は目を丸くし、他にかけるべき言葉が浮かばないというふうな仕草で、あたふたと言った。大河も頬を少し歪ませ、それを笑って受け止めた。好桃もそれを見て、調子を取り戻したように笑った。
それからすぐ、ふと大河は好桃の背後に佇む一人の影を認めた。黒色のワンピースが朝陽によって白々と照らされ、両腕には真白い毛並みのつややかな猫を抱えている。それが【ツインクル・テール】だとわかると、大河はジカルに声をかけた。
「……そいつ、無事だったのか?」
好桃も大河の視線を追うように後ろを振り返り、「あっ、ジカルちゃん!」と驚きつつも嬉しさを湛えたような声で言った。
「空間離脱で魔物の手を自力で逃れ、草叢に潜んでいたところを保護した」
ジカルの声には相変わらず抑揚がなく、感情がこもっていない。しかし大河にはそれが妙に懐かしく思われた。
「ご苦労だったな」
大河は腰を浮かせて傷口が塞がっていることを再確認すると、立ち上がった。その時、誰かに右腕を引っ張られた。見ると、両膝をついた状態で、好桃が両手で大河の腕を掴んでいる。その目は心配そうに、それでいてどこか物憂げに揺れている。
「駄目だよ、まだ完全に回復しきってない」
ここまで自分のことを慮ってくれる好桃のことを、大河はわからなくなりそうだった。だが彼女の心遣いが嫌だったわけでは無論ない。それ故に、一刻もはやく片を付けねばならない。
大河は優しく好桃の手に触れた。
「大丈夫だから。お前は何も気にしなくていい」
そう言ってやると、好桃は躊躇いがちに手を離し、再び座り込んだ。そのまま放心したように黙り込んでいる。
次に、大河はジカルの方へと歩み寄った。ジカルは依然として、その場を動かずに超然と佇んでいる。腕の中の白猫も、黙ってじっと大河の顔を見つめたまま、まるで巧妙に作られた置物のように身動き一つしない。
「魔物の居場所、わかるか?」
「近くに気配はない」
そこで、大河はジカルのさらに後ろに仰向けに倒れている者の存在に気づいた。大河は咄嗟に駆け出し、目眩を起こしたように一瞬地面が歪んだが、そこへ辿り着くと、その人物の顔を覗き込んで確かめた。桃山である。
大河は彼の胸に片耳を当てた。遠くから、微かに何かが脈動する音が聞こえる。生きているのだとわかると、大河は今までにないような安堵感とともに胸を撫で下ろした。
立ち上がると、後ろを振り返って、好桃に問う。
「こいつも、お前が治したのか?」
「う……うん」
好桃は頷きながら、それだけ答えた。続いて、ジカルが代弁するようにこう説明を加えた。
「魔物の気配を辿って我々がここに来た時には、すでに魔物の姿は見えず、お前とこの者だけが倒れていた。身体の一部が激しく破損していたが、いずれも幸いまだ息はあったので、治癒魔法で傷を塞いだたけのこと」
ジカルのこの言葉に偽りはないと見える。その証として、大河の意識は依然として朧気で、貧血を起こしたように頭がくらくらする。足も、まるで空気が抜けたように軽く、違和感は拭えない。ただ、なんとか立てるくらいには体力は回復しているようだ。
大河は地面を殊更踏みしめながら、ジカルに近づいた。腕の中の猫が、羽毛のような純白の毛並みの両耳をピンと立てた。大河は立ち止まり、眼前の白猫をじっと見つめた。猫も水色の両目を見開いて、好奇心旺盛の子どものような眼差しで、大河の目を見つめ返してくる。
「……魔物は?」
大河は口を開いた。それに対し、白猫は頭上のジカルの顔色を窺うように、静かに答えた。
『はい。先ほどから気配がないので、おそらくこの近くにはいないと思われます』
「この世界に散らばった魔物は、もう大丈夫なのか」
『はい。【魔界門】のところまで辿り着くことさえできれば、すぐにでも、すべての魔物を魔界へ連れ戻すことができます』
大河は身をかえし、横たわっている桃山のところまで戻ると、意識が回復していない彼の腕を引っ張って無理やり身体を起こさせ、そのまま肩に担ぎ上げた。
「大河くん、何する気っ?」
好桃が、驚きと不安を入り混じらせたような声を出す。
大河は眠っている桃山を背負いながら、
「山頂に戻るぞ」
と、伝えた。
それで、好桃は大河の意思を察したように、顔を青ざめさせた。
「も……もうちょっと明るくなってからにしようよ」
「もう時間がない。行くのが嫌なら、お前はそこで待ってろ」
この事態を早く収束させなければ。その焦りが、渦となって、さらに激しく彼の心を戒めていた。
朝陽が淡く射している脇の小道から、再び山の頂上に向かって大河は歩き出した。その一歩を引き止めるように、彼の爪先に何かが触れた。視線を地面に落とすと、朝陽の反映によって勇壮と美しさを最大限にまで湛えている純白の剣があった。大河はそれを拾い上げると、格納呪文を唱えた。するとその白剣は瞬く間に輝き出し、優しい光の蔓をうねらせながら、大河の右腕に吸い込まれていった。
大河は、再び歩き始めた。その後ろから、二人分の小さな足音が響いてくる。しかし大河は敢えて振り返らなかった。ただ一点だけを見据え、山を登っていく。そこに、これまでよりも段違いに明瞭となった目的があった。
何があっても、彼女たちを守るのだ。己の命に変えても、必ず守り通すのだ。その決意を誇示するかのように、背に預かっている桃山を落とさないように心持ち胸を上げて、梢を吹き抜ける風の音、小鳥のさえずり、そして仲間の足音、それらを聞き分けてかつ聞き漏らさないよう、警戒心をいっそう尖らせて歩くのだった。
サブタイトル考えるのが面倒くさくなってきた・・・。
予定では、あと三話で完結です。来月中には必ず終わらせます。