「アンビバレンス」
「いつからいた?」
大河の問いには応じず、ジカルは全く同じ質問を返してきた。
この世界に価値はあるか。
ジカルから視線をそらし、大河はしばらく黙考した。おそらく、一年前の彼であればイエスと答えていただろう。しかし彼の心は今、錆びついた扉の向こうで氷のように凝縮しているのだ。もう二度と、気体には戻らないと思えるほどに。
裏切り。その言葉だけで彼は深く傷つけられた。友情など存在しない。それは偽物の繋がりに過ぎないのだ。この世界を、人間を、その誠実さをも信じられなくなってしまった。
「……価値はないな。救う価値も、存続する価値も」
「では、お前は何故、戦っている?」
大河は返答に詰まった。
確かに、自分が何のために戦っているのかわからない。この世界を救うことに価値などないのに、むしろ破滅を願っているのに、何故。
大河の脳裏に、またしても好桃の顔が浮かび上がる。彼女は相変わらず、可憐な一輪の花のような微笑みを送っていた。
――誰も、アイツのことなんて……。
大河が心の中で呟いた瞬間、急に右手の剣が軽くなったような感覚に包まれた。だが、気にすることなく大河は首を振って余計な邪念を払い落とす。
――べつに、これはあいつのためじゃない。そうだ、ただムカつくから戦っているだけだ。俺はこんな世界、大っ嫌いだ!
また剣が軽くなる。大河は右の脇を締め、右肘と左足を引いて地面を蹴る体勢に入った。
魔物が再び、大河をぎろりと睨み、首を前に突き出して今にも襲いかからんばかりに唸る。そして、怨嗟を含んだような雄叫びを上げ、魔物が二枚の翼を大きく広げて飛び立とうとした――その瞬間。
大河は勢いよく地を蹴り、光のごとき速さで駆け出した。急激に魔物との距離が縮まっていく。10メートル……5メートル……1メートル……その距離はあっという間に狭まり、僅か数センチというところまで迫った時、後方に構えた剣で横薙ぎに魔物を斬りつけた。
光の爆発が起こり、公園内を眩い光線が貫いた。静まり返っていた木々が激しく揺れ、噴水も中の水を大きく揺らし、それが全部なくなってしまいそうなほどの勢いで周囲の地面に水を撒き散らしていた。
大河は擦り傷ひとつ負うことなく着地した。無意識に閉じていた目を開くと、そこには魔物の姿はなく、まるで衣類から出た埃のような白い光の粒子がいたるところに浮遊しているのみであった。
大河は一つ深呼吸すると、後ろを振り返り、そこにいたジカルに剣先を向けた。
「いいか、俺はこの世界が嫌いだ。それはこれからも変わることは絶対にない。一度傷ついた人間は……二度ともとの綺麗な心に戻ることはないんだ!」
ジカルは何も答えず、じっと大河を見続けている。それでも、大河は言葉を続けた。
「さっきも話したが、俺は俺自身を守るために戦う。人間の世界のためでも、魔界のためでもない」
ジカルは無言のまま頷いた。その時、剣にまた重量が戻っていくように感じ、大河はそれを両手で地面に突き刺した。今更のように鼓動が速まり、息も絶え絶えになる。すると、ジカルがその場を動かずに言った。
「これでわかった?」
「……何がだよ」
息切れしている大河は、疲れも手伝ってか、眉間に皺を寄せながらきいた。
「お前はさっき、魔力を使った」
「魔力……?」
「素直にならないほど、魔力は上昇する」
そんなことを話すジカルに、きょとんと不思議な目を向ける大河だったが、その言葉の意図するところが先程よりは見えていることに気がついた。
「つまり、俺は本音ではこの世界が滅んでほしくないと、そう思ってるっていうのか?」
「そう」
「ふざけるな。さっきも言っただろ、俺はもう二度と、この世界を好きにはなれない。あんな人間を生んだ、こんな世界なんて」
ジカルは無表情のままだが、少し悲しそうに目を伏せた。大河は地面に刺さっていた白剣をもう一度、両手で力強く引き抜くとそれを横に抱えてジカルに歩み寄り、
「返すぜ」
と言い、渡そうとした。だが、ジカルは小声でこう呟いた。
「再収納」
「は?」
大河はまた少し眉を寄せ、不快そうにジカルを見つめた。そうすると、ジカルは顔を上げてさらに言葉を発した。
「唱えてみて」
妹が兄にねだるような声で懇願され、大河は思わず彼女と同じことを唱えた。
「……リ・ストリング……?」
瞬間、大河の両手に乗っている白剣が再び輝きを放ち出し、やがてその形はうねった数本の光芒となり、みるみる彼の右手に吸い込まれていった。その間、大河は硬直して目を見開き、その様子にただ見入っていた。
光が完全に大河の腕の中に消えると、ジカルは言った。
「剣を再び召喚するには手の模様を一筆でなぞり、収納する時は《リ・ストリング》と唱えればいい」
大河は、自分の右手を見つめた。甲の部分には、やはりあの忌まわしい星が刻まれている。それをしばらくじっと眺めていた大河は、ふと顔を上げた。
「ジカル。さっきお前、魔物は数千匹いるって言ったよな。それ、俺一人でどうにかできる数じゃないよな?」
問うと、ジカルは濃紺色の瞳を僅かに動かし、視線を大河の右手に落とした。
「不可能ではない」
「不可能だよ」
言い切ったジカルに、大河は間髪入れずに答える。
この世界に数千匹の魔物がいるとなると、それらをすべて退治し終えるのに少なくても何百年の月日を費やしてしまう。大河は思い悩んだが、なかなか良さそうな策が見つからない。そもそも、たった一人で数多の魔物を駆逐しろという注文自体に無理がある。
そう思って、考えるのをやめかけた時、大河はふとあることを思いついた。それを、ジカルにも提案してみる。
「なあ。考えたんだけど……政府とかに言って軍隊とか出してもらった方がいいんじゃね?」
信じてもらえるかは別として、という大河の最後の望みだった。しかし、ジカルから返ってきた言葉はこうだった。
「政府の人間に、必ずしも魔視を持つ者が存在するとは限らない。魔物は、人間が気づかないところで繁殖する」
やっぱりか、と大河は少し肩を落とした。いや、しかし初めから当てにはしていなかったのだ。そこまで気に病む必要もない。第一、政府に魔物のことなど話しても変人扱いされるのが関の山なのだから。
それなら、解決策などどこにもないのではないか? と大河は思った。詰み、という単語が彼の中に芽生え始める。だが、引き受けてしまった以上、そう易々と投げ出すわけにもいかなくはある。
「他に、魔物を一遍に片付ける方法はないのか?」
気休め程度にきいてみる。が、正解だったらしい。ジカルは「ある」と答えたのだ。
「……ある?」
「一つだけ、ある」
と言った後、ジカルは言葉を継いだ。
「それは、【TWINKLE TAIL】を探し出すこと」
「な……何だ? ツインテール?」
またしても聞き慣れないワードの登場に、大河はまた口許に困惑の色を浮かべる。
そんな大河を見て察したのかどうか、ジカルは言った。
「ツインテールではなく、ツインクル・テール。魔界における、守り神のような存在」
「それが、魔物と何の関係があるんだ?」
まだよく内容が掴めず、大河が質問するとジカルは少し間をおいてから、話し始める。
「数万年前、三つの世界が存在していた。天界、人間界、そして魔界。人間界では主に人間が暮らし、魔王が統治している魔界では、魔族が暮らしていた」
どうやら、大事な話のようだ。大河は黙って、彼女の話に耳を傾ける。
「魔族は人間界に出入りでき、人間界の者とも交流があった。また、当時の人間はほとんどの者が魔族を見ることができた。それは世界を恨んでいるからではなく、生まれつき見えた」
「なんで、見えなくなったんだ?」
思わず、大河が口を挟む。
「その原因は、天界の神にある」
ジカルは答えた。
「天界の神?」
「天界は、神によって統治されていた。神は、人間や魔族の様子を見守る存在だった。そんなある日、魔族が人間界の作物を魔界に持ち去ってしまった。人間界のものを無断で持ち去るのは、魔界の掟により固く禁じられていた。その行為に神は怒り、魔王と終わりなき戦いを繰り広げることになった。やがて戦いに敗れた魔王は、二度と魔族を人間界へ行かせないために、自ら二つの世界を遮断してしまった」
ジカルの話を聞いた大河は、思い出した。高原が、似たようなことを言っていた気がする。
「その話……友達から聞いたことがある。確か、神話にあるって……」
「おそらく、当時の人間が書き記したものが、伝承となって今に受け継がれている。人間は数万年という月日の中で、魔界のものと関わりを持たなくなるうちに、それらを見る力を失ってしまった……」
ジカルは言った。しかし、先程の話と何の関係があるのかまでは不明だ。
だが、大河が尋ねるよりも先に、ジカルは語り続ける。
「例の一件以来、ツインクル・テールは魔王の命により、【魔界門】の前で門番をしていた」
「魔界門?」
「人間界と魔界を結ぶ、魔王によって作られた門。それが魔界門。その門全体に結界を張り、魔物や魔族が人間界に出ていかないように牽制していた。ツインクル・テールは、ずっとその世界の秩序を守り続けていた……」
そこまで話し終えた時、ジカルは少し俯いた。大河はその様子を不思議に思ったが、すぐにジカルは顔を上げて言葉を続けた。
「しかし、何らかの原因により、ツインクル・テールがこの世界に出てきてしまった。よって結界は崩れ去り、他の魔物たちもこの世界に出てきてしまった。ツインクル・テールを魔界に連れ戻さない限り、この人間界から魔物は消えない。よって、人間界が魔物によって支配され、侵食されるのは時間の問題」
「その……ツインクル・テールも、この世界を恨んでる人間にしか見えないのか?」
大河がまた質問をすると、ジカルは頷き、続いてこう話し始めた。
「魔視は基本的に、この世界に対して憎悪の感情がなくては得ることができない」
現在、《魔視》を持たない人間は、魔物を含む魔界の住人の姿は視認できない。だが一説によると、憎しみや厭世観といったいわゆる「負の感情」が、潜在意識の奥底に眠る視神経を刺激し、本来人間に備わっているはずの「魔族を可視する力」を呼び覚ますという。
しかし、ジカルは次にこのようなことを語った。
生まれつき《魔視》を持つ者も人間界に数人はいると言われていて、その原因は明らかにされていない。また、過去にも魔物が数体、この世界に出てきてしまったことが幾度かあったが、人間に見つかったという報告はなく、その話はただの迷信ではないかと魔界では囁かれているそうだ。因みに、それはツインクル・テールの体調不良によって起こった事態だったが、幸いそれほどの数ではなかったため、その時は魔界の者たちだけでなんとか対処できたようだ。
大河はこれまでのジカルの話を聞いて、現状や魔界と人間界の関係はなんとなく理解できたが、いくつか不満点があった。それらを代表して、その最たるものをジカルにぶつける。
「そんな大事なこと、もっと早く言ってくれませんかね?」
「人間が必要とする情報を吟味し、理解可能の範囲で咀嚼して話しただけ」
無表情のジカルはそう言うが、その意味すらもよくわからない。大河は不意に溜息をついた。
しかし、その【ツインクル・テール】というのが、次に問題提起されるべき項目となることは間違いないだろう。第一、それはどういうものなのだろうか。守り神、番人とジカルは言っていたから生物だろうということくらいはわかるが、それ以外はさっぱりだ。
「……で、そいつはどんな姿をしてるんだ?」
続いての大河の問いに、ジカルは小鳥のように首を傾げる。それに若干の気まずさを覚えた大河は、きき方を変えてやることにした。
「じゃ、じゃあ、それは生き物なんだよな?」
「そう」
ジカルは即座に頷く。
「人間界の生き物でいえば、これに似てるとかあるか?」
次にそう問うが、
「似てる、とは?」
と、またもやきょとんとした顔で問い返してくるジカル。無表情に変わりはないが、それは明らかに疑問形に聞こえた。
仕方ないので、例を出してやることにする。
「例えば、ほら、犬に似てるとか……」
「犬?」
まだよくわからないようだ。おそらく、ジカルは人間界の生物については無知らしい。だが特徴を教えてもらえないことには、願われても探しようがない。
大河が一人で頭を捻っていると、突然ジカルが、
「体は白色、大きさはこのくらい」
と言って、両手を使って説明してくれた。ちょうど、小型犬や猫ほどの大きさだ。
最後に、
「尾が二本ある」
と、付け加えられた。大河にはそれが妖怪として脳内スクリーンに映し出されたが、大体の特徴は把握できた。
「……わかった。じゃあ探してやるから、一つだけ約束してくれ」
「約束……?」
聞き覚えのない言葉なのか、ジカルはまた首を傾げた。彼女も人間らしい仕草ができるようだが、今はそのことには触れず、大河は続ける。
「もし、そのツインクル・テールとかいうやつを見つけたら……もう二度と、俺の前に現れないって誓えるか?」
「……了解した」
「よし。じゃあ、俺は帰るからな」
大河は帰路に着くため、ジカルの横を通り過ぎる。
明日、高原にでもきいてみよう。あいつは魔界に詳しいから、もしかすると「ツインクル・テール」とやらについても何か知っているかもしれない。
……などと考えながら歩いていると、再び睡魔が目を覚ましたように大河を襲う。
――今日は、ほんとに変なことばかりあったな。
頭の中でそう呟きながら、なんとなく後ろを振り返ってみると、もうそこにはジカルの姿はなかった。
どこへ行ってしまったのだろう……というようなことはなるべく考えないように努め、大河は前へ向き直り、急ぐように家へと足を進めた。
一章、完結でございます。