「いつもの朝」
携帯電話の振動音で目が覚める。
寝返りを打ち、瞼を上げた。目の前の本棚の下には、乱雑に放置された鞄やシューズ。カーテンの隙間から朝を知らせるように射し込む陽光によって、部屋の中が隈なく照らされている。
山でも森でもない。そこは紛れもなく、大河の部屋だった。布団の中でそっと左手で右手を触ると、痛みもない。
やはりあれは夢だったのだ。それを悟った瞬間、大河は心底安堵した。
起き上がりざまに、枕元で震え続けるスマートフォン型の携帯電話を取って画面を確認。そこには「飛鳥好桃」という名があった。大河の幼馴染の女子からだった。
勉強机の上の目覚まし時計を見やると、まだ七時前だ。こんな朝早くに何の用があるのだ、と大河はやや辟易しながら、通話ボタンを押す。
大河が電話に出るや否や、好桃が「大事なものがなくなったから今すぐ来てほしい」という内容のことをまくし立てるように言った。何がなくなったのかもわからない。だが、それを大河が尋ねようとしても、その前に通話は切られてしまった。
好桃の行動に、大河は深く溜息をつく。
とりあえず、好桃のアパートに行かなければならない。まだ寝ていたいという気持ちを仕方なく振り切り、大河はベッドから両足を下ろして立ち上がった。
好桃は近くのアパートで暮らしている。着替えるためクローゼットの前に行き、観音開きの扉に備え付けられた鏡に映る、寝癖のついた自分を見た。目の下に、どこか疲れたような陰ができている。いつも通りの時間に寝床に入ったはずなのに……と少し疑問に思いつつも、大河は一息ついて扉の取手に右手をかけようとした。その時。
ふとその手を見ると、異変に気づく。甲の辺りに傷のような跡があるのだ。いや、傷というより模様と表現した方がいいかもしれない。中指の下の出っ張りを頂点とした五点が赤いラインによって星の形に結ばれ、その形はまさに西洋の神話などにしばしば登場する魔法陣のそれだった。
まだ夢から覚めていないのか、と大河は不気味に思う。しかも奇妙なことに、痛みは少しも感じないのだ。次いで、大河は模様のあるところが夢の中で怪物に攻撃された部位であることを思い出した。あの時、怪物の爪が掠り、傷がついたのは確かに右手の甲の辺りだった。
気味悪さに思わず、大河は目を背けた。疲れているせいか、きっと幻覚を見ているのだ、と無理やり自分に言い聞かせながらクローゼットの扉を開ける。
中から制服を出し、着替え終わると大河は、床に置いてあった鞄を持って部屋を出た。
七時を少し回った頃だったが、父親はすでに出勤していた。一方、姉や妹はまだ眠っている時刻だ。大河は急いで階段を駆け降りると、救急箱を出してそこから包帯を取り出し、先程の右手をぐるぐる巻きにした。それから、家を出ようと玄関に走ったが、ふと用事を思い出してリビングに戻った。
大河の両親は数年前に離婚し、母親は家を出た。父親も毎朝のように朝早くから出勤し、夜遅くに帰宅することが多い。故に、普段は大河が妹の弁当を拵えるのが通例となっているのだ。しかし、この日は予期せぬ呼び出しが入ったため、そんな余裕はない。もちろん、どんな用事かはまだ聞いていないのだが。
大河は仕方なく、自らの財布から千円札を一枚出すとテーブルのところに行き、それを妹の席に置いた。さらに、適当なメモ書きを残してから再び玄関に向かう。
ドアを開けるとすぐ、春の日射しが家の中に舞い込んだ。
新学期に入ってから、二週目となる月曜日。だが、先週から低気圧が停滞しているせいで、外の気温はあまり高くはない。
好桃の住むアパートは大河の家から目と鼻の先で、徒歩で数分という距離だった。この日は無理やり起こされたこともあって大河は少々頭痛を催したが、後ろ髪の寝癖を揺らしつつ、小走りでアパートに向かった。
大河と好桃は、同じ高校に通っている。そのため、好桃を迎えに行ってから一緒に登校するのが大河の毎朝の習慣となっているのだ。しかし、今日はいつもより一時間近くも早い(起こされたからだが)ため、まだ眠気が残っている。遠くからの小鳥の囀りを聞きながら、大河は足を進めた。
アパートの下には、三分ほどで着いた。古びた小さいアパートだが、高校生が一人で暮らす分には差し障りなかった。
外壁に沿うように駐輪場が設けられ、その傍からは二階に上がるための階段が伸びている。大河はそこを駆け上がり、好桃の部屋の前まで行くとチャイムを鳴らす。
十数秒後ほどしてから、中から顔を出したのは大河の幼馴染である飛鳥好桃だった。
「あ……、大河君。おはよう」
「で、何がなくなったんだよ?」
彼女を見るなり、今度は大河が安眠を邪魔されて苛々していたことも手伝って、まくし立てるように尋ねた。しかし、まだ寝間着姿の好桃は、恥ずかしそうに顔を赤くしたまま目を伏せている。
「う、うん……ちょっと……ね」
歯切れの悪い物言いに大河はますます気分を悪くしたが、とりあえず好桃は戸を大きく押し開けて中に通してくれた。大河は、廊下を彼女の後に続いた。
好桃の部屋を覗くと、衣服やらぬいぐるみやらが床に散乱し、それらの特徴や壁の色合いを除けば、とても女子の部屋とは思いがたかった。
好桃は一人暮らしだった。大河の父は孤児院を営んでいて、身寄りのない子供たちを預かっては世話をしている。彼はその院長でもあった。
好桃は年長だった頃、初めてそこに来た。生まれてすぐに両親を病気で立て続けに亡くし、それからしばらくは叔母の家に引き取られていたが、その叔母も彼女が五歳の時に病気で他界した。好桃は中学卒業までの時間を孤児院で過ごし、高校に進学すると同時にこのアパートにて一人暮らしを始めた。そして、今年の春で二年目に入っていた。
一年前、大河は好桃の引っ越し祝いに赤いリボンをプレゼントした。今朝、それが紛失していることに気づいたのだという。彼女はそれをとても大事にしているようだった。
「昨日まではあったんだけど……」
ベッドの上に蹲りながら、今にも泣き出しそうな顔で好桃は言う。とても深刻そうに見えるが、大河からしてみれば、そんなことで呼び出されたのかと肩を落とすレベルだ。
「べつになくてもいいだろ、百均で買ったやつだし」
「イヤ! せっかく、大河君が買ってくれたのに……」
リボンごときに執着し過ぎだろうと大河は思ったが、寝癖ではねた髪を揺らしながら好桃が強い口調で主張してくる様子は、まるで小さい子が駄々をこねているかのようだった。大河は少し眉を寄せていたが、このまま好桃の相手をする方が面倒だと判断し、仕方なく探してやることにした。
部屋の中は、すでに好桃が探した形跡があった。というか、散らかっているのはどう見ても何かを探したからだった。ひとまず、大河は他に思い当たる場所として、ダイニングを見にいってみた。
台所などは比較的きれいだった。というよりはこの間、大河が好桃の夕食を作りに来てから、手付かずといった具合だ。ただ、彼女の部屋と比べてリビングはまだ片付いていたため、小物が紛失するようには思えない。好桃が自分で掃除をしたのは怪しいところだが。
次に脱衣所を覗くと、洗濯機の周りにも洋服などが散乱している。このような惨状を見て、大河は先程よりも頭痛がひどくなるのを覚えた。これでは探しものをするのも辟易してしまう。その時、視界に入った衣類の山の下から、赤くて細長いものがはみ出しているのに気づいた。その端をつまみ上げると、するすると赤いリボンが伸びてくる。それは去年、大河が一人暮らしを始める好桃にとあげたものだった。
好桃の寝室に戻ってみると、彼女はじっとベッドの上で体育座りした状態のまま、大河を待っていた。
「おい、あったぞ」
大河は、好桃の視界にリボンの先端が入るように、リボンを垂らして見せた。それを認めた彼女はすぐさま、顔を輝かせる。
「あ、ああ、ありがとう!」
歓喜の声を震わせ、好桃は三十センチほどの細い赤いリボンを受け取った。彼女はすぐに髪を後ろで一つに束ね、黒いゴム紐で縛るとそこにリボンを巻きつけて蝶々結びを作り、首筋へと垂らす。
大河が部屋にあった壁掛け時計を見やると、針はすでに八時前を指している。どうにか学校には間に合いそうだ。
今回はキリがあまり良くないですが、長いと思ったので分けました。