「不機嫌な薔薇」
放課後、大河はまた図書室を訪れた。
そっとドアを開けて中を覗くと、すでに数人の生徒が読書していた。室内は、今日もしんと静まり返っている。本のページをめくる音だけが、僅かに図書室の中に響き渡っている。
大河はなるべく音を立てないように気を配りながら中に入り、ドアを閉めた。見渡す限り、高原はまだ来ていないようだ。
近くの机に鞄を置き、大河は図書室の中を歩いた。昨日、花凛が本を取り出していた本棚の前を通ると、大河はそこに目をやる。特に興味があったわけではないが、無意識に目を向けたのだ。
図書室全体のちょうど中央辺り。その本棚には、やはりと言うべきか、オカルト関係の書籍が肩を並べてひしめき合うように並んでいる。
――「魔界見聞録」、「日本の妖怪」、「怪奇現象の謎」、「未知生物図解」、「古代都市ミステリー」、「宇宙と夢占い」……。
高原が好きそうなタイトルばかりだ。果たして、こんな本に惹かれる者はこの学校にはどのくらいいるのだろうか、という疑問だけが大河の脳裏に浮かぶ。
図書室の静寂の中、モスキート音のような音が大河の耳を通過する。
だが、いくら待っても高原が来る気配はない。
やがて、もう帰ろうかという思いが過ぎった時、図書室のドアが開く音とともに、
「やあ、遅くなってごめん」
と、鞄を肩に引っ掛けた高原がにこにこしながら入ってきた。
周りの視線を気にした大河は、高原の腕を引いて本棚の裏に連れていった。幸い、他の生徒たちは読書に集中していたのか、二人の行動を気にする者はいなかった。
「高原、ツインクル・テールって知ってるか?」
高原と無駄話をする時間も惜しく思われ、小声で大河は単刀直入に尋ねた。
最初、高原はきょとんと大河を見つめていたが、すぐに口を開く。
「うん、知ってるよ」
高原は、そばの本棚から一冊の本を取り出した。
それを大河の前に提示し、広げてページをめくり始める。大河は、怪訝そうな顔をされると思っていたのに、予想以上に反応がよかったので逆に戸惑ってしまう。
「あったよ」
高原は顔を上げると、あるページを大河に示した。そこには、西洋画のような絵画が載っている。昨夜のドラゴンのような魔物が、何体も精巧に描かれている。
「この本にはね、魔界に棲む色々な魔物が載っているんだ。ほら、ここを見て」
高原が、その絵の中央付近を指さした。そこには、白い猫のような生物が描かれている。大河はじっと目を凝らすと、そこにある違和感を覚える。普通の猫とは何かが違うのだ。その違いはすぐにわかった。長い尻尾は二つに割れ、その周りに描かれた魔物たちは、まるで虐げられたように項垂れている。
その絵を凝視している大河の横で、高原はさらにこう続けた。
「ツインクル・テールは、西洋の神話に登場する魔物なんだ。その話によると、魔王の使いだと言われているそうだよ。ほら、ここに二本の尻尾が描かれてるでしょ? これが、ツインクル・テールの特徴さ」
高原が絵の中の白猫を指し示しながら得意げに言うと、大河の頭の中には日本の妖怪が思い浮かんだ。似たようなものを、どこかで見た記憶がある。
「日本の猫又とは違うのか?」
「……うーん。日本における猫又は黒で配色されることが多いんだけど、ツインクル・テールの場合は白で描かれることがほとんどだね」
猫又は、日本の民俗伝承に度々登場し、『百鬼夜行』にも描かれている猫の姿をした妖怪で、ツインクル・テールと同じように尻尾が二つに分かれている。しかし高原曰く、双方は全くの無関係らしい。
「そういえば、大河、どうしてツインクル・テールのことなんか知りたいの?」
不意に気がついたように、高原はきいた。非常に答えにくい質問を投げられ、大河は言い淀む。
「えっ、あぁ、ちょっとな……」
流石に、本当のことを話すというわけにもいかない。この世界には魔界が実在し、人間の世界は魔物たちによって今、危機に瀕している……などとはたとえ相手が高原でも、かなり言い出しづらいものである。教えれば、彼なら大喜びしそうだが。
ともかく、これで【ツインクル・テール】がどういうものなのかということくらいはわかった。これがジカルの言っていたものと一致しているとは限らないが、多少の手がかりにはなるかもしれない。
「じゃあ、俺、そろそろ帰るわ」
大河は身を翻して鞄を取りにいこうとすると、後ろから高原が、
「あ、この本、貸そうか?」
ときいてくるので、大河は断わった。また荷物が増えるだけだ。
鞄を肩にかけ、図書室のドアを開ける。
「待って、大河」
再び高原に呼び止められたことに少々苛立ちを覚えたが、大河は振り返った。すると彼は、何かを言い渋ったような顔で大河を見つめていた。
「今日のことだけど、ちょっといいかな」
「何だよ?」
「今日の昼、茜空が言ってたことだけど……」
またあの話か、と大河は肩を落とす。気遣いからかもしれないが、触れてほしくない話題を蒸し返されるのは、どうも気に障る。大河にとってはありがた迷惑というやつだ。
それをわかってか、高原は言葉を続ける。
「確かに、大河の思い出したくないっていう気持ちはわかるよ。でもね、こんなことを言うのは酷かもしれないけど……聞こえないように耳を塞ぐだけじゃ、駄目だと思うんだ」
「わかってる」
「ううん、わかってないね。過去を変えることはできないんだ。だから、受け入れるしかないんだよ。理不尽なことなんて誰にでもあるから。神は説いた。虐げられた者、我慢した者が、救われるんだって。大河も今を耐え抜いたら、きっといつかは報われる日が来るんだよ」
高原も、大河の元気を取り戻したいらしい。眼鏡の向こうの黒い瞳を見れば、そのくらいは理解できる。だが、今の大河には誰も信じられない。そんなもの、ただの迷信に過ぎない。
「どうせ、またお前の創作だろ?」
「そんなことないよ」
高原はそう言って、胸ポケットから手帳サイズの本を取り出した。よく見るとキリスト教の聖書だ。
「……ここに全てが書いてあるよ」
高原は聖書を開き、中身を朗読し始める。
……ここからが長くなる。そんな予感が過ぎった大河は、急いで図書室を出た。やはり、気が合うのが不思議なくらいだ。高原はマイペースで、大河とは正反対のはずなのに、何故だか今日みたいに無性に頼りたくなる。これは、何故なのだろう?
大河は急ぎ足で廊下を歩きながら、高原の言葉を思い出していた。だが、どうしても素直に受け止めることができなかった。
自分は何もしていないのに、何故あんな目に遭わなければならなかったのだ。あんなに理不尽なことばかりが起こるのはどうしてか。許せ、という方が無理なのではないのか。
大河は一階に続く階段を降り、昇降口を目指した。午後四時半過ぎ。日が傾き始め、廊下は今日も窓外から射し込む陽光によって染まっている。
中庭前の廊下からは、金楽器の音色が響いてくる。きっと、吹奏楽部が近くで練習しているのだろう。その音を聞きながら、大河は廊下を進んでいた。すると、不意に爪先に何かが当たったような感覚に、大河は足を止めた。足許を見下ろすと、そこには誰かのものと思われる鞄が置かれ、女子用のブレザーが被せられてある。
間近から、また楽器の音が聞こえる。大河はふと前を向くと、向こうで一人の女子がトロンボーンの練習をしているのが見えた。窓に向かい、まっすぐ中庭を見つめて楽器を鳴らしている。昇降口に行くためには、その女子の後ろを通らなければならない。
しばらく大河は立ち止まったまま、その様子をただ眺めていた。すると相手も大河の存在に気づいたのか、吹くのを止めて彼の方を振り向く。
「あれ、夢野じゃん。今から帰るの?」
同じクラスの聳城結紀だった。
「そうだけど……」
「今まで何してたの?」
「図書室に行ってた」
「え、何しに?」
「お前には関係ないだろ」
「ふーん。まあ、それもそうか」
結紀はふふっと笑い、天井を仰ぎながら呟いた。それが大河には嘲笑のようにも見え、気に障る。
すると、彼女はその場に楽器を置き、大河に近寄ってきたのだ。
「一回、話してみたかったのよね、あなたと」
すぐ前まで来ると、そう言いながらじっと大河の顔を眺めた。結紀は、女子としては平均的な身長だが、胸にかかるほどの長い髪と、スラッと長い足も相俟って、遠くから見るととても長身に見える。
結紀が顔をまじまじと見つめ続けてくるので、大河は居心地の悪さを感じた。
「……何か用か?」
彼女の目線をかわしながら、大河は尋ねる。
「べつに用ってほどじゃないけど」
「だったら、なんでこっち来んだよ。聳城、いつもここで練習してんのか?」
「あのね、初めて話す相手に対して、いきなり呼び捨ては失礼だと思うな」
「お前、さっき思いっきり俺のこと呼び捨てにしてただろ」
大河のツッコミに対し、結紀はとぼけたような顔をした。
「そうだっけ。そうだ、話があったんだ」
思い出したように結紀は言うが、大河にはその「話」が何なのか見当もつかない。無論、心当たりもない。
しかし、約一秒後、思いもしなかった言葉が結紀の口から飛び出した。
「もう部活はやらないの?」
唐突なその一言に、大河は一瞬、心臓を強く締めつけられたような痛みを覚えた。直後、激情のような怒りが湧き上がってくる。
「何だよ……急に……」
「あなた、前に部活やってたけど辞めたんだって?」
「……大きなお世話だ」
大河は呟くように言うと、結紀から再び目を逸らす。しかし結紀は、両手で大河の頬を挟むと強引に向きを戻した。
「人と話す時は、目を見て話してね」
あたかも、自分が目上であるかのように注意してくる。なるほど、桃山が嫌うわけだ。
結紀は大河から手を離すと、話を再開した。
「それでね、さっきの続きだけど、同じ部活の人に濡れ衣着せられたんでしょ?」
「……誰から聞いた」
「噂になってたから、調べてみただけ。それと、興味もあったし」
人の不幸に興味を持つとは、悪趣味にも程がある。だが、大河には大体予想がついた。例の一件について、事実を知っている人物は限られているからだ。おそらく、同じ部活の桃山から聞いたのだろう。あいつも余計なことをしてくれたものだ、よりにもよってこんなやつに話すなんて……と、大河はひどく落胆する。
「あなた自身は、どう思ってるの?」
さらにとどめを刺すように、結紀が尋ねてくる。
「どうって……何がだよ」
「逃げてよかった?」
まるで質問攻めだ。大河は答える気力もなくし、完全に閉口してしまった。
初めは必死に抗議していたが、誰にも信じてもらえなかった。だから、もう諦めていたが、あの女に会って再び戦う活力を見出しつつある。だが、ここでそのことを結紀に話したところで何も解決しないのは明白だ。
「噂の流布に加担したやつが、みんなから信頼されてたからな」
「だからって、諦めるんだ?」
結紀は胸の前で腕を組み、大河に鋭い視線を送る。やはり、彼の心のうちまでは知らないらしい。
大河は早くこの場から立ち去りたかったが、結紀はまだ帰してくれないらしい。それどころか、突き刺さるような視線に気圧される。まるで、蛇に睨まれているようだ。
「あんたは、それで悔しくないわけ?」
結紀はしつこく言葉を吐く。
「うるせーな、誰も俺の気持ちなんて……」
「わかるわけないでしょ!」
結紀の高い声が廊下に響き渡った。それを聞いて、大河は押し黙る。
幸い近くには誰の影もなかったが、もしも誰か通っていたら何事かと視線が集まっただろう。さらに結紀は、腕を組んだまま大河に背を向ける。
「でも……私は、そんな理不尽、絶対に許さない。……認めたくないの」
結紀はそう言うと、廊下にあった鞄と楽器を抱え、どこかへ走り去ってしまった。
もしかすると、結紀も同じような経験をしたことがあるのではないか。不意に、大河はそう思った。