「偽物の友情」
去年の冬、大河がサッカー部に所属していた時のことだ。一年生ながら試合に出て活躍し、それは部活内だけではなく、校内中に広まるほどであった。だが、それが他のチームメイトの心を、知らない間に傷つけていた。
大河と同じサッカー部に所属していた、大津という生徒。彼も大河と同学年で、ほぼ同時期に入部した。大津は大河ともよく話し、練習後もグラウンドに居残ってシュート練習をしたりしていた。
大河が初めて公式試合のベンチ入りメンバーに選ばれた時、大津も笑顔で祝福した。大河はその後も鍛錬を重ね、次に先輩をも押し退けてスタートメンバーとしての位置をもぎ取った時も、彼は笑顔を絶やさなかった。大河に対して、憧憬のようなものを抱いていたのだ。
しかし、仲間の大河が成長していくに連れ、大津は次第に孤独感を覚えるようになっていった。同時に入ったはずなのに、半年ほどの間に友人に大差をつけられてしまった。一人だけ、取り残されてしまったように思えてならない。それはやがて、憧憬から羨望へと変わり、さらに嫉妬へと変化した。
その持て余した感情は、大津を不本意な行為へと導く結果になった。やってはいけないことだと知りつつ、彼はある噂を流すことを思い立ったのだ。ロッカールームで大河が隠れて喫煙していた、と。
だが、自分が言ったところで誰も信じないだろう。そう思った彼は、父親の煙草の箱を持ち出し、最も仲のよかった先輩に「これが大河の鞄の中に入っていた」と嘘をついた。さらに、大河が他のチームメイトを不当に蹴落とそうとしている、と先輩に泣きつきながら話した。
人のいい先輩は、そのことを鵜呑みにしてしまった。その先輩は当時、サッカー部の部長を務め、人望も厚く、教師からも信頼されていたのだ。だから、話を耳にした部員たちはそれらをすべて真に受けてしまったのだ。大河は無実だと何度も主張したが、顧問ですらそれを信じ受け入れようとしなかった。
勿論、大河は最初は自分のクラブメートでもあり、友人でもある大津が噂を垂れ流した張本人だとは思わなかった。だが、誰も信じられなくなった大河は、最後の望みとして彼のところに行った。そして尋ねた。何か知っているか、と。
大津は何も答えなかった。その時、ようやく大河は悟ったのだ。この男が、事実無根の噂を流すことを企て、自分に濡れ衣を着せた犯人だと。
顧問が例のことを他の教職員たちに触れ回ったことで噂は学校中に広まり、大河は停学処分となってしまった。
その後、退部届を出しに行った際も、大河は元チームメイトから疎い視線を浴びせられた。その事件を経て、彼の手に残ったものは僅かだった。ほんの少しの友人と、あとは――
大河は胸の奥に鈍い痛みを覚え、現在に意識が引き戻された。同時に、激しい憤りが腹の底から火山から噴き出すマグマのように、勢いよく沸き上がってくる。憎悪の色で真っ黒に塗り潰され、それでいて諦めの色も少々混じった、そんな怒り。
何故、自分がこんな目に遭わなければならないのだ。何故、人は嫉妬し、裏切るのだ。一体、何を信じて生きればいいのだろう。何を憎めばいいのだろう。感情を付与し、欲望という血に塗れた人間を作り出した神を憎めばいいのか? いや、神などいない。いるはずがないのだ。いないからこそ、あんな理不尽なことが起こるのだ。
人間が……世界が……この世のすべてが憎い。
いつの間にかまた目線が地面に落ちていることに大河は気づいたが、顔を上げる気にはならなかった。すると、すぐ前に気配を感じた。そっと顔を上げてみると、ジカルがじっと大河の目を見ている。何でも吸い込んでしまいそうな、暗澹たる闇を湛えた青い瞳で。それは、死人のような眼にも映った。
ジカルは大河を見つめたまま、こう問いかけてくる。
「お前は、この世界を恨んでいる……?」
「……ああ、恨んでるよ」
大河は、川の上流で勢いよく流れる水のように躊躇うことなく答えた。
――こいつは、俺の過去を知っているのか?
同時に、そんな疑問が浮かんだ。だが、そんなこと今は知ったことではない。どうでもいい。すべてが、もうどうでもいいのだと大河は心の中で繰り返した。その感情の渦の中心に現れたのは、かつて彼を裏切り、陥れた元友人の、嘲笑したような顔だった。
「なんで俺だけ……俺の話なんて、誰も聞いてくれない……。なんでなんだよ……頑張ったやつが報われず、薄汚い手で泥だらけの快楽を手にしたやつが、甘い汁を吸う。俺が何したって言うんだ……なんで……」
大河の肩はいつしか震えていた。すると、ジカルが小さな声で囁くように言った。
「人間とは、そういう生き物。嫉妬し、騙し、己の快楽のみを求めて足掻く。その醜い渇望をも他人の目を晦ませ、内面に押し込むことで外面の体裁をよく見せようとする。それによって、さらに利己欲求が高まる」
「………………」
これ以上は聞いていられないと、大河はまた両耳を覆った。二度と思い出したくない過去がある。封印していた記憶が、僅かに地面を穿ち、顔を出してくる。
これ以上、彼女に関わるわけにいかない。
大河は、ジカルに背を向けた。
「魔界がどうしたかは知らないが、俺は協力できない。悪いが、諦めてくれ」
そう言うと、再びジカルの声が背中に返ってくる。
「魔物はお前を狙っている」
大河は、それを聞いて踏み出しかけた足を戻し、ジカルの方を振り向くと尋ねた。
「どういう意味だ?」
「魔物は、魔視を持つ人間とそうでない人間を判別することができる。魔物は魔視を持たない人間には攻撃しない。しかし、魔視を持つ人間は魔物を攻撃できる。よって、己にとって脅威の対象になる。……魔物は、お前を狙っている。つまり、殺しにくるということ」
「は?」
大河は思わずやや大きめの声を漏らすと、再びジカルと向かい合った。ジカルは黙っている。どこまで理不尽なのだろう。しかし、それならそれでいいとも思える。初めから希望をほとんど失い、この世界で生きていく価値さえわからなくなりつつあるのだ。かと言って、自ら死ぬ勇気もない。
魔物に喰われるのはあまりかっこいい死に方とは言えないが、それでも構わない。
――どうせ、もう、誰も俺のことなんか……。
そんなことを考えていると、ジカルがまた口を開いた。
「お前は、世界の破滅を望んでいる……?」
……そうかもしれない。
「そうだな。こんな世界なら……滅んでしまえばいいんだ!」
胸中にあった憎悪が部分爆発を起こし、大河は衝動に任せて叫んだ。
「まあ、ちょうどいいや。〝何もしないこと〟が世界の破滅に結びつくなら、それでいい」
理不尽な世界。そんな世界が滅ぶことに、何の迷いがいるというのだろう。
大河は目を閉じ、激しく興奮した感情を落ち着かせようと息を吸う。四月といっても、夜風は少し肌寒く感じられる。冷たい風が体内に流れ込み、血液のように身体中を駆け巡り、腹の底で燃え盛る炎を――鎮めてはくれなかった。
再び両眼を開けた大河の視線の先には、すでにジカルの姿はなく、ガサガサという音を立てながら、草木がただ風に揺れているだけだった。
大河はその場に座り込んだ。ジカルは、諦めて帰ってしまったのだろうか。
――こんな世界、なくなってしまえばいい。滅んでしまえばいい。
それだけを、大河は何度も頭の中で反復していた。
ふと公園の前の道路を見やると、自動車が急ぐように走ってくるのが見えた。車が彼の視界を通過する瞬間、世界は眩い黄色の光に包まれた。しかし、車が遠ざかるに連れて光は薄れ、やがて見えなくなった。耳元では、際限なく草や木の葉の合奏が響く。
大河はまた瞼を閉じると、しばらくそれらの音色を楽しんだ。もう何も考えたくなかった。だが、それは自分の居場所を探していたとも言えたかもしれない。
不意をつくように、ポケットの中で何かが振動する。大河は我に返ったように目を開くと、上着のポケットからそれを取り出した。携帯だった。ロック画面には、好桃からのメッセージが通知されていた。
『今日はありがとう』
という、簡単な内容だった。どうやら、好桃はまだ起きていたようだ。
その時、予期せず大河の脳裏に好桃の笑顔が過ぎった。彼女は、大河が喫煙の懐疑をかけられても、最後まで彼を裏切らなかった。今でも、どんな時も笑顔を絶やさない。どんなに辛い時でも、馬鹿みたいに笑っている。きっと、この世界が大好きなのだろう。
大河も、幼い頃に好桃の笑顔に何度も助けられた。落ち込んでいても、いつも彼女が元気をくれた。あまり口に出したことはないが、彼女には尽く感謝しているのだ。幼馴染として早く自立してほしいと思う反面、何があってもそばで守ってやらなければならないとも思っているのだ。
世界の破滅は、彼女の気持ちを思慮すれば、望んではいけないことだったのかもしれない。彼女を傷つけないためにも、決して。
「……クソッ!」
大河は吐き捨てるようにそう呟くと、勢いよく立ち上がってジカルを探しに行った。