「戦う理由」
自分の部屋の戸を閉め、ベッドに腰掛けると大河はスマホを操作した。
ちらりと壁掛け時計を見る。午後八時。
帰宅後、何故かお腹が空かなかったので、大河は妹たちの夕飯だけ用意して自分は食べずに二階に上がってしまった。妹からはひどく心配されたが、大河は大丈夫とだけ返した。
強いて言えば、今夜中にやらなければならないことがあったのだ。大河は桃山の番号に電話をかける。コール音が落ち着いた音色で、大河の耳に流れ込む。その音を聞きながら、大河はしばし黙る。だが、予想通り出ない。
やはり、山科の言う通り、音信不通になっているようだ。
十コール目を聞いた頃、大河は赤色の電話マークをタップし、スマホの画面を落として隣に置いた。そのまま、背中から後ろに倒れ込む。ゆっくりと瞼を閉じる。肉体及び精神の疲れが今日はいつも異常に甚だしく、それが睡魔となって現れる。
しばらくこうしていよう。大河は焦燥感に満ちた心を落ち着かせるため、そう思った。
――しかし。
目を開けているのか、閉じているのかさえもわからない。視界は暗闇だった。ただ、木の葉の擦れ合う音や、生ぬるい風の吹きつける感触が肌を掠める。
――? どういうことだ?
段々と、少しだが視界が鮮明になっていくのが大河にはわかった。
そこに広がった世界。だが、既視感もある。
あらゆるものを一瞬にして石のように固めてしまいそうなほど、怪しい木々に囲まれた一本の道が不気味に大河の前に伸びている。
大河は息を呑んだ。これは、間違いない。あの日、自分の身に奇怪な出来事が起こり始めた前日、夢の中で見たあの森だった。ジカルに見させられた夢。
――どうして?
心の中で呟いたが、大河がその答えを見出すのにそう時間は要さなかった。
自分がここにいるということは、この近くにジカルもいるということだ。大河は慎重に足を踏み出し、道を歩き始める。
どこかで、恐竜を思わせる咆哮が轟く。それを聞くと、大河は脇の木立に寄って木陰に身を隠し、周囲を窺う。細心の注意を払いながら、再び歩き出す。
夢の中とはいえ、これはおそらく現実なのだ。
その瞬間。
誰かの気配を感じ、咄嗟に振り向くと目の前に人影が見えた。大河は思わず飛び退った。
「私」
その人影は言った。大河は警戒しつつ目を凝らすと、スカートのシルエットが見える。それをジカルだと大河はすぐに解した。
「……何かわかったことでもあるのか?」
彼女の影に、冷静に訊問する。
ジカルは大河の前まで歩み寄ってきて、彼を見上げるように見つめた。月の光すら届かず、彼女の顔はよく見えないが何故か視線だけははっきりと強く感じられた。闇の中におぼろげに見えるジカルの瞳を大河は瞬きも忘れ見入っていると、彼女は何も言わず、大河の手に何かを握らせた。
大河は訝しがりながら、握った方の手でその感触を確かめる。表面はプラスチック製なのかつるつるしており、側面を触るとギザギザと鋭く細い棒状のものが何本も連なって並んでいるような触感がある。視界がほとんど真っ暗なためよく見えないが、どうやら櫛のようだ。
「……これ、どうしたんだ?」
大河が尋ねると、ジカルはすぐに答えた。
「拾った」
「……どこで?」
「ここ」
互いにしばらく沈黙し、その間、やや強めの風が通り過ぎて木々の枝葉を揺らした。
それから、大河は次の質問をした。
「……なんで、これを俺に?」
「これは、人界のもの。おそらく、そちらの世界に住む人間の所有物」
それを聞いた瞬間、大河はドクンと胸が脈打つのを覚えた。それは、自分の勘は正しかったのだという確証から来たものであった。それでも、まさか、そんなはずはない、と真実を頑なに拒む自分もやはりいた。
その時、すぐ近くから魔物らしき咆哮が聞こえた。大河は反射的に身構えると、辺りを睥睨するように見回す。
次に、ジカルの方を振り向き、尋ねる。
「……近くに魔物がいる。正確な位置、わかるか?」
「こちらまでの距離、約十二メートル。あちらも、こちらの存在を感知している模様」
暗闇で感覚が鈍くなっているようだが、魔物との距離はあまりないらしい。大河はジカルにもらった櫛をズボンのポケットに仕舞い、左手を使って手探りで右の手の甲を探し当てると、そこで人差し指を素早く滑らせる。
幸い、魔法陣がそれに反応したらしく、大河の右手の甲に刻まれた星は輝き出した。これで魔物に対しては、完全に自分の居場所を白日の下に晒してしまったことになる。もはや逃げることはできない。
大河の右手から出現した光が集まって一本の剣が生成されるのと同時に、森の奥の闇の中には二つの真紅の眼が出現し、それが真っ直ぐこちらに向かってくる。
剣を構える。
今まで隠れていた月が雲から露出したのか、卒然と降りてきた一条の光によってその巨躯は照らされた。やはり、現実の世界でも二度ほど対峙した、魔界に棲むドラゴン型の魔物であった。爛々と血色の目を光らせ、今にも食いつかんという風貌で大河を見下ろしてくる。
大河は燦然と輝き続ける右手の光剣の光だけを頼りに、ジカルに対して後ろに下がるように左手で合図を送り、またその手を右手に添える。
ジカルは彼の言う通りに後退し、大河は再び魔物に視線を転じる。……大河からすれば、見上げている状態だ。魔物との距離は、数十センチメートル圏内といったところだろう。
「属性は?」
風の音や木の葉の揺れる音を打ち消すような、後ろのジカルに聞こえるような声で、魔物に視線を固定したまま大河はそうきいた。
「炎」
わずかに、ジカルの声が聞こえる。
それから間髪入れずに、魔物は悲鳴のような声を上げた。銀色に輝く牙を剥き出しにし、濃紫の毛皮に覆われた巨体の主はじりじりと確実に大河との距離を詰める。大河はぎりぎりまで魔物を引きつけようと、身動きせず、呼吸を整え、攻撃を仕掛ける契機を窺った。
魔物が大口を開け、彼に襲いかかる。
今だ。大河は瞬時に腰を低くし、思い切り地面を蹴りつけた。そのタイミングで、素直さを捨てる。その対象は――
「いいか、よく聞け! 俺は、仕方なくお前らに協力してやってるだけだからな!」
ジカルに言っているのか、他の誰かに向けてなのか、大河自身もよくわからなかった。ただ、身体が一気に軽くなったような感覚に包まれ、膝を曲げ、弾みをつけて飛び上がると、魔物の頭部を軽々と上回った。
空中で光剣を振りかぶり、魔物に何かさせる暇をも与えず、それを勢いよく縦に振り下ろす。次の一瞬、遠雷のごとく白い光が閃き、爆散。この時、数日前にも体験したあの快感が、再び大河の全身を包み込んだ。
着地した時には魔物はすでに跡形もなく消えており、あの時と同じようにホコリ状の光の粒子が雪の結晶のようにひらひらと舞っているだけだった。
大河は手をぶらりと下ろし、剣身の先を地面に預けて佇んだ。そのまま放心状態で、消えずに漂っている結晶をただ眺めていた。
思考が停止し、自分が何者なのかもわからなくなった。
『何故、お前はここにいる? お前は誰だ?』
内側から、彼に問いかけてくる声があった。
『お前は世界を恨んでいるんじゃなかったのか? 何故、救おうとしている?』
――わからない、何も。俺は、どうして……。
唐突に蘇ってくる、憎悪に満ちた日々。嫉妬に染まった人間のせいで、突如として奪われてしまった日常。それはもう、戻っては来ない。醜い人間によって、すべて壊されてしまったのだ。
視界が歪んだ。次いで、淡い光が世界を白く染め上げていく。
意識を手放す過程の中で、大河は次のような言葉を聞いたような気がした。
『――お前はもう、自由なのだ』
それは紛うことなく、大河自身の持つ声であった。
今回も、新しく追加した話です。
実は全体の半分くらい、当初は存在しなかった話があるんですよ。




