「宿命と協力」
大河は、懐中電灯の灯りを散らしながら山頂を目指した。弱々しく頼りないそれの光では、せいぜい一メートル先を照らすのがやっとが、今はこれだけが頼りだった。しかし幸いなことに標高が低く、単純な山であるため、整備された山道に沿って登っていけば迷うということはあまりない。
予感が当たっているかはわからない。だが、急がねばならなかった。多少の勾配のきつさはすでに慣れている。あとは、早く頂上に辿り着くことだけだった。
途中、この世のものとは思えないほどの不気味な咆哮が、すぐ近くから聞こえたような気がした。多分、魔物だろうと大河は周囲を警戒する。ジカルの言っていた通り、やはり魔物は夜になると活発になるようだった。
どこから飛び出してくるかわからない――そんな恐怖に襲われ、大河はかきたくもない汗をかいていることに気づく。
なるべく身を屈めながら、できるだけ足音を殺して上へと進んでいく。
と、その時だった。
何か巨大な影が梢から射し込む僅かな月明かりを遮り、大河の真上を通過した。大河は咄嗟に草陰に隠れ、上空を仰いだ。
闇の中で純白の犬歯が煌めき、怒り狂ったようにそれは、山道に沿って並んでいる木を強靭な膂力で次々と薙ぎ払った。幹の砕ける音だけが、甲高い怨嗟の悲鳴とともに、深閑な闇の中に轟いた。
大河は咄嗟に、草木に身を潜めつつ駆け出した。しかしそれを察知したように、魔物の声が一層大きさを増し、彼のすぐ背後まで迫る。大河は階段を駆け上りながら、片手に握っていた懐中電灯を上着のポケットに押し込むと、手の甲の星をその指でなぞり、純然と輝く剣を出現させた。
振り返りざま、一閃。
剣先は、僅かに魔物の鼻を掠めた。魔物はたじろいだように一、二メートルほど後退した。だが、時を移さずして魔物は大勢を正し、後ろの翼で思い切り宙を叩くと、バサッ! と飛び上がり、大河の正面目掛けて突っ込んでくる。咄嗟に、大河は剣身を顔の前に掲げて防御。
肉と金属の擦れる、妙に生々しい音が鳴った。
今や森の中は暗闇に等しく、大河の視界には、月のように自ら光り輝く白剣、そして月光を照り返している魔物の鋭い両眼と犬歯の光だけを捉えるのがやっとだった。
魔物は鋭い相貌で大河を睨み続けながら、口を大きく開く。向こうにはこちらの位置が明確にわかるらしかった。その印として、次の瞬間、魔物が放った大量の水が大河を捉えた。大河は器用に剣を操って、水を弾く。しばらくその動作が彼と魔物の間で繰り返され、次第に大河の息は荒くなっていった。
その時――
ガサガサ……と叢の揺れる音が後ろから聞こえるのを、大河は聞き逃さなかった。
風はない。それは、外部からの刺激によって揺れているのだと、大河は直感せざるを得なかった。
大河の首筋を、幾筋もの汗が迸る。新たな魔物が、獲物を横取りしようと近づいてきているのではないか。そんな不安と焦燥に駆られ、大河の動悸はますます激しく脈打った。
しかし、そこにいたのはある意味、魔物よりももっと厄介な存在であったことを、この僅か数秒後に大河は知ることになった。
「やあ、こんにちは」
聞き覚えのある、何度も聞いた、場違いなほど平穏な声。挨拶。日が暮れているのに「こんにちは」と言う人物を、少なくとも大河はこれまでの中で一人しか知らない。
意識を眼前の魔物に集中しながら、ゆっくりと視線を背後に移動させる。暗闇の中からひょっこりと現れた高原の顔が、白剣の放つ淡い光によって薄く照らされる。何故ここに彼がいるのか、大河には当然ながら理解できなかった。
高原は興味津々な様子で大河の方へ歩み寄ってくると、
「何してるの?」
不思議そうに顔を覗き込んでくる彼に、大河は叫んだ。
「お前こそここで何してる、さっさと逃げろ!」
「……えっ、どういうこと?」
困惑した声で、尋ね返してくる高原。彼には、魔物が見えないのだと大河も感知していた。魔物は《魔視》のない人間には害をもたらさないということを知ってはいるものの、この戦いに友人を巻き込むことは、大河からしても憚られるのだった。
一瞬の迷いが魔物に勝利を確信させたのか、魔物は一声甲高く鳴くと翼を鳴らして二人の方へ飛んできた。大河は剣を振りかざして追い払おうとするが、魔物はそれをも意に介さない風に執拗に二人の真上を飛び回る。
さすがにその巨躯では、明瞭に姿を捉えることは難しくても、威圧感でもって存在感が尋常ではない。
もう一度、剣先を魔物にヒットさせようと試みるが、如何せん飛んでいるのでうまくいかない。それどころか、大河は魔物の行動に不自然な点を見出した。魔物は、大河の隣にいる高原だけを狙っているように見えたのだ。
大河は武器を持っているが、高原は様子からすると何も手にしていないようだった。魔物はそれを絶好の好機と捉えたのか、顔を前方に突き出して高原を襲おうと牙を剥く。大河はそれを、片手で高原を庇いながら必死に制止する。
高原を守るように後退しながら、大河は身体を捻って魔物の攻撃をかわしつつ、抗戦の時機を伺う。
少し魔物の動きが鈍ったのを見逃さず、大河は意気込んで直線の一閃を魔物の鼻に叩き込んだ。魔物が怯んだ隙きを見て、大河は高原の襟首を引っ張り、魔物の脇をくぐり抜けて参道の階段を今度は駆け下りた。高原は無言で首を左右に動かし、きょろきょろと不思議そうに周囲を見回しているようだ。
だが、魔物はやはり大河たちの後を追ってきた。背中の双翼が空を叩く音が、不穏な響きを孕んでいる。今はまず、高原を安全な場所まで連れていかなければならない。せめて、好桃とジカルがいるところまでは。
そう思っていた、その矢先。
足を滑らせた高原が、バランスを崩して階段を下りきる前にすっ転んでしまったのだ。大河は重力に引かれる彼の後ろ襟を離してしまい、高原は悲鳴を上げながら、そのままごろごろと階段を転がっていく。大河はそれを追いかけようとした――その時であった。
猛スピードで、何かが大河の横を通過した。大きい翼が、梢を透かして届いた僅かな月光を受けて、鈍く怪しい輝きを放った。
刹那、階段下の、やや勾配の緩やかな平らな道に達しようとした高原の身体を、魔物がその巨大で強靭な爪で捕らえ、彼の肩に噛みつくのが見えた。
「高原!!」
大河は地を蹴って跳ね上がり、残り数段の階段を飛び降りるようにして魔物の背後まで一気に迫ると、再び地面に足をつく前に剣を握った手に片方の手を添え、その背に思い切り突き立てる。落雷の瞬間のような、カメラのフラッシュのような、一瞬の光が閃いた。
魔物はすぐに高原の身体を解放し、後ろへ飛び退ると、大音声を上げた。紅の両眼で大河を睨みつけ、再度その口を開けば、銀でできた鉱物のような純白の牙が覗く。
大河が自分の顔を覆うように剣を前方にかざすと、間髪を入れず、魔物が彼に向かって猛突進を開始した。それに大河も応戦し、駆け出そうとした、その時。
糸のように細長い、数条の白い光がどこからか現れ、大河の顔の真横を通り過ぎると、瞬く間に魔物にまで達し、魔物の胴体を貫通した。魔物はまた甲高い咆哮を上げ、身悶えるように身体をわななかせ、背中の翼や、長い尻尾を振り回して苦しみ出した。
やがて魔物はしなだれ、動かなくなったと思うと、白く淡い光によって包まれ、光の粒子を辺りに撒き散らしながら、まるで浄化されるかのように、また夜空の彼方へと昇っていくように消えていった。光の結晶だけが舞っているところには、魔物の姿はもう跡形もなく、大河は剣を持て余したように腰のあたりにまで下ろすと、ただ呆然と立ち竦んでいた。
謎の光の糸は、勝利の愉悦に浸るように光の粒の中を、ゆらゆらと海月のように揺蕩うている。それの正体が一体何なのか、大河には無論、わからない。
「よかった、間に合って」
そんな声が、ふと大河の背後から彼の耳に届いた。
振り向いたその先に、足音だけが近づいてくる。月光により、風に揺れる長い髪がほのかに照らし出される。
結紀は大河の目の前で立ち止まると、掌を彼の眼前に近づけた。大河が驚いたのは、その手の五本の指先からそれぞれ伸びる、蛇のようにくねって揺れる光の線であった。
「どうしたんだ、それ……」
何故、結紀がここにいるのかよりも先に、大河はその光の正体を尋ねた。それを聞いた結紀が、不敵に微笑んだのが少量の明かりによって大河の目に映された。
結紀がふっと自らの手に息を吹きかけると、その光は見る見るうちに長さを縮め、彼女の指先に吸い込まれるようにして消えていった。その後しばらくは、結紀の指先には淡い光が残っていた。それは、彼女の爪であった。それぞれの爪が淡白な光を宿し、燦然と輝いている。
「これ、私の魔力みたいなの。初めて使ったけど、役に立ったでしょ?」
呆然とする大河を横目に、結紀は背を向けて階段の下に目をやった。大河も思い出し、そこに目を向ける。暗闇の中にも、ぼんやりと黒い影が横たわっているのが見て取れる。高原は、魔物に襲われてぐったりとしたまま、動かなくなっていた。
大河は結紀を通り過ぎ、慌てて高原のところに駆け寄った。ポケットから懐中電灯を出し、彼を照らし出す。高原は左肩のあたりの服が破れ、そこから血を流しているようだった。左の頬を、飛び散った赤い血が染めていた。
恐る恐る、大河は彼の胸に耳を近づける。ドクン、ドクン、という鈍い心臓の音が聞こえる。どうやら、まだ息はあるみたいである。
大河は立ち上がり、結紀に懐中電灯を渡す。そして、倒れている高原を背負うと残りの階段を降り始めた。結紀もその後を、彼の前の道を照らしながらついてくる。
「どこに行くつもり?」
「向こうに、好桃とジカルがいるはずなんだ。好桃は治癒魔法を使える。それで、こいつの傷も治してくれるはずだ」
結紀はその後、黙っていた。大河は懐中電灯の僅かな光を頼りに、ぐったりと項垂れて動かない高原のジーンズの太腿を両手でしっかりと持った。
階段を降りていくと、豆粒のような小さな光が見えた。それが、あの二人のいる休憩所だと確信し、そこに向けて大河は下っていく。
休憩所を探すと、やはり好桃とジカルがテーブル越しに向かい合って座っているのが確認できた。テーブルには大河のそれよりやや大きい、懐中電灯がオンの状態で置かれてあった。少量の灯りさえないこの場所で視界を少しでも確保するために、電燈の代わりとして使っているようだった。
大河が戻ってくる気配に気づいたのか、好桃は振り返った。大河を認めるやいなや、好桃は立ち上がって彼のところまで走ってきた。
「大河くん! どうしたの?」
そう言ってから、すぐに異変に気がついたように、大河の肩に顔を預けている高原に視線を移すと、好桃の表情が青ざめたのが大河にも心持ちわかった。
「ハピくん……? なんで……?」
「怪我してるんだ」
大河はその場に高原を下ろし、好桃の顔を見た――無論、表情まではわからないが。
「好桃。高原の傷、治せないか?」
「……やってみる!」
好桃はしゃがみ込んで、手探りで高原の傷口を探した。結紀が出てきて、高原の全身を電灯の明かりで満遍なく照らしてやる。好桃は、結紀の存在に気づく素振りも見せず、傷口を発見するとそこへ手を置いた。
ぎゅっと目を瞑り、神経を集中させていく。数秒後、彼女の手を青白い光が覆い、その光が徐々に強くなっていった。明るさが限界に達した頃、反動のように光は少しずつ薄くなり、やがては完全に消失した。後には、懐中電灯の光だけが残った。
好桃が手を離すと、高原の肩口の傷はすっかり消えていた。最後に、好桃は彼の胸に耳を当て、耳を離すとホッと安堵したように彼女はぐったりと地面に座り込んだ。
「よかった、うまくいったみたい。もう少しで目が覚めると思うけど、出血量が激しかったみたいだから、あとで病院に連れて行った方がいいかも」
「じゃ、私が連れてくよ」
結紀が、前に進み出た。
「……結紀ちゃん? 結紀ちゃんも来てたの?」
ようやく結紀の存在に気づいたらしく、好桃は立ち上がると驚きつつも嬉しいといった様子で、彼女に飛びついた。そこで大河は、高原の怪我を治すことで頭が一杯だったために、結紀にまだきけていなかったことがあるのを思い出した。
「そういや、聳城。なんで、お前、ここにいるんだ?」
「何? 来ちゃダメだった?」
「いや、そんなことねえけど……」
「だったら、いいんじゃない? きかなくて。それに私も、気になっただけだから。それよりも……」
結紀は、ジカルがいるテーブルの方に足を進めて、彼女に呼びかけた。
「ねえ」
ジカルはゆっくりと、結紀の方を振り向いた。
「ちょっとききたいことあるんだけど」
それを聞いていた大河には、結紀のジカルに対する疑問を予見できる気がした。
「魔物が見えないやつには、魔物の攻撃ってきかないんじゃなかったっけ?」
結紀が発した質問により、その場が一瞬にして静まり返った。大河にも、これまで失念していた疑問が蘇った。結紀への疑問よりももっと大事なそれであるのに、今まで忘れていたのはどういったわけか。
ジカルに真剣な視線を向けながら、大河は彼女の返答を待った。
しばらくの沈黙の後、ジカルの声だけが、山中の公園の中に木霊した。
「魔物が、この世界に馴れてきているのかもしれない」
「馴れて……?」
大河は彼女の言葉に、今ひとつピンとこなかった。それでも構わず、ジカルは言葉を継ぐ。
「私も、初めてこの世界に送られた時には予測していなかった。しかし今、魔物のこの世界への〝馴れ〟によってその魔力は次第に増幅していき、《魔視》を持つ持たないにかかわらず一つの物象として視認可能になってきているのかもしれない」
初めて聞く魔物の情報であったため、大河には一抹の不安が過った。さらに、話を続けるジカルによって不可解な言葉が大河の耳に入ってきた。
「お前たちの魔力も同じ。魔力の増幅により、お前たちの身体は現在、侵されている」
「……どういうことだよ?」
「魔力は、魔族でも扱いを間違えれば命の危険に晒されるもの。人間に魔力を植えつけると、付加された魔力はその日から徐々にその強度を増し、十日ほどで人間の体を完全に蝕み尽くす。そして、やがては人間の理性をも失わせてしまう」
「体を乗っ取られる、ってことか?」
大河は落ち着いた低い声で尋ねるが、内心ひどく動揺していた。昼間のあの頭痛も、魔力の増幅が原因だったのだろうかという疑念。昨日の夕方、結紀も頭痛がしたと言っていた。意識が徐々に混濁していき、再び混乱が襲う。大河は、どうにかそれを悟られまいと平静を保とうとゆっくりと呼吸をする。だが、後ろから啜り泣く声が風の音に混じって微かに聞こえ、心がまた一段と乱れる。好桃の声だった。
今、ジカルのいったことは、魔力を手に入れた人間の『死』を意味するのだろう。大河だけでなく、それは好桃にも咄嗟に判断できたらしい。
暗闇の中、大河はジカルが立っているはずの休憩所の方を見つめて言った。
「……どうすればいい?」
胸の動悸を抑えながら、大河はまたジカルからの返事を待つ。すると、冷えた水をグラスに注ぐようなジカルの声が、前方から聞こえる。
「……【ツインクル・テール】を保護し、魔物をすべて魔界に帰すことができれば、お前たちに宿っている魔力を取り除くことができる」
大河は目を閉じ、気持ちを落ち着かせながら逆算してみた。一週間前の月曜日に魔力を与えられたのだと仮定すると、今日で九日目だった。残るはあと一日。
これは、ジカルからの何としてでも今日中に【ツインクル・テール】を探し出せという啓発のように思われた。
「聳城」
「……な、何?」
「電灯は?」
結紀は大河に呼ばれ、彼に懐中電灯を手渡した。
「……どうするの?」
不安気な結紀の声。何か嫌な予感を悟ったようなその声の調子に、大河は彼女の白熱した不安を感じ取った。同時に、彼の中に芽生えたもう一つの感情があった。
これ以上、彼女たちを巻き込むわけにはいかない。
「……好桃と、ジカルを頼む」
「は?」
そして、大河は自分の前を照らしつつ参道の方に戻っていこうと足を進め始めた。
「ちょっと待ってよっ!」という結紀の呼び止めにも応じず、大河は奥へと歩いていく。
「大河くん……!?」
そのか細い声に、大河はようやく足を止める。好桃の、震えるような視線が首筋のあたりに突き刺さる感じを、否応なく大河は味わった。
「大丈夫だ、すぐ戻ってくる」
大河は振り向かずに至って平然とした口調で言うと、再び足を踏み出した。風が止み、草を踏みしだく音だけが、深閑な森の中に響く。
再度、自分の懐疑が真実かどうかを確かめに行くため、大河は電灯の光なしでは歩くこともできない闇の中へと姿を消すのだった。
久々の投稿です。
もうほとんどクライマックスなのですが、今夏中に完結できるか微妙なんですよね。
頑張って更新しますが、終わる時期についてはまだ未定です・・・。
あと、こういうのって後書きじゃなくて活動報告で書いた方がいいんでしょうか?




