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ツンデレ男子と魔界怪奇譚  作者: 橘樹 啓人
第一部 TWINKLE TAIL
16/46

「闇夜の水魔」

 昇降口を出て校門を抜けると、大河は帰路に着いた。ついでに好桃のアパートに寄ることにした。今朝、姉にメールを送ったものの、自分よりずぼらな姉のことだから心配だ。好桃とは知らない関係ではないし、今日は午前の授業も入っていないらしいので、彼女の様子を見に行ってくれたと思いたいが、やはり癖もしくは長年の因習になっているのか、どうしても放っては帰れない。


 アパートの下に着くとすぐ、大河は階段を上がった。鍵でドアを開け、中を覗くと暗い廊下が伸びている。電気は消えており、物音一つしない。

 中に踏み入れると、好桃の部屋の前まで行ってドアをノックする。


「好桃、いるか?」


 声をかけるが、反応は返ってこない。少々、不安が過ぎる。


 返答を待たず、大河はドアを開けた。カーテンによって外光は遮断され、室内は薄暗い。音も時計の秒針音以外は特になく、誰もいないのではないかと思わせるくらいの静けさだ。だが窓際にちょこんと置いてあるベッドが、掛け布団によってむっくりと膨らんでいる。その盛り上がったところが僅かに動き、布団の端から小さな手が現れる。次いで、その手によって布団が僅かに下部の方に押し退けられた。


「大河くん、来てたの……?」


 好桃は今まで寝ていたらしい。寝ていた、というよりは微睡んでいただけのようで、眠りに入る寸前で大河がドアを開けたため、その小さな音によって意識が回復したのだろう。


「熱は?」

「さっき計ったら、まだ三十七度五分あったの」

「泉……姉貴は来たのか?」

「うん、来たよ。お粥、作ってくれた」


 それを聞いて、大河は一安心した。正直、メールすらも見ていないのではないかと危惧していたのだが、姉はちゃんとこの部屋に来たようだ。


「じゃあ、俺は帰るから、安静にしてろよ」


 大河はそう言うと、身を翻してベッドに背を向けた。


「……もう帰っちゃうの?」


 寂しさの混ざった声に後ろ髪を引かれ、大河は立ち止まる。振り向くと、案の定、好桃が横になりながら今にも泣き出しそうな顔で、不安げな視線を大河に投げていた。


「……家の手伝いがあるんだよ。明日は学校、どうする?」


 いつもならここまで優しくしないが、病人を目の前にすると大河は急に胸が苦しくなるのを覚えた。さすがに弱っている相手に対しては、あまり辛辣なことは言えない。


「……休む」


 覚束ない声で好桃が答えると、


「じゃ、明日も様子だけ見に来てやる」


 とだけ大河は言い残し、部屋を出た。好桃も納得したのか、それから彼女に呼び止められることはなかった。


 アパートを出て、大河は自宅に足を向けた。馬鹿は風邪を引かないと言うが、どうやら迷信のようだ。無論、大河は迷信などといった類も信じるに値するものではないと思っている。しかし、昨日から、その観念が少しずつ崩壊しようとしていた。


 常識的に考えて絶対に起こり得ないことが、実際に身に起こってしまえば信じるしかない。昨夜、この目で目の当たりにした少女と魔物。あれが夢でないとするなら、また自分の目の前に現れる予感がする。……いや、間違いなく姿を表すだろう。大河は自分の中に、あの時よりも確かな恐怖感が芽生えてきていることを自覚していた。


***


 夜。大河が自室のベッドの上で読書していると、誰かがドアを開けた。顔を覗かせたのは、妹の愛玖空だった。風呂から上がったばかりで、タオルを首に掛け、湿った髪を胸元の辺りにまで垂らしている妹は、兄の大河に甘えるように言った。


「兄ちゃん、お米切れっちゃってるんだけど。買ってきて?」

「あぁ? なんで俺が……」

「だって私、もうお風呂入っちゃったもん。お姉ちゃんはバイトで遅くなるって言ってたし。お父さんはまだ残業終わってないみたい」


 妹は兄の返答も聞かずに、「よろしくね〜」と言ってドアを閉めてしまった。大河は少しげんなりしたが、仕方なく本を置き、立ち上がった。ちらと部屋の壁にかかっている時計を見やると、八時を回ったところだ。

 コンビニにしよう、と大河は漠然と考えながら、財布をポケットに入れ、部屋を出て階段を降りた。徒歩十分のところにコンビニがある。スーパーも近くにあるにはあるが、公園を迂回して行かなければならないので、やや効率が悪い。


 大河は玄関で靴を履くと、戸棚に嵌め込まれた姿見に映る自分の姿が目についた。長袖のチェック柄のシャツに半袖のパーカー、下はグレーのスウェットといったラフな格好だが、コンビニへ行くだけなら着替える必要もなさそうだ。


 玄関から外に出ると、肌寒い風が頬を刺した。やはり、この季節は昼と夜の寒暖差がまだまだ激しいようだ。はやく用事を済ませて戻ってきたかった大河は、庭に駐めてあった自転車のロックを外し、門の外に出してサドルに跨ると漕ぎ出した。


 コンビニまでは数分もあれば着いた。そこで素早く米2kgと500mlのペットボトルの水を購入し、急いで外に出る。そして自転車のところまで行き、袋を前方のバスケットに乗せると再び走らせた。夜風が気持ちよく、大河は軽くスピードを上げた。


 やがて、公園が見えてくる。その横を通過しようとした時、大河は何気なく公園の中に目を向けた。そこで、はっとして急ブレーキをかける。ポールが無造作に並んだ入園口の前で停車し、向こうを凝視する。噴水の前に、人影が見える。大河は不可解に思い、さらにじっと目を凝らす。


 噴水の周りに並んだ電燈に照らされていたのは、ジカルだった。黒いワンピース、異色の水色の髪がそれを示していた。ジカルは大河に背を向けたまま、じっと水の流れ落ちるさまを見つめている。その様子からも、まだ大河の存在には気づいていないようだ。


 ジカルが何をしているのかまではわからないが、咄嗟に大河は話しかけてはならないと判断し、再び自転車を走らせようとした。


 その瞬間。黒い影のようなものが、大河の真上を通過した。大河は驚いて上を見上げると、巨大な魔物が漆黒の翼を広げてジカル目がけて飛んでいった。


 その時、大河はあることを予感し、ジカルに向かって叫んだ。


「ジカル! 後ろ!」


 その声を聞いてジカルは振り返ったが、大河は自転車を投げ捨てるようにそれから飛び降りると、駆け出した。走りながら、左手の人差し指で右手の甲に描かれた星をなぞる。すると星が白く輝き出し、大河の眼前で光の粉を撒き散らしながら魔法陣が展開する。それは瞬く間に純白の長剣へと変貌し、大河の右手に収まる。


 大河はさらに加速し、転がり込むようにジカルの前に背を向けて立ちはだかると、空から飛翔してくる魔物に向けて剣を構えた。魔物は、殺気に満ちた目を赤く光らせながら巨大な口を開けた。大河は小声でジカルに「下がってろ」と命じた。ジカルは素直に大河から離れ、噴水の裏側に回り込んだ。


 大河はギリギリまで魔物を引きつけようと、両手で剣を構えたまま身じろぎもしなかった。魔物との距離が一気に縮まっていく。しかし、頭から突っ込んできたと思った魔物は、大河の目の前まで来た瞬間、勃然と頭を上向けて両手の鋭い爪でガシッと大河の肩を捕らえた。


 両肩を掴まれた大河は激しく動揺し、頭の中が真っ白になった。それから魔物はまた口を大きく開け、大河に近づけてきた。黄色く光る上下の牙は、噛まれた瞬間にその生命は奪われてしまうことを啓示しているようだった。


 目前に「死」が迫っているということを、大河は悟った。ずっと心のどこかで願っていたこと。「生きていること」に楽しみを見出だせなくなり、この世界に憎悪を抱くようになり、いつしか世界の破滅を願うようにまでなった。しかし、いざそれを味わってみるとかつて感じたこともない恐怖に襲われる。明白な「死」がそこに迫っている。


 大河は目を見開き、両手でしっかりと剣の柄を握りしめ、ゆっくりと持ち上げた。そして、魔物の口の中に突きこむ。一瞬、閃光が瞬き、魔物はその光に驚いたのか大きく後退して着地した。その反動で、大河も数メートル後ろに弾き飛ばされ、尻餅をついた。同時に剣が地面に叩きつけられ、甲高い金属音が響く。


 大河は両肩に鋭い痛みを覚え、両腕にも筋肉痛などとは比にならないほどの痛みが走るのを感じる。しかし、敵は大河に一休みする暇すら与えてくれないらしい。魔物は大河から離れて僅か数秒で体を立て直し、地面を這いながら再び彼に向かってくる。それを見て、大河は立ち上がりざまに後ろへ飛び退った。


 魔物は腹を地面から離してゆっくりと起き上がると、また不気味な咆哮を上げた。すると鼻の穴を膨らませ、眼を赤い宝石のように一層輝かさせながら、睥睨する。憎悪に満ちたような目線を浴びせられ、大河は一瞬、身震いするような感覚に支配されて戦慄した。


 次いで魔物は、ハアァァァ、という何かを吸い込むような音を響かせた。今度は何をする気かと大河は警戒しながら、その口許を注視する。一方、魔物はその場を動かず、大河を睨んだまま奇怪な音を出し続けていた。


 しばらくして、大河はやっと異変に気づく。また魔物の口周りを何かが覆っているのだ。炎か? いや、違う。魔物は口の中で、透明な液体を生成していた。


 ――水だ!


 そう思った時には、やや遅かった。魔物は一気に水を吐き出し、大河を襲った。避けることは難しいと判断した大河は、それを受けようとして剣を前に掲げたが、いかんせん大量の水を吐き出されたので、剣もろとも吹き飛ばされてしまった。


 大河は空中を舞い、落下感覚に無抵抗に足掻いた。やがて金属質の何かに激突し、激しい痛みに襲われながら倒れ込む。なんとか膝を立てて、地面に片手をつくと起き上がった。全身びしょ濡れになってしまい、髪から頬へと伝う数多の水滴が、さらに地面を濡らす。大河は振り返ってみると、並んだいくつものポールが目に入った。


 入園口から噴水までの距離は、50メートルはゆうにあるだろう。あの水攻撃だけでこんなところまで飛ばされたのだとしたら、あの魔物の力は計り知れない。もはや絶望しか感じられなくなる。だが、昨夜の炎攻撃と比較すればダメージ的には遥かに軽いだろう。

 魔物によって攻撃のパターンが異なるとは聞いていないが、そうだと仮定した場合、昨日の魔物よりは倒しやすいとさえ思える。


 大河は立ち上がると剣を構え直し、再び駆け出した。十秒ほどで魔物に肉迫し、重い大剣を精一杯に振りかぶり、また魔物の口を狙う。しかし、首から腹にかけて後ろに反らされ、あっさりと避けられてしまった。勢い余った大河は噴水の縁に足を引っ掛け、頭から水中へダイブしてしまった。即座に上体を起こしたが、濡れた髪や服が肌に張りつく感覚に僅かに不快感を覚える。


 魔物はなおも勢いを止めず、襲いかかってこようと突っ込んでくるので、大河は噴水の底を蹴ってジャンプし、それを回避した。大河は魔物の背後に着地し、魔物が振り返るまでの時間を、体勢を立て直す時間に当てた。


 計算通り、魔物が180度向きを変える頃には、大河は再び攻撃を仕掛ける姿勢に入っていた。魔物はもう一度、口の中で水を生成し始める。先程のことを顧みれば、生成して繰り出すまでには数秒はかかったはずだ。その隙に仕留めるしかない。


 大河は軽く頭を振って水を飛ばし、少しでも髪を軽くしてから、膝を曲げて地を蹴る準備に入る。ぐぐっと腰を落とし、魔物が水を繰り出そうとした瞬間――大河は力強く右足を地面に叩きつけ、電光石火のごとく魔物を目指して走り出した。


 魔物は迎撃するように直径1メートルほどの水の球を繰り出したが、大河はぎりぎりで避けてさらに速度を上げる。そして剣を肩の位置に構え、横薙ぎに一振りしようとした。しかし、両手でやっと扱えるくらいの質量ゆえに、手に負担がかかり、僅かに照準が逸れてしまった。剣は虚しく魔物の顎の下の空を切り、大河はまた噴水に突っ込んでいこうとしたが、なんとか両足に力を込めて踏み止まった。


 だが、ここで安心するわけにはいかない。後ろを振り仰ぐと、魔物が再び水球を繰り出そうとしている。大河は、右にジャンプして魔物の攻撃を躱したが、水の塊は地面に当たって大量の飛沫を上げ、そのうちの何滴かが彼の左手にチップした。その時――


 ――熱ッッ!


 かかった水滴が針で刺すような痛みとなって、皮膚に染み込むような感覚を大河に与えた。大河は片膝をついて着地し、数秒後にそれが熱湯だと悟った。その瞬間、大河の中にある危惧が芽生え、次第に四方八方に太い根を張っていった。


 ――こいつ、炎技も使えるのか?


 大河はしゃがんだまま動けなかった。自分は今、勝てない勝負をしているのではないか……と我に返る。剣を与えられただけで、特に身体能力が底上げされたわけでもなく、魔物に対抗するための魔法が使えるようになったわけでもない。剣一本あったからといって、勝てるわけがないのだ。


 大河は湿った地面に目線を落とし、そんなことを考えた。一方、彼の思考に相反して魔物の重々しく威圧感のある足音が近づいてくる。これが最後だ、と思うほかなかった。


 大河はふと顔を上げると、そこには魔物以外の足があった。握って力を込めればぽっきりと折れてしまいそうな、黒いスカートから覗く華奢な細い足。大河は視線をさらに上に移動させると、ジカルがこちらを見下ろしていた。


「……魔力を、使う?」


 鈴の音のような声で、ジカルは言った。

 大河は立ち上がって、膝についた泥を払った。


 ――俺は今、何をやってるんだろう。


 その言葉が、先程から断続的に彼の脳の核で渦巻いている。大河は、視界が徐々に怒りの炎の色で覆われていくのがわかった。舌打ちし、剣の柄を強く握りしめる。


 ――俺はべつに……好きでこんなことしてねえんだぞ!


 吐き捨てるように心の中で叫ぶと、同時に足と剣が一気に軽くなる。それから間髪入れず、大河は風のように目の前のジカルを通り過ぎ、魔物目がけて走る。その速度はまさに電光石火――光にも匹敵するほどの速さであった。


 大河は魔物の手前まで来ると、両足をバネのように曲げて大きく跳躍した。魔物の頭上で剣を握った右手に左手を添え、魔物の頭部へ振り落とす。瞬間、白い無数の光芒が爆散し、魔物の甲高い断末魔のような悲鳴が公園中に満ちた。

 直後、魔物は光に包まれ、やがて砂でできた塔が崩れるように崩れ落ちた。大河が地に足をついた時、無数の白い光の粒子が紺色の空へと上昇していくところだった。


 振り返れば、ジカルがいる。いつの間にか、彼女が自分のすぐ目の前に移動していたことに大河は驚いたが、平静を保ちつつ切り出した。


「魔物の攻撃……昨日とかなり違ったんだが、やっぱり属性とかって存在するのか?」


 ジカルは黙したまま頷く。大河は溜息をつくと空を見上げた。無限の夜空に点在する星たちが明滅し、時にそれは魔物を倒した際に飛散した光の粉が上昇して星に昇華されたのではないかと思われた。


 その幻想的な光景に大河は見とれていると、不意に背後から声をかけられた。


「大河、くん……?」


 聞き覚えのある、いや、いつも聞いている甘く、それでいてどこか怯えたような声。はっとし、大河は急いで後ろを振り返った。


 思った通り、そこには少し両目を潤ませ、大河を直視している好桃が立っていた。

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