「欺瞞と不条理」
また数分が経過すると、花凛が戻ってきた。
彼女は腰を下ろすと、向かい側に座っている大河の前に、一枚の写真を置いた。何が写っているのかと、大河はその写真を覗き込む。それには二人の男女が写っていた。
右側に写っているのは花凛だ。制服が違うところを見ると、おそらく中学生の頃に撮影したものだろう。しかし、それよりも大河に衝撃を与えることがあった。そこに写っている彼女は優しさを具現化したような、無垢な笑顔を浮かべていたのだ。こんな表情は、今目の前にいる花凛からは想像もつかない。
大河は、写真と実物の花凛を見比べてみるが、顔を見る限りどうやら本人のようだ。
そして、その隣にはもう一人、高校生くらいの男子が写っている。彼もまた、花凛の肩に手を添えながら微笑んでいる。大河には、これが誰なのかわからない。加えて、彼女がこの写真を見せてきた意図も見えてこない。
「あの……これ……」
この写真について、大河が尋問しようとしたところ、その前に花凛は答えた。
「ここに写っているの、私の兄」
花凛の隣に写っているのは彼女の兄だという。しかしそれがわかっても、まだ疑問は残っている。
「この写真が、どうかしたのか?」
何故、花凛がこの写真を見せてきたのかわからない。大河は頭を抱えそうになっていると、花凛が口を開いた。
「兄は、医者を目指していた」
何か伝えたいことがあるようだったので、大河は何も言わず、彼女の話に耳を傾けることにした。聞けばわかるだろう、ということだ。
そうして、花凛は話し始める。
「兄は、学校ではいつも成績優秀、両親からも将来を期待されていた」
他人事みたいに話すんだな、と大河は不思議に思ったが、黙っておくことにする。
「でも、その存在を妬んだ数人の生徒たちによって、兄は疎外されていった。それでも、兄は誰かに頼ろうとはしなかった。私は、そんな兄の姿を見るのが辛かった」
その話を聞き、大河は強い怒りに駆られた。他人事とは思えないほどの激情。塞がりかけていた傷を再び抉られるような、不快感のある疼痛。
妬み……理不尽……それらの言葉が、大河の視界を飛び回る。
さらに、花凛は話し続けた。そして、それは予想以上に重い言葉であった。
「皆から兄への嫌がらせはどんどんエスカレートしていき、やがてそれらに耐えきれなくなった兄は、両親と私に宛てた遺書を残し、自ら命を断った」
花凛は俯き、それ以来黙ってしまった。
大河は、彼女の気持ちを少しだけ理解できるような気がした。自分も似たようなことを経験したのだ。だが、やはり腑に落ちない部分もある。
「なんで……それを俺に言おうと思ったんだ?」
「わからない……。何故、それを君に教えようと思ったのか、私にもわからない。そして……どうして周りと同じでいないといけないのかも、わからない」
大河は、返す言葉を見失った。
すると花凛は顔を上げて、こう続けた。
「何故、兄は死ななければならなかった? 何故、目立つと周りから疎まれる? 私は、この道理が理解できない」
訴えるような真剣な目で問う花凛に、大河は何も答えることができず、目の前の彼女をただ見ていた。
「兄は……真面目だった。誰に対しても優しく、私もそんな兄が大好きだった。それなのに、兄は世間から見放されてしまった……」
視線を写真に落としながら、言葉をつなぐ花凛。それは無表情ながらも、大河には悔しそうに見えた。
「理不尽、だよな……」
大河も思わず、そんな声を漏らす。花凛は大河を見つめ、
「君も、仲間から裏切られたことがある?」
ときくので、
「誰かから聞いたのか?」
大河が問い返すと、花凛は部屋の掃出し窓の方に視線を移した。
その視線を追うと、窓に影が映っていた。日はすでに落ちたようで、外は暗い。しかし、窓の向こうに誰かがいるのは間違いないように思われる。顔はよくわからないが、スカートのシルエットだけが、女だろうと大河に思わせたのだ。
気になった大河は立ち上がり、そこへ行った。
そして窓を開けた瞬間、大河は目を疑った。縁側の前に立っていたのはジカルだったのだ。
「何してんだよ……」
溜息のような声を発する大河を、ジカルは黙って見上げている。その時、大河はハッと息を呑む。まさか……という不安を抱きつつ、これまでの出来事を順に思い返した。
花凛が自分を家に連れてきた理由、亡くなった兄のことを話してくれた理由。それらは彼女の気まぐれなどでは決してなかったのだ。
大河は花凛の方を振り返ると、
「こいつに聞いたのか?」
と、糾問するような口調できいた。すると、花凛は大河と目を合わさずにこくりと頷く。
そこで、花凛も《魔視》を持っているのだと確信する。彼女もまた、【ツインクル・テール】の捜索をジカルから依頼されたのだろうか。
もう一度、大河は庭の方を振り返った。だが、そこにジカルの姿はなかった。大河は激しい憤りを覚えながら、静かに窓を閉めた。しかし、その手はわずかに震えていた。つい先日、他の人間には関わるなと釘を差したばかりではないか。それなのに、ジカルは。
大河は再び卓袱台のところに戻り、花凛の前に腰を下ろす。しばらく間を置いてから、彼女に尋ねる。
「あいつから、他に何か聞いたか?」
「ツインクル・テールのこと」
やはりか、と大河は天井を仰ぐ。次に、花凛は言った。
「人間は、平気で人を欺き、傷つける生き物。用がなくなれば、躊躇うことなく捨てる。それは子どもであろうと一緒。毎日、世界のどこかでは多くの子が居場所を失っている」
大河はそれを聞いて花凛に視線を戻した。
「それは俺もわかる。うちの親、孤児院やってるんだ。帰る場所のない、色んな子どもの世話をしてるんだよ」
正直、こんな話をするなど思ってもみなかったが、大河は彼女に対して親近感のようなものを覚え始めている自分に気づいた。
「……なんか、意外だな。お前がそんなこと言うなんて」
「君は、子どもが好き?」
花凛が、真っ直ぐに大河を見つめて尋ねてくる。
「まあな。親の影響もあるんだろうけど、世話するのとか、何気に好きだったりする」
好桃に関しては嫌々世話しているのだが、と心の中でつけ足す。そうすると、花凛が思わぬことを言い出した。
「私は、君が好き」
「…………はぁ!?」
あまりにも突拍子もない発言に、大河は素っ頓狂な声を上げる。一方、花凛は冷静な物言いで続けた。
「しかし、それは恋愛感情から来るものではなかった」
意味不明なことを言う彼女に、大河は怪訝な目線を向ける。
「……どういう意味だよ?」
「君と私は、似ているところがある。ずっと君に、同じ匂いを感じていた」
花凛はそう言うが、大河にはよく理解できなかった。
「そんなに似てるとは思わないけどな」
「私がそう思っただけ。君がどう思うかは、君の勝手。ここからは、君の思考の領域。他人が干渉することはできない」
大河は少し安堵した。同時に、動揺してしまった自分が恥ずかしくなる。
「そういうことかよ……びっくりさせやがって」
大河は、相変わらず漆黒の液体が注がれた湯飲みの方に視線を落とすと、また花凛の言葉が耳に入った。
「でも、君の優しさは好き」
大河は顔を上げず、湯飲みを見つめ続ける。数秒ほどしてから、再び彼女の声が聞こえた。
「誰かが困っていれば助けてくれる。それは、誰にでもできることではない」
「……ただの気まぐれだ」
目を伏せたまま、大河は答えた。少し頬に熱がこもるような感覚になり、余計に顔を上げることができなかった。花凛も、それ以上は何も言ってこない。ただ、そこに沈黙だけが居座った。大河から見て左側の壁からは、時計の規則正しい秒針音だけが聞こえる。
大河はそこに目を向けると、針は七時をすでに回っている。今から出れば、辛うじて妹よりも早く帰宅できるかもしれない。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
と言って、脇に置いてある鞄を持つと、大河は立ち上がった。
そのまま花凛の横を通り過ぎようとした時、彼女が両手で大河の袖を掴んだ。大河が花凛の方を見やると、彼女は下を向き、小さな声でこんなことをきいた。
「ツインクル・テールは……本当にいると思う?」
「……さあな」
大河には、何が正解なのかわからない。【ツインクル・テール】は魔界に伝わる伝説上の生き物で、実在するかも今のところわからないのだ。それゆえ、これが今言える正直な答えだったのかもしれない。花凛もそれを理解したのか、静かに手を離した。
その後、大河は和室を出て玄関の方に行ったが、花凛は見送りに出てこなかった。
家の外に出るとやはり日は完全に沈んでいて、濃紫の空が果てしなく広がっているだけであった。姉はともかく、妹は間もなく帰宅してくる。急いで帰らねばならない。
庭に置いてあった自転車を押し、門の外に出ると静かに扉を閉める。それから大河はサドルに跨がり、ペダルを漕ぎ始めた。
心地のよい夜風が大河の頬を撫で、速度を上げる。しかししばらく走ると数メートル向こうに人の影を認め、大河は急いでブレーキをかけて停まった。大河は前を凝視すると、ジカルがこちらを見て立っているのがわかった。
しばし互いに見つめ合っていると、ジカルの方から大河に歩み寄ってきた。街灯の明かりがジカルの顔をはっきりと照らし出し、彼女の異様な風貌が顕になる。ジカルは大河の前に来ると、静かに口を動かした。
「……話がある」
「奇遇だな、俺も話があったんだ」
大河もすぐに答えた。
「俺、あの時言ったよな。俺以外の人間には関わるなって」
「人間は他者を欺く生き物。私は、その道理に倣っただけのこと」
またしてもよくわからないことを言うジカルに、大河はやや消沈する。
「お前は、俺にどうしてほしいんだよ……」
思わずそんな言葉を漏らすと、ジカルは即座に返してきた。
「ツインクル・テールを見つけてほしい」
「だったら、もっと詳しい情報を教えてくれ。それだけじゃ、探しようがねえんだよ。というか、そんなに言うなら自分で探せばいいだろ」
今さらのように浮かんでくる疑問に、少々辟易した態度を見せる大河。何故、一緒になって探さなければならないのだろう。以前から感じていたことではあるが、いるかわからないものを探すほど、時間的余裕もない。ただ、一人では探せないということなのだろう。
大河が閉口していると、ジカルが続いてこんな話をする。
「私は今、【ツインクル・テール】が人間界に出てきてしまった原因を調査している」
「それで、何かわかったのか?」
大河はきいた。
「詳しい事情については、よくわかっていない」
要するに、それが判明するまでの間、効率をよくするために大河たちや《魔視》がある他の者たちに【ツインクル・テール】の捜索を手伝わせたいということだろう。それならば、尚さら迷惑だと大河は思うのだった。
ジカルは光のない目で大河を見つめながら、言葉を続けた。
「これは、《魔視》を持たない人間には頼めない。私は、お前たちを信頼している」
その時、大河は不意に結紀から言われたことを思い出した。
「今日さ、あるやつから言われたんだよ。過去をなかったことにはできないんだって。それは単に、逃げてるだけだって……。けど俺、あのことを思い出す度に思うんだよ。こんな理不尽な世界が、存在する意義はあるのかなって」
この世界に対する疑問、不信感。それらが、大河の中でいつまでも根強く残っていた。受け入れようとしても、反射的にそれを拒んでいる自分がいるのだ。
大河の言葉を聞いたジカルは、
「人道の不条理は、人間によって引き起こされるもの。それを受け入れるのも、また人間」
という意味深長な発言を残し、幽霊のように消え去っていった。大河は不意に引き止めようと手を伸ばしたが、その甲斐なく彼女に消えてしまった。
大河はしばらく、その場に佇んでいた。遠くから、車のクラクションの音が聞こえたような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。ただ、ジカルが自分に何を伝えたかったのかを考えていたのだ。
好桃も、花凛も《魔視》を持っている。それぞれ理由は違うが、二人とも辛い、思い出すに忍びない過去を背負っている。ゆえに、この世界を相当憎んでいるのだろう。大河も仲間だと思っていた者にあっさりと裏切られ、行き場を失ってしまった。そして、ずっとその過去に背を向け続けてきたのも自分自身だった。
もしかすると、花凛は何かを伝えたかったのかもしれない。それは、過去を受け入れる重要性だろうか。それとも、結紀のように逃げずに立ち向かえと背中を押してくれたのだろうか。そんな思考を巡らせていたが、すぐ横を通り過ぎた車のヘッドライトによって大河は我に返り、再び自転車に乗ってジカルがフェードアウトした路地を家に向けて走り出すのだった。