「さらば世界よ」
魔物を追い駆け、森の中に飛び込んだ大河は、木がいたるところに根を張り巡らせている道なき道を、速度を緩めることなく突っ走っていた。
近くから、魔物の甲高い咆哮が頻りに轟いてくる。この近くだ。大河は勘と感覚を頼りに、周囲を警戒しながら足を進める。
やがて、道がいったん終わるのがわかった。山の一部から草木が毟り取られたような、少し拓けた場所に出る。
しかし、目の前には紅の両眼があった。正確な距離は定かではないが、その双眸がギョロッとこちらを見つめていることだけはわかる。暗闇の中、大河は剣を構えた。
一泊置いて、その紅眼がカッと見開かれたと思うと、一気に距離を詰めてきた。大河はどうにか相手の動きを感じ取って、咄嗟にそれをかわす。だが、次の瞬間、振り向いた魔物が大河に背後から掴みかかった。また剣で対抗しようとしたが、しかし大河は両肩を魔物にしっかり捕らえられ、魔物はそのまま宙に飛び上がったのだ。
見る見るうちに地面が遠ざかっていくのを感じ、無闇に暴れることもできなくなった。
大河がふと下に目を向けると、眼下に神社の拝殿に向かう石段が石燈籠の投げる光によって薄く照らされているのが見えた。あそこに着地しようと、自力で降りられる距離にいるうちに、魔物の片足を剣先で小突く。すると魔物は小さく悲鳴を上げ、右足を大河の左肩から離した。もう片方も同じようにすると、今度は完全に身体が魔物から引き離される。
大河は壮大な浮遊感とともに落下していき、石段の踊り場に見事に着地したと同時に、足をバネのように跳ねさせて木陰に飛び込み、身を隠した。魔物はしばらく上空から睥睨するように大河を探していたが、やがて空中で身体を翻して向こうへ飛び去っていった。大河はホッと一息つき、一本の木の幹に背を預けてその場に座り込んだ。
暗闇の中では、ろくに対抗策すらもとれない。明るくなるのを待とうか。しかし、こうしているうちにも【ツインクル・テール】が危険に晒されてしまう。先程、魔物と退治した時には【ツインクル・テール】は見当たらなかった。発光の効力が失われたのか、それとも、自力で魔物の手から逃れたのか。あるいは、一足遅かったのか……。
嫌な予感が、次々と大河の脳裏に広がっていく。恐怖にも似た焦燥感が、全身を支配する。はやく行かなければ。そんな葛藤を抱きつつ、大河は立ち上がった。
そこに、小さな足音が響いてきた。音は石段の上から聞こえてくる。段々とこちらに近づいてきているようだ。じりっ、と大河は警戒しつつ剣の柄を握る。やがて、足音はどんどん大きくなっていく。こちらへ向かってきているというのは確実だろう。
木陰に隠れて息を潜めながら、大河は静かにその様子を窺う。足音が止んだ。ゆっくりと、大河は踊り場の方に目を向けてみた。その瞬間。
ピカッ、と顔面がまばゆく照らされる。大河は目を細め、前方を凝視した。懐中電灯を手にした人影が見えた。
「大河くん……!」
「好桃……?」
大河は言葉に詰まった。どうして、ここに好桃がいるのだろう。
好桃は駆けてくるなり、いきなり大河の首筋に抱きついてきた。
「よかった……! 無事で……!」
息を詰まらせながら、好桃は言った。彼女は、ずっと大河を探していたのだ。それは、この行動からも容易に推測できた。
「大河くんの後を追いかけてきたんだけど、道がわからなくなって……。でもすごく心配で、必死で探してたの。そしたら、魔物の声が空から聞こえて、もしかしたら……って思ってここまで来てみたら、大河くんを見つけたんだ」
と、好桃。
「ジカルは?」
「シロちゃんを探しに行ってくれてる。一人じゃ心配だったけど、助けはいらないって一人で行っちゃった」
弱々しい声音で彼女は話すが、それでも何故か大河には安心できた。一人じゃない、ということがこれほど心強いとは思わなかった。だが、そうではいけない。……そうであってはならないのだ。
大河は、好桃の耳に囁きかけるように告げた。
「好桃。先に、山を降りてくれないか」
「えっ……?」
困惑したような声が返ってくる。しかし、それは大河も前もって予想していた。
「あの魔物はちょっと厄介になると思う。だから、俺一人で行く。お前がいると、どうしても足手まといだからな」
ここで、いつものツンデレぶりを発揮する大河。だがそれには、さすがの好桃も言い返してきた。
「どうして? 大河くん一人で行かせられるわけないよ! 確かに、私は回復要因でしかないけど、でも君の負った傷を癒すことくらいはできるから……」
また、泣きそうな声で訴えかけてくる。どうして俺は、なかなか素直になれないのだろう。大河は己の遣る瀬なさや不甲斐なさに支配され、自嘲の笑みを浮かべた。
沈黙している大河の手に、そっと温かい別の手が触れた。好桃は剣を握っている大河の手をぎゅっと握りながら、言い添えた。
「もう少しだけ、ここに一緒にいよう。そして、一緒にシロちゃんを探しに行こう」
大河は血迷っていた。何が正解なのかわからずに。しかしそんな思考の順序に反して、大河の口はすぐに動いていた。
「わかった」
その場に座り込んだ大河に、好桃は寄りかかってきた。もう今が何時かもわからなくなっていた。大河はしばらく瞼を閉じ、しかし耳の神経は過敏に集中させていた。視界が安定しない中では、今は聴覚だけが頼りなのだ。
「……大河くん、お腹空いたね」
不意に、好桃が言葉を発した。それを聞き、大河も空腹を思い出した。最後に食事をしたのはいつだったろう。
……そうだ、今日の午後だった――ひょっとしたらすでに日付は変わっているかもしれない――ので、現在は胃に何も入っていないだろう。
上空を仰ぐと、半月がくっきりと見えた。結紀や高原、桃山は今どこにいるのだろう。そんなことを漠然と考えつつ、大河は腰を上げる。
「……行くか」
「えっ、もう?」
「時間がないんだ。俺らの魔力も、もう長くは持たない」
ジカルによれば、あとわずかでタイムオーバーとなり、自分たちの中に宿っている魔力によって身体を蝕まれ、やがて乗っ取られてしまうという。大河は内心、かなり焦燥していた。
周囲を窺いながら大丈夫だと悟ると石段の踊り場に飛び出し、再び登っていく。好桃もあとを追いかけてきた。大河の右腕にしっかりとしがみつき、やや足場をとられる。それでも、勘を頼って大河は上へ上へと慎重に進んでいく。
刹那、魔物らしき咆哮が轟いた。大河はピタリと足を止め、辺りを睥睨した。近い。
と、その時。
茂みの中から、巨大な図体が飛び出してきた。大河は、咄嗟に「下がってろ!」と、好桃に指示を送る。
「えっ……でも……」
戸惑う好桃の手を掴み、全力で石段を登りきって平たい場所へ出ると、木が深く生い茂っているところに彼女を隠すように押し込んだ。
周りの木々が次々に薙ぎ払われるような音が聞こえ、魔物は真っ直ぐこちらに向かってきているようだ。暗がりの中、大河は身を低くし、剣を構えるなり駆け出した。敵も大河の存在に気づいたのか、動きを止める。目の前には巨大な影が見える。
大河は飛び跳ね、宙を舞いながら狙いを定めた脇腹を剣で突くが、それでも魔物は身動ぎもしなかった。
着地すると同時に、大河は次の一手に出た。魔物の背後に回り込み、地面についた長い尾の端から胴体を駆け上がっていく。瞬く間に頭まで辿り着くと、頭頂部に思い切り剣を突き立てる。微量の光が大河の足許で散り、その衝撃によって魔物は翼を広げて、再び飛び上がった。鬱蒼と茂った樹葉を突き抜けると、月が煌々と輝いている。
乗っているものを振り落とそうと振り回される頭にしっかりとしがみつきながら、そこから大河は視線をずらして下の様子を窺った。
山の裏手――神社の鳥居の反対側に、駐車場があった。夜中の今は駐車している車はなく、そこに魔物を誘い出せないかと考えた。街灯が等間隔に灯り、僅かだが月明かりもある。暗く何も見えない山の中よりも、そこで対峙した方がこちらにも勝機はある。
大河は魔物の頭頂骨の辺りから身を乗り出し、片手を伸ばして剣の先を魔物の眼前で軽く振ってやると、魔物は剣先に噛みつこうと口を開けて顔を前方に突き出した。それを大河は剣を一振りして避け、今度は駐車場の方向へ向けると、魔物も身体の向きを九十度回転させる。
また噛みつこうとするのを、また剣を振って回避する。それを幾度か繰り返していき、すぐ真下に駐車場が望めるところに出た。そして大河は思い切って魔物から飛び降り、数メートル下の地面に着地した。魔物もすぐ追ってきた。
肉薄する魔物の眼前で大河は横一閃、剣を薙いで相手が怯んだ隙に後ろに飛び退った。魔物は一際大きな咆哮を上げると、再度こちらに飛びかかってくる。その突進を、剣を縦に構えて防ぐと、微かに火花が散った。
大河は地面を強く叩くように蹴り、跳ねて再び相手との距離をとる。
しかし魔物は、今度はゆったりとした動作で巨大な二枚の翼を広げ、涎を垂らした口をこれ以上開かぬとばかりに開けて、遠吠えのように上空へ向かって吠えた。大河には、それが仲間を呼ぶ声のようにも聞かれた。しばしの静寂が駐車場一帯を覆う。魔物は至ってこちらの出方をうかがうべく身じろぎもしない。ふと大河の心に、一抹の翳りが生じた。
その時、風もないのに背後の山の枝葉がガサガサと揺れる音を聞いて、大河の危惧はさらに加速していく。意識を魔物に向けつつ振り向くと、後ろの山の奥から細長い幾本もの蔓のようなものが伸びているのが見えた。その正体不明の蔓は、真っ直ぐこちらに向かってくる。大河もそれが何かわからずに身構えたが、その蔓は数メートル手前まで来るといきなり進行方向を変え、西方向の空へ斜めに伸びていった。
大河が呆然とそれを見ていると、また魔物が低い声で呻くように鳴いた。すると伸び続ける蔓が今度は上空でUターンし、頭からこちらに向けて再び戻ってくる。何がなんだかますますわからず、大河は試しに握っていた白剣でその蔓の頭部分を数十センチのところで裁断した。
切られた末端は大河の足許に落ちたが、蔓は際限なく伸び続けて虚空をゆらゆら彷徨うように揺れている。
――何なんだ、これは一体。
大河は半ばぽかんとその謎の蔓としばらく対峙していた。やがて、その蔓は大河との距離を一気に縮めるやいなや、大河の腕に絡みついてきた。その不意打ちに対処しきれず、また冷静な判断も失い、気づいた時には巻きついた蔓の先端は大河の脇腹に達していた。
大河は、絡まった蔓を身体から引き剥がそうとそれを片手で掴んだが、突如、背中に鈍くも激しい衝撃が走った。剣が宙を舞い、駐車場に点々と並ぶ街灯の一本を直撃し、無機質な音を奏でる。そして、アスファルト舗装された地面に落下する音が、虚しく響いた。
その間に、大河はどこからか伸び上がってきた蔓によって雁字搦めにされ、うつ伏せに倒れていた。その状態のまま首をひねり、後ろを見やるとすぐそこに魔物の重々しい偉容が屹立している。魔物の不意の突進によって、唯一の武器を奪われたのであった。
起き上がろうとしても、すこぶる強靭な蔓によってきつく縛られていて手足の自由すらもままならない。思考が全く働かず、焦燥感だけが心の底から噴水のごとく湧き上がってくる。
ヤバい、ヤバい、ヤバい――そう憂慮するうちに、何かに背中を地面へ押し付けられるような感覚に襲われた。魔物は片方の脚で大河の動きを完全に制圧し、今にも胴体を食いちぎらんという剣幕で唸り声を漏らしながらわずかに口を開く、そんな気配が大河にも伝わった。
「くっ……」
なんとかして、ここから脱さねばならない。しかし、そう都合よく打開策が思い浮かぶわけではなかった。
魔物はまた大声で咆哮し、大河に襲いかかった。牙を剥く魔物の口が自分の背中に接近する気配を感じ取り、大河は両眼を瞑った。
その時、眩い光が彼と魔物を照らした。その光にたじろいだように、魔物は動きを止める。大河もその方向に目を向けた。誰かが電灯を片手に、こちらを照らし出していている。まさか好桃が追ってきたのだろうかと一瞬、冷や汗が頬を伝う。しかし、それは好桃ではなかった。
「もう……やめてくれ……」
頼りなげな声で懇願するのは、桃山であった。彼は掠れた声で、さらに言葉を継ぐ。
「全部、俺が悪いんだ。だから、もう、大河から離れてくれよ……」
言葉尻になるに連れて、その声は次第に弱々しく、震えていく。大河は薄目を開き、地面に頬をつけたまま桃山をただ見つめることしかできなかった。
すると、魔物が大河から足を離した。重くのしかかっていたものがなくなり、一気に背中が軽くなった。だが、それで安堵するのは早計であったのだ。
魔物は、くるりと身体の向きを変え、狙いを桃山に移行させる。大河は咄嗟には動くことがかなわなかった。桃山は相手の意図を汲んだように、身震いして一歩後ろへ下がった。魔物はまた低く唸りながら、顎が地面につくほど身を低く落として桃山を凝視する。しばらく、硬直状態が続いた。
その状態を打破すべく、魔物が後ろの双翼を広げて駆け出した。
「う……うわっ、来るな、来るな――――!!」
桃山も背中を向けて走り出し、逃げ惑う間、懐中電灯の光を道端に満遍なく散らしていた。
大河は己の身体に絡まる蔓を振りほどこうと手首を捻るが、結び目がしっかりと固く結ばれているのか、緩む気配がまるでなかった。
その間にも、魔物の爪が桃山の後襟を捉える。そのまま服の背中を掴んで前方へ押し倒し、右肩に噛みつく。
「うあああああああ!!」
桃山の絶叫が聞こえ、はっとして振り向くと大河の目には凄絶な光景が飛び込んできた。暗闇の中、魔物が倒れ伏した桃山の上半身を食いちぎるような影が見えたのだ。それと同時に、肉を抉るような生々しい音。
瞬間、大河は自分の脳の血管の一部が切れるような音を聞いたような気がした。そして、腹の底から何かがマグマのように噴き上がってくる感覚。それは瞬く間に、大河の脳天を突き抜けた。
大河は魔物に負けぬくらいの雄叫びを上げ、背中から後ろの腰のあたりにかけて固定されていた両腕を力いっぱい、雄々しく身体から引き離した。ブツッ、と何かが千切れる音が響く。続いて、プッ、ブチッ、と似たような音が連なる。
身体を起こすと同時に大河はダンッ! と地面を強く蹴って、一本の街灯の傍らに転がっていた剣を取り、その勢いを利用して速度を緩めることなく今度は反対方向に向けて地を蹴った。ほとんど飛び上がった状態のまま、魔物の背中へ飛び込んでいく。
桃山に覆い被さっていた魔物はそれに気がつくと身を翻して、一声強く鳴いた。
魔物が背中の双翼を上下に振って飛び上がり、向かってくる大河を睨みつけた。翼から発せられるやや強い風が、駐車場を覆っている森の木を強く揺らした。大河は無我夢中で、魔物の喉元に狙いをとり正面から突っ込んでいく。だが、我を失った大河には幾分分が悪かった。
魔物はより一層風を強く吹かせ、大河の動きを封じた。吹き飛ばされる彼の肩に噛みつき、地面に押しつけた。虎が獲物をじっくりと捕食するように、ゆっくりと牙をその肉に沈めていく。大河は激痛に叫喚し、そして無力感に絶望した。死ぬんだ、と思った。
大河は頭を横に倒し、自分の左肩に目を向けてみた。薄闇の中、そこから際限なく溢れ出す鮮血が見えた。ゆっくり瞼を閉じる。意識が薄れ、やがて思考が完全に停止するのにそう時間はかからなかった。
朦朧とする暗闇の中で、大河は自分を必要だと言ってくれた人々の顔を思い浮かべつつ、声にならない声で最後に謝罪とお別れの言葉を言った。
――――ごめんな、バイバイ。
お久しぶりです。ちょっと間が空いてしまいましたね。
完結まで、あと3話くらいです。予定では。




