「滅びゆく感情と守るべき世界」
「さあ、はやく受け取ってよ」
「いやだ」
「なんで受け取らないの?」
「お前を殺すなんてできない」
「じゃあ、世界が滅んでもいいってこと?」
「……そうじゃない」
「言っただろ? 君は、二つの選択肢しかないって」
「それでも、何か方法があるかもしれない」
「ないよ。もう、諦めるしか!」
桃山が強引にナイフを押し付けてくるのを、大河も身体でもって突き返す。しばらく、その行為を互いに繰り返していた。が、その時だった。
「あっ!」
桃山の一際大きな声が、山頂を取り囲む木々の幹に跳ね返り、木霊した。それと時を同じくして、大河は脇腹のあたりに激痛を感じた。同時に、湧き水のように何かが腹から噴き出て、それが太腿、脛へと伝うような感覚が襲う。
大河は慄然としながら、手元の懐中電灯で自分の足許を照らした。履いているスニーカーに真紅の液体がべったりとくっつき、その周囲も真赤に汚れていた。
桃山も異変を察知したような声で、
「う、うわあぁぁぁ!」
と悲鳴を上げながら、慌てて後ろにさがり、電灯を投げ出して尻餅をつく。
鋭い痛みに思わず「う……」と大河は小さく呻き声を漏らし、がくんと膝を落とすがかろうじて地面にはつかずに持ち堪える。
「あ……、あっ……」
桃山の激しい息づかいが耳を打ち、大河はどうにか体勢を立て直して元の姿勢に戻った。
顔を上げ、目の前に広がる暗闇を凝視する。地面に放り出された懐中電灯が淡い光を投げ、座り込んだ桃山の下半身を照らし続けている。彼の足と、血痕のついたナイフを握っている手は、恐怖に慄いたようにガクガクと小刻みに震えている。
烈しさを増す、焼けるような脇腹の痛みに大河も次第に力が入らなくなり、緩んだ右手から電灯がこぼれ落ちた。トスッ、とそれが伸びた雑草の上に落ちる音がわずかに聞こえた。
どこかへ飛んでいきそうな朦朧とした意識の中、大河は手を動かし、覚束ない動作で右手の甲を、左手の指で撫でた。すると、カッ、と白光が瞬き、輝き出した大河の右手から幾条もの純白の光線が伸びる。それが瞬く間に変形していき、大河の手に収まった時には淡く光り輝く白剣になっていた。
恒星のように自ら光を放つ剣によって、呆然とする桃山の顔も鮮明に映し出される。
大河は痛みを堪えながら、ゆったりとした足取りで桃山に近づいていった。桃山は、慄いたようにぺたぺたと両手で地面を這って後ろへさがっていく。
腹を壊す主な原因として、悪玉菌の存在がよく例に挙げられる。しかし薬を服用し、善玉菌を増やすことで腹痛は和らいでいく。この目の前の悪玉菌を処理すれば、善玉菌が増えることはないが、幾分この世界は沈着するのではないだろうか。
まずは、災禍の元凶となる存在を片付けなければならない。
大河はそっと剣を振り上げた。桃山は、大河の意中を察したように、泣きそうな顔で両手を上げる。
「……ごめん、大河。ごめん……!」
必死に、掠れた声でそう懇願してくるが、大河は聞き入れることなく、剣の柄を両手で握りしめる。この衝動は、大河自身にも止められなかった。本当は、友人を救いたい。そう、願っていたはずなのに。止められない。自分で、自分を、制御できない。
――何をする気だ、やめろ……!
何度も、何度も、心の中で叫んだ。それでも、己の身体は言うことを聞かなかなかった。
桃山はぎゅっと目を瞑り、恐怖に身を硬くした。さらに加速する彼の息づかいが、大河には克明に聞こえる気がした。
「……ごめん」
大河の口から、そんな短い言葉が漏れた。これは本音なのか、欺瞞なのか、それすらもわからなくなっていた。ただ言えることは、自分が今、目の前の友人を殺そうとしているという、もう誤魔化すこともできない事実だけだった。
目を閉じ、振りかざした剣を振り下ろそうとした――その直後。
ふと、ナイフで刺された箇所に今まで感じていた痛みが、徐々に引いていくのを感じた。そっと目を開けてみると、誰かが自分の腹に抱きつき、そこに顔を埋めている。そればかりではなく、大河は自分の腹回りが淡光を帯びているのがわかった。
光の消滅とともに、先程までの疼痛は完全に消え去った。大河が呆然としていると、彼の腹に顔面をくっつけていた者がふと視線を上げた。暗くて顔はよく見えないが、月光を反射してきらきら光る虹彩には見覚えがあった。
「大河くん……もうやめてよ……」
好桃は、訴えるような声で言った。
「お前、どうして……」
大河が尋ねると、好桃は身体を離した。
「心配だったから、気づかれないように後を追いかけてきたんだ」
好桃の返答を聞き、大河は息を呑む。
「聞いてたのか……?」
「……うん、途中からだけど。山頂に灯りがついてたから、それで二人が向かい合ってるのがわかって、でも出ていくタイミングがわからなくて、木の陰からこっそり見てたの」
好桃はわけを話すと、黙り込む大河に向けて、さらにこんな言葉を続けた。
「でもね、私が求めていた結末は……こんなんじゃないんだよ。もっと……みんなが、笑顔になれるはずだった!」
泣きじゃくるように声を荒げながら、好桃は必死に訴えかけてくる。大河はそれを聞いて、何も言い返せなかった。そして、これが彼女の本心なのだと悟った。
「大河くんは……本当に。桃山くんを殺すつもりだったの……?」
「……わからない。俺も、どうしたらいいのか、わからないんだ。どの道、誰かが傷つくんだ……みんな笑顔なんて、そんな都合のいい結果は有り得ない」
「そんなことないよ!」
好桃は強く叫び、大河の肩に手を置いてその胸に自分の片頬を預けた。その時、自然に振り上げていた剣がそっと手から離れ、それが背後の地面に落下する音を聞くのと同時に、大河は静かに両手を下ろした。
好桃は大河の胸に頬を当てたまま、優しげな声で言う。
「そんなこと、ないよ……。きっと、他に方法はある。私は、そう思ってるから……」
大河も、好桃の両肩に手を添えた。少し弾いただけで切れてしまいそうなほど細い糸のような彼女の声に、大河は心苦しさを覚えた。そして、必死に思考を巡らせてみたが、思い浮かんだのは見当違いの答えだった。
「……無理だ。誰かが笑えば、誰かが悲しむ。それが、この世界の道理なんだ。全員が笑っていられるほど、俺たちの世界は都合良くできていない」
「ちがっ……違うよ……きっといい方法が……」
大河から顔を引き離し、声を詰まらせながら主張しようとする好桃に、
「じゃあ、言ってみろよ!」
と、大河は思わず怒鳴っていた。彼女の言動を受け止めきれない自分がいることに、大河は憎悪を抱いた。こんなはずじゃなかった、と後悔するが、すでに遅かった。
大河も、好桃と同じことを望んでいた……はずだった。しかしこれまでのことを考えると、とてもそうは思えなかったのだ。
「俺は今まで、理不尽の中で生きてきた。チームメイトから除け者にされて、しかも誰も俺の話なんか聞いてくれなくて! ……もう十分だよ。こんな世界、滅ぶなら勝手に滅んでしまえばいい。ごめんな、好桃。これが、今の俺の本音なんだ」
悔しくて、辛くて、それでいて誰にも打ち明けることができなかった。世界の破滅……いつしかそんな空想が、大河の夢へと変わっていった。
だが、好桃は頑なに首を横に振るのだった。そして、両手で大河の左手を握る。彼女の手の温もりが大河にも伝わって、凍った神経を少しばかり溶かしてくれるような心地に浸った。
「それは違うよ。大河くん、心の底ではそんなこと思ってないよ。私にはわかる。だって本当にこの世界の破滅を望んでたら、あんなに優しくしてくれなかった。毎日、お弁当作ってきてくれて、すごく感謝してるんだよ。だから……もっと素直になってもいいんだよ」
好桃は微笑んでいる。彼女の手の暖かさが、それを伝えている。何故、どんな時にもこんな風に笑っていられるのだろう。彼女にも、あれが見えるはずなのに……。
「好桃……。お前にも、見えるんだろ? 魔物が。この世界を……恨んでるんだよな?」
「……実はね、そうじゃないの。昔から見えるんだ、私」
大河はしばらく、毒気を抜かれたように二の句が継げなかった。
生まれつき《魔視》を持つ人間がいる――あの時、確かにジカルはそう話していた。併せて、過去にも人間界へ魔物が出てきたことがあった、とも言っていた。
これは、どういうことなのか。
「……見たことが、あるのか?」
「うん。だから私は、この世界を嫌いになったことなんかない。それはホントだから」
好桃は叔母と一緒に暮らしていた時、龍のような魔物を見たことがあるという。その魔物に遭遇した時、恐怖のあまり動けなくなったが、やがて何もせずに魔物は去っていった。その日以来、好桃は魔界に関心を寄せるようになり、魔法やそれにまつわる伝承について調べるようになった。同居していた叔母も魔法にはもともと関心があり、好桃に付き合って図書館へ伝説などを調べに行ってくれた。好桃が魔法や幾何学という神秘的なものに興味を惹かれるのは、そういった経緯があるからだったのだ。
「大河くん、はやくシロちゃんを探しにいこう」
また好桃に手を強く握られると、大河は逡巡した。
「……無理だろ。どこに行ったかもわからないのに、こんな暗い山の中を探すなんて」
「大丈夫だよ、ほら」
渋る大河だったが、好桃は目の前――大河の背後を指差した。その瞬間、大河の後ろから蒼白い閃光が上空を越えていく。それを目にした大河が咄嗟に振り返った先には、ジカルが立っていた。彼女の異様な姿に、大河は少しの戸惑いを覚える。
ジカルの全身が、月のように蒼白く光っているのだ。しかも肌だけではなく、洋服やリボン、髪までもが同じ色の光に包まれている。それは、懐中電灯の光など比較にならないほど眩い。
不意に、誰かが大河の手を引いた。
「行こう」
正面からは、好桃の声。
「みんなで、探しにいこう」
その甘い、ほんわかするような声によって、大河の心は少しだけ平穏を取り戻していた。
大河は、微笑しながら頷く。しかし、【ツインクル・テール】が見つかるという確証はどこにもない。だが、それでも探しにいかなければならない、と思えた。好桃のために、そして、誰かのために。
大河は次に、好桃の後ろで依然として呆然とへたり込んでいる桃山に指示を送った。
「桃山、お前は先に山を下りろ」
「え? 大河たちはどうするの?」
当惑したような声に、大河はこう返す。
「俺たちは、今からあいつを探しにいく」
「……止めても無駄っぽいね。わかった、行けばいいよ。どの道、おれの運命は変わらないんだけど」
桃山は落ちていた懐中電灯を持つと、自分の足許を照らしながら山道に引き返していった。それを好桃が呼び止めようと、何度か名前を呼んだが、彼は振り返らなかった。
完全に足音が途絶えると、好桃はジカルに泣きついた。
「ジカルちゃん、桃山くんを助けてあげて! 彼、魔界の人から命を狙われてて……」
好桃も、先程の話を聞いていたのだろう。必死に説明するけれども、ジカルは無反応だった。ただ前方に視線を送り、一点だけを見つめている。大河も何があるのかと不思議に思い、彼女のその視線を追った。
山頂は周囲を木々で覆われ、山道が西と東に一箇所ずつ設置されている。ジカルが見ていたのは、東に位置する山道近くの木々の茂りだった。その奥は、黒く塗りつぶしたように暗黒の世界と化している。
しかしよく目を凝らしてみると、木々の隙間から小さな光が見える。その光の主は、徐々にこちらに近づいてきているようだ。
桃山が戻ってきたのだろうか……と大河は一瞬考えたが、桃山が下りていったのは反対側にある西側の山道なので、そんなことはあり得ない。では、一体何なのだろうか。大河は不可解な光に眉間にしわを寄せながら、それがこちらに向かってくる様子を見守った。
やがて、その光の正体がはっきりと見え始める。二本の尻尾を揺らしながら、白い猫が鷹揚な足取りで歩いてくるのだ。それだけに留まらず、その全身を白く光らせている。今のジカルと全く同じ状態であった。
【ツインクル・テール】は大河たちのところに歩み寄ってくると、ぴょんっと兎のような華麗なジャンプで飛び跳ねてジカルの左肩に乗ると、大河と好桃を交互に眺める。
そして彼らに対し、またまた不可解なことが起こった。突然、猫が、
『皆さま。ご心配をおかけし、申し訳ございません』
と、言葉を発したのだ。
「シ、シロちゃんが喋った!」
好桃は驚嘆したように、悲鳴に近い声を上げる。しかし大河ですら、今、目の前で起こった出来事が信じられなかった。【ツインクル・テール】が口を利いたということ。
『驚くのも無理はありません』
そう言いながら、白猫は再びジカルから飛び降り、語り始めた。
『私は、魔界と人間界が切り離されて以降、魔王の命により【魔界門】を守って参りました。しかし今回……わたくしは、己の願望に負けました』
白猫はその場に座り込むと、詫びるように項垂れた。輝く二本の尻尾が、海藻のように交互にうねる。
好桃は早くもこの状況に慣れたのか、膝を曲げて白猫を見つめながら、尋ねた。
「どういうことなの?」
『……はい。【魔界門】が人間によって外から開放された時、外の世界……人間界の景色を見てしまったのです。その、あまりの美しさに身を包んだ山々や空は、わたくしを魅了しました。そんな世界を目の当たりにしたわたくしは、どうしても己の欲求を抑えられなかったのです。そして、しばらく留守にしてもさして大きな事態にはならないだろうと甘く考え、外の世界へ飛び出してしまいました……』
白猫は顔を上げて、二人を見つめながら話し続ける。
『あなた方には《魔視》の能力があり、かつわたくしを探すお手伝いをされていると知った時に、お話するべきだったのでしょうが、何と切り出したらよいかわからず、しばらくは人間界に住む猫のふりをしようと思いました』
そこまで言うと、白猫は空を見上げながら遠くを見つめるように目を細め、さらに続けた。
『わたくしはあの部屋で、皆さんが戻ってくるのを待っていました。するとドアが開いて、あなた方とは違う男の子が入ってきたのです。その人がわたくしを外へ連れ出し、魔界へは帰るな、と言ってきたのです。その時に、わたくしは思いました。あぁ、この子は魔界の住人に操られているな、と』
次に、白猫は大河に視線を向けた。不意に目が合ったので大河は少し狼狽したものの、目を逸らす気にはならずにただ猫と目線を合わせていた。
『わたくしは、必死でその人から逃げました。魔界と、この人間界を守りたいという欲求が、そうさせたのかもしれません。わたくしはその時、もっとはやくにあなた方に真実を伝えられなかったものかと、ひどく後悔しました。ですが、ここであなた方と再会し、お話できたことで、この事態に終止符を打つことができます。ご安心ください。この世界に出てきた魔物たちはすべて、わたくしが責任を持って魔界へ連れて帰ります』
猫らしいキリッとした眼は、幾分穏やかそうに見えた。不意に、白猫はくるりと身体の向きを反転させ、悠々と歩いていく。大河は彼女(?)の足取りを目で追っていくと、すぐにその目的地となる場所を察知した。
巨大な岩石――ゴツゴツとした岩肌が、月光を浴びて少しばかり青白い光の衣装をまとっているような印象を受ける。
それが、魔界への入り口――すなわち、人間界と魔界を結ぶ玄関、【魔界門】であった。
白猫はまた、若干欠けた月を見上げると、
『これで、あなた方を柵から解放することができます』
しかし、その時、山頂のほとんどの面積が黒い影によって覆われた。大河は直感的に異変に気づき、バッと顔を上空に向けた。
月が雲に隠れたなどではない。二、三十メートルはあろうかという巨躯に翼を生やしたそれが、闇の中で一際異彩を放つ黄色い眼光をこちら側に向けている。これまで彼らが目にした中では最大の魔物であった。一番に好桃が悲鳴を上げ、大河も咄嗟に落ちていた剣を拾う。
だが、こちらが動くよりも数秒速く、魔物は動いていた。しかも、狙いは大河や好桃ではなく、白猫だった。魔物はその巨体に似合わぬ爬虫類さながらの俊敏さで【ツインクル・テール】に襲いかかり、大きな口で白猫を咥えると飛び上がった。
『きゃーっ!』
飛んでしまえば、大河たちにはどうすることもできない。魔物は背中の双翼を一層強く羽撃かせて背を向けると、森の向こうへと飛び去っていった。
「シロちゃん!」
叫ぶようにして好桃は呼んだが、白猫は魔物とともにどんどん遠くへ離れていく。大河は発作的な怒りに駆られ、片手に剣を握り締めたまま走り出すと同時に、
「ジカル! 好桃を頼む!」
と叫び、魔物を追い駆けた。
幸い、見失う前に木々の茂った場所に魔物が降り立つのが見えた。大河は山道も無視して、ろくに整備もされていない木々の間隙に飛び込んだ。
「大河くん!」
ようやく状況を把握した好桃が呼んだ頃には、大河は魔物を追って草木の間を縫うように走り、そしてそれらを剣で薙ぎ払うようにして森の中を進んでいた。
今回も、めちゃくちゃ長くなってしまいました。
どうしても、細かい描写が多くなってしまうんですよね。ウェブ小説だと、もう少し薄っぺらくしてもいいんでしょうけどね。