「朝の教室で」
教室は、今日も恒常性を保っている。高校生たちの一日は毎朝、ここから始まるのだ。
一人の席を囲うようにして数人の女子たちが立ち話に花を咲かせていたり、一方で男子たちが後ろの掃除用具入れの近くを占領しつつ談笑していたりと、室内は騒がしいほどの賑やかさである。男子の中には、床に座り込んだり壁にもたれかかったりしている者もいる。
そんな生徒たちの声が渾然と混ざり合っているところへ、大河たちも到着した。
「あ、好桃ちゃん、おはよう!」
「おはよー」
好桃が教室に入ってくるのに気づくなり、一人の女子が彼女に声をかけた。すると、その声に共鳴するようにその周りにいた他の女子たちも、好桃の方を見て次々と声をかける。昔から好桃には社交的なところがあり、よく初対面の人に対しても臆することなく話しかけるのだ。そのため、クラスのほとんどの女子とは仲がよかったりする。
ちなみに、何の取り柄もない好桃に対し、それが唯一の美徳だと思っている大河は、試しに彼女にそう言ってやると「そんなことないもんっ!」と半ギレされたので、それ以降は何も言わないことにしている。怒らせたくないというよりは、ただ単に怒らせると面倒だからだ。
「みんな、おはよう!」
好桃も、悪意の影もない明るい笑顔で友人たちに挨拶を返していた。
それから、好桃や朱奈も友人たちに混ざり、教室の後ろの方に集まって楽しげな会話を始めた。大河も後ろのドアの傍に立ち、まず鞄置けよなどと考えながら、その様子を眺めていた。
彼女たちの話題に上がっていたのは、昨日の野球の試合の結果がどうしただの、好きなアイドルグループが解散を発表しただのという、他愛もない――大河にとっては心底どうでもいいような話ばかりだった。
その時、不意に大河は誰かに肩を叩かれるのを感じた。振り返ると、そこに一人の生徒が立っていた。大河と同じクラスの女子、奥山花凛だ。肩の少し上でカットした真っ黒い髪、青縁の眼鏡は彼女の優等生らしさを演出している。
多分、大河が入口を塞いでいたせいで中に入れなかったのだろう。
花凛は本を手に持ったまま、教室の前に佇んでいた。いや、正確に言うと、持っているだけではなく、広げて読んでいるのである。しかも、花凛の目線は大河ではなく、本の方に落ちていた。
大河が一歩前に進んで道――ではなく入口をあけてやると、花凛も教室に入ってきた。……本を読みながら。
花凛は大河の横を通り過ぎ、自分の席の方に歩いていった。花凛は着席した後も、なお本を読み続けていた。大河はそれをなんなく見ていた。特に興味があったわけじゃなく、ただなんとなく見ていたのである。
すると、大河は好桃が以前、「いくら話しかけても目を合わせてくれない子がいる」と嘆いていたのを思い出し、こいつのことかとやけに腑に落ちた。
ずっと一人の女子を見つめていると誰かに見つかって揶揄されるかもしれないので、大河も自分の席に鞄を置いた。あとでネタにされるのだけは御免だ。大河の席は、後ろのドアに最も近い、廊下側の列の一番後ろだった。
立ったまま教室の風景をぼんやり眺めていると、そこに好桃が来た。
「ねえ、大河君。今日、実証部の部室に来てくれない?」
「なんでだよ」
大河が訊き返すと、好桃は嬉々とした表情を向けてきた。
「今日ね、見せたいものがあるの。新しい魔法が完成しそうなんだ!」
「断る」
「即答!?」
好桃は驚いたようにやや体を引く。
「だって大河君、部活やってないじゃん。なんで来てくれないの?」
「面倒くさいから」
またしても冷たく答え、大河は欠伸をしながら前を向いて椅子に座る。背後から強い視線を感じるが、どうせ好桃がふくれっ面をして睨んでいるのだろう。大河にとっては「いつものこと」なので安易に想像できたが、無視していた。これも好桃と付き合っていく上でいつしか身についた、彼女への対処法だ。
「それだから、身長伸びないんだよ?」
背中にそんな言葉を浴びせられるが、こういう嫌味も無視するに尽きる。彼女は大抵、大河が冷たい反応をすると、程度の低い悪口を言ってくる。
「関係ないだろ」
大河は振り向かずにそう返し、胸中で嘆息。いつも、しばらくすれば諦めてどこかへ行ってくれるのでそれを待つしかない。
毎朝、好桃の分まで弁当を拵えてやっているものの、あくまで自分と妹の分の「ついで」だというのが大河の主張だった。父の孤児院で知り合ったとは言っても、そこまで執拗に構ってやる筋合いはもとよりない。
部活に顔を出せない理由として強いて言うなら、大河には放課後、寄るべき場所があった。
改めて、包帯でぐるぐる巻きにした右手を見やる。朝、家を出る前に咄嗟に隠したが、これは一体、どういうわけか。右手の甲に突如として現れた――魔法陣のような形をした、奇怪な模様。もしかすると、夢で見たあの少女と何か関係しているのだろうか?
考えれば考えるほど変な胸騒ぎを覚え、わからなくなっていく。姉や妹が夜中にそんな悪戯をするとは思えないし、そうだったとしてもそれに何の意味があるというのか。
焼け石に水ではないかという気もしたが、念のために大河はそういうことに詳しそうな友人に相談してみることにした。その生徒は大河や好桃とは中学からの友人で、魔法や怪奇現象といった非科学的なものについてつぶさに知っている。それをあまりにも熱心に語るものだから、大河も最初は少し煙たがっていたものの、今はすっかり慣れてしまっていた。
彼は部活にこそ入っていないが、図書委員のため、放課後などは図書室にいることが多い。それに加えて、こういう話題を出せば立ち所に食いついてくるようなやつだ。
「大河君」
今度は落ち着き払ったような声音で、好桃が声をかけてきた。
まだいたのか、と大河は少々げんなりしながら振り返ると、好桃が丸い目を見開いて不思議そうな顔をしてこちらを見つめていた。
「大河君、どうしてサッカー部、辞めちゃったんだっけ……」
瞬間、大河は記憶中の奥深くの皮膚を抉られるような不快な感覚を味わった。今、最も聞きたくない言葉だった。ただ、好桃に悪気があったわけではないことは知っているので、大河は彼女から視線をそらし、前に向き直る。
「……悪い。その話はもうしないでもらえるか?」
「あ、うん……ごめん……」
申し訳なさそうに謝る好桃の声に重なるように、朝礼五分前の予鈴が鳴り響く。好桃は自分の席に戻っていき、室内の生徒たちも徐々に自分の席に着き始める。
大河はまた、右拳を眺めた。雑に巻きつけられた包帯が語るのは――
右手の模様。そして夢で見た、眼に光がない謎の少女。
大河はオカルトを信じているわけではないが、身に起こったことへの恐怖心が生来の怠惰癖をも消し去ってしまう。こればかりはさすがの大河にも、解明したいという意識が芽生えた。だから、とりあえず例の友達に事情を話しにいくことにしたのだ。